北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

天の道と人の道

2007-02-19 23:22:26 | 古典から
 今日から明日にかけては東京出張です。そうか、今年になって初めての東京です。暖かいんだろうなあ。

【天道と人道】
 今週末の金曜日に苗穂地区でまちづくりに関する講演をすることになっています。

 苗穂地区といえばやはり大友亀太郎の大友堀に触れなくてはなりませんし、当然「報徳の教え」にも触れることになるでしょう。

 そのため、東京出張の移動時間を利用して改めて二宮尊徳に関する本を読んでいるのです。付け焼き刃といえば付け焼き刃ですが。

    *   *   *   * 

 「二宮翁夜話」というお話の中に「天道と人道」という話が出てきます。

 天の行う道と人の行う道ということで、尊徳先生はこの二つを「天道は自然に行われる道で、人道は人の立てる道だ」と、厳格に区別しています。

 曰く「天道にまかせておけば、堤は崩れ、川は埋まり、橋は朽ち、家は立ち腐れとなる。人道はこれに反して、堤を築き、川をさらえ、橋を修理し、屋根をふいて雨のもらぬようにするのだ」ということです。

 また「天には善悪というものがない。それゆえ稲も雑草も差別せずに、種のあるものはみんな生育させ、生気のあるものはみんな発生させる。人道はその天理に従いながらも、そのうちでそれぞれ区別をして、雑草を悪として米麦を善とするように、全て人の身に便利なものを善として、不便なものを悪とする」とも言っています。

 人が人として社会を築いて暮らしやすいように工夫と努力を重ねて行くことは、漫然としていて天から得られるものではなく、祖先から今に至るまで営々と積み重ねてやってきたおかげなのだ、ということを尊徳翁は強調するのです。
 
「人の卑しむ畜道は天理自然の道である。尊ぶところの人道は、天理に従うのであるが一方また作為の道であって、自然ではない」

 動物の生き方は、雨に濡れ日には照らされ、食べ物があれば飽きるまで食べ、なければ食べずにいるというもので、これはまさに自然の道そのものです。

 それに対して人間の生き方というものは、住まいを作って風雨をしのぎ、蔵を作って米穀を蓄え、衣服を作って寒暑をささえ、四季を通じて米を食べるというものであって、これこそが作為の道というわけです。

 尊徳先生は「自然の道は万古すたれないが、作為の道は怠ればすたれる」と断言します。

「ところが世人は、その人作の道を天理自然の道と思い誤るために、願うことがならず、思うことがかなわず、ついに我が世は憂き世だなどという言うようになるのだ」

 食べたいものを食べたいだけ食べ、したいことをしたいだけし続けることがいかに人の道として誤っているのか。「己に克つ」ことが人の道である、と強調し続けるのです。

 自然に流れるままに身を置くことは、人として許されることではない。自分の中に善悪の分別をつけて、善の方向に向かうように飽くことなく倦むことなく努力し続ける姿こそが人として美しい姿なのです。

 これこそまさに万古不易なり、ですね。   
コメント
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