『なぜローカル経済から日本は甦るのか』(冨山和彦著 PHP新書)を読みました。
この本の着眼点は、著者がある経済官僚と会話をしていて「どうもアベノミクスの第三の矢がピンとこない」と言ったことから始まった知的双発(ママ)から誕生したと書かれています。
著者が「ピンとこない」と言ったのは、アベノミクスでイメージされている成長戦略は大手製造業やIT企業などのグローバルな世界で成長を目指す企業を意識したメニューなのではないか、と感じたから。
著者の冨山さんはいくつもある経歴の中で東北の"みちのりホールディングス"という公共交通事業を行う会社を経営している中で、地方でも人出不足が顕著になっているという認識と実感をもっています。
それは国全体の少子化に加えて、都会へ若者が向かって行く社会的移動のために働く人が地方にいなくなっているからです。
グローバルな企業だったら、日本の労働者賃金が高いと思えば中国へ工場を移して労働者を集めればよいし、中国でも都合が悪くなればベトナムやミャンマーへ移したって平気です。
ところが東北地域のバス会社となると、ベトナムに運転手がいても仕方がなくて、地域に住む人に運転手になってもらって動かすバスに地域の人が乗るという構図。つまり経済も労働も、地域限定のローカルなエリアでしか回っていない。
それなのにグローバルな成長産業を支援して世界に羽ばたいて外貨を稼ぐ…と言われても、それが地方の経済や生活にどう影響するのだろうか、と考えるとどうにもピンとこない、というわけです。
そこでかの経済官僚氏は、「…ということは、グローバルな経済圏で活動する産業、企業、人材に関わる話と、ローカルに密着せざるを得ない経済圏の問題は、かなり様相が異なるというわけですね」と言い、その言い方にストンと落ちる何かを感じたのでした。
今まで議論されてきた経済政策論争は、たとえば『新自由主義vs.社会民主主義』とか、『マネタリストvs.ケインジアン』といった、どちらが正しいのか、どちらの政策を取るのかといった二項対立的な対決的な論調でした。
ところがどうやらグローバル(G)とローカル(L)という二つの経済は違う性質のものらしい、という直感を頼りに、「GかLか」ではなく、GはGとして、LはLとして最適な政策は何か、ということを観察して考察してみると、案外「GもLもいけるのではないか」という仮説に到達したのでした。
日本の企業活動で言うと、Gの世界で戦う大企業はGDPの30%ほどでモノ作りが中心、雇用者数で言うと数%くらい。一方Lの世界で暮らす中小企業はサービス産業を中心にしていて我が国GDPの60~70%を占めています。
Gの世界とは世界中の覇権を狙う企業群が新しい技術開発と原料や労働者の資源調達、そしてコストダウンに明け暮れており、一たび判断を誤ったり競争に後れを取るとみるみるうちに淘汰されてしまう厳しい戦いの場。
それに対してLの世界は、先んじればそれだけで勝てる様な不完全な競争の中で、サービス業などに代表されるようにそこで生産されたものをそこですぐ消費するという形の閉鎖経済です。そうした需要は確かにあるために空洞化は起きにくく、一方で労働力がなくなれば成り立たないのですが、だからといって他に移るわけにもいかないというまさに地域と密接不可分の場なのです。
著者の冨山さんは、思考実験の結果として「GはGの世界があって、LにはLの世界があり、相互の世界で頑張りながらそれぞれをもり立てることはできる」という考えに至っています。
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ユニクロが先日、会社で雇用している非正規社員の大多数を正規職員とする、という発表をしましたが、これは非正規社員が可哀想だ、というようなヒューマニズムからではなく、しっかりとした労働者を囲い込まなくては地方で
は優秀な人材をとどめておくことはできない、と判断したからにほかなりません。
現在は雇用がないかあるいは低賃金の仕事しかないために都会に出ざるを得ない若者も多い状況です。しかし今後は地域での賃金を上げざるを得ない局面が出てきて、それを少しは社会が支える様なことで、大都会で子育てしにくいと感じるような若者が地方でほどほどの暮らしをしながら子育てをする暮らしを求める局面が出てくることが可能ではないか、と著者は言います。
そしてGを目指す若者には世界へ向けて頑張ればよいし、地方のLの世界で暮らす若者はそこで地域を支える暮らしに誇りと矜持とそこで相応の収入を得て幸福感を感じる様な暮らしこそがLの世界のゴールで、それはそれで良いのだと著者は言います。
地域には大儲けはできなくても、雇用を守って地域の人々から喜ばれそこそこやれれば良く、そこにこそ意味がある仕事がある。公共交通や介護、旅館などはそういう意味なのだと。
ただしここでの留意点は、ローカル経済ではしばしばあまりに非効率な企業なども生き延びられるような支援策がありすぎて、そのためグダグダな経営の企業が平気で存在していてそのために労働者の賃金も上がらないような事例が見受けられることで、だからこそそうした企業には【緩やかな退出】を求める様な社会的コンセンサスや制度が必要だということ。
どんな企業でもとりあえず潰さずにいるというのは労働者が余り気味だった時代の政策で、これからの日本はそれではローカルでもやっていくべきではなく、効率化は徹底的に推し進めて少ない人間でより多様な経済を生み出して収入を増やすという方向に舵を切らなくては少ない労働者で地域を支えることが難しくなると考えています。
結論として、これからは地方での労働力が不足するから地域での雇用は増えて、そこで賃金を上げざるを得なくなるので地方にする若者がもっと増えるような社会になるのではないか、あるいはそうする方が良い、というのが著者の一定の結論です。
新しい切り口の視点にはうなづける点が多く、あるべき論として非常に感じるところが多い内容でした。
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しかし、現実にそこへもっていくための政策としてどのようなことができるのか、ではそれをすることで都会も地方もwin-winの関係になれるのだろうか、と考えるとどうもゼロサム、つまりどちらかがうまくいけばどちらかがマイナスになるということになりそうに思います。
バスの運転免許という同じ技能を持っている二人が、都会では600万円の収入、地方では400万円となったときにその格差を甘んじて受け入れられるのか。
都会の何でもある暮らしと医療や教育などで制約の多い地方の暮らしを同等に考えられるのか、といった問題。
また地方が豊かになるということは逆に言うと、東京を地方に比べて住みにくくして暮らしにくくするような政策ということになりますが、世界都市東京が魅力を失うようなことに果たしてなるのかどうか。
東京がやはり魅力的である限り、地方から東京へ大都会へと出てきて夢を見る若者は多いだろうということは想像がつきます。
このような世界をどう考え果たして実現するのかどうか。日本にとっての難しい選択のように思います。
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もう懐メロになってしまうかもしれませんが、かつて太田裕美さんという歌手がいて「木綿のハンカチーフ」という名曲がありました。
歌詞の描き出す物語は、地方に暮らす恋人同士のうち男性が都会へ出てゆきそこの魅力に取りつかれ変えることができなくなる。地方に残る女性が最後にねだるプレゼントが涙をふく木綿のハンカチーフというものでした。
この本を読んでいてこの歌を強く思い出しましたが皆さんはどのように感じられるでしょうか。
まちづくりを志す方はぜひご一読をお勧めする一冊です。
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