行楽日和の三連休。関東地方は今日明日は天気が良さそうです。
行楽地へ向かう高速道路は朝から混雑していたみたい。郊外へのドライブも良いですが、私の週末は東京巡りです。
今日も文京区の春日から出発して北東方向に走ります。菊坂というところで樋口一葉の旧居跡というところがありました。看板がよく分からずに当たりをうろうろしてまた元に戻ります。たまには探せないということもあるもので。
続いて本郷の東大敷地を南北に分ける言問通の坂を上っていると、右手に木造三階建ての古そうなとんでもない建物がありました。
「こ、これは一体…?」


近くへ寄ってみると、どうやらだいぶ昔に建てられた木造の下宿のようです。入り口には「本郷館」と書かれていますが、由緒や看板は特にはありません。そこで家に帰ってきてからネットで調べてみると、確かにこの「本郷館」は明治時代に建てられた下宿なのだとか。
入り口には「見学禁止」の張り紙があるだけで、今でも学生さんが生活をしている様子は伺えました。本郷は東大があるだけではなく、学生さんが住むまちでした。
※ ※ ※ ※
今日は天気がよいので自転車も快調。「恐れ入谷の鬼子母神」と詠われた入谷の鬼子母神にもご挨拶。子供の健やかな成長をお願いしてきましたよ。

※ ※ ※ ※
さて今日の一つの目的は吉原界隈の散策です。かつては江戸幕府公認の遊郭でしたが、昭和33年の売春防止法の施行により公認ということはなくなりました。
その後には地名の変更により「吉原」という地名もなくなって、今は千束(千束)3、4丁目という味気ない地名になってしまっています。実際に当たりをうろついてみると、地名はなくなっても、実際には今でもその手のお店が軒を連ねているので、色街の持つ独特な雰囲気です。
そしてこの周りの地図を見ていると、おお、ここに一葉記念館があるではありませんか。なるほど~、さっき旧居跡にたどりつけなかったのはここにいらっしゃい、という意味かも。今日は樋口一葉に招かれたようです。

一葉館に到着してみると、ずいぶんと近代的なデザインの建物です。樋口一葉は、この吉原の隣町だった当時の竜泉寺町に住んで商売をして生活をしていたことがあって、そのときの経験や風景感が小説「たけくらべ」に結晶しました。
そのことを地域の住民の皆さんが大切に思って、地域で土地を購入してそれを区に寄付するなど、一葉の記念館を作りたいという地域の熱い思いを行政も受け入れて、旧館は昭和36年に建てられ、それが平成18年に建て替えられて今の建物になっているのだそうです。
女流文学者の単独記念館としては我が国初めてのことだったそうですから、地域アイデンティティを大事にする土地柄なのが分かります。
樋口一葉は明治5年に生まれ、同29年に24才の若さで結核のためにこの世を去っています。
一葉館の展示は、一葉の人世をたどりながら、まだ女性が世に出ることが難しかった時代背景を、周辺の人たちの姿とともに教えてくれます。
小説『たけくらべ』は、いつか吉原デビューをしなくてはならない女の子と淡い恋心を中心にこの界隈が描かれていて、ここでの生活がなければこの作品は誕生しなかったとも言われているのです。
展示を見ていると、地元のおじいさんおばあさんが入ってきました。「へえ、昔はこういう地名だったんだねえ!」なんてやっています。
最後のエレベーターのところで、売り物の『吉原今昔図』が貼ってありました。図の中には明治27年、大正12年の関東大震災前、昭和20年の東京大空襲時、昭和33年の公娼廃止時、そして平成5年の5種類の地域図が書かれています。眺めているとちょうどご老人ご一行様と一緒になりました。

「この図面を見ると昔のことを思い出しますか?」
「ええ、昭和33年の図がありますが、これだとよく覚えていますよ。この下の方にね、病院があったんですよ、吉原病院ってね」
「へえ、遊女がくるんですか」
「そう、彼女たちは週に一度ここへきて診てもらったもんですよ。地域に友達がたくさんいましてね、『おい、今日診察やってるぞ、見に行くか~』なんてね。大らかな時代でしたよ、ははは」
「この界隈で遊んだりもしましたか?」
「いやいや、こんなところで遊んだら素性がばれちゃうからね」
「近くにはここの女性の関係者も多いんですか」
「千束小学校なんかはそういう方の子供も多かったよね。そういう子は髪を結い上げて着物で来たりね、ちょっと違ったね」
「風景は変わったんでしょうね」
「昔は弁天沼って沼がありましてね、今は駐車場になっちゃってるところ。よくそこで魚を釣ったなあ…」
吉原の風景も文学と記憶の彼方になっているようです。
※ ※ ※ ※
もと弁天沼があったところには観音様が祀られていました。この沼でも関東大震災で火事になったときに逃げ込んだ人が490人も溺れ死んだという記録があるそうです。こんなところにも土地の記憶として関東大震災が生きていました。
土地の記憶はいろいろな形で残るものですね。
行楽地へ向かう高速道路は朝から混雑していたみたい。郊外へのドライブも良いですが、私の週末は東京巡りです。
今日も文京区の春日から出発して北東方向に走ります。菊坂というところで樋口一葉の旧居跡というところがありました。看板がよく分からずに当たりをうろうろしてまた元に戻ります。たまには探せないということもあるもので。
続いて本郷の東大敷地を南北に分ける言問通の坂を上っていると、右手に木造三階建ての古そうなとんでもない建物がありました。
「こ、これは一体…?」


近くへ寄ってみると、どうやらだいぶ昔に建てられた木造の下宿のようです。入り口には「本郷館」と書かれていますが、由緒や看板は特にはありません。そこで家に帰ってきてからネットで調べてみると、確かにこの「本郷館」は明治時代に建てられた下宿なのだとか。
入り口には「見学禁止」の張り紙があるだけで、今でも学生さんが生活をしている様子は伺えました。本郷は東大があるだけではなく、学生さんが住むまちでした。
※ ※ ※ ※
今日は天気がよいので自転車も快調。「恐れ入谷の鬼子母神」と詠われた入谷の鬼子母神にもご挨拶。子供の健やかな成長をお願いしてきましたよ。

※ ※ ※ ※
さて今日の一つの目的は吉原界隈の散策です。かつては江戸幕府公認の遊郭でしたが、昭和33年の売春防止法の施行により公認ということはなくなりました。
その後には地名の変更により「吉原」という地名もなくなって、今は千束(千束)3、4丁目という味気ない地名になってしまっています。実際に当たりをうろついてみると、地名はなくなっても、実際には今でもその手のお店が軒を連ねているので、色街の持つ独特な雰囲気です。
そしてこの周りの地図を見ていると、おお、ここに一葉記念館があるではありませんか。なるほど~、さっき旧居跡にたどりつけなかったのはここにいらっしゃい、という意味かも。今日は樋口一葉に招かれたようです。

一葉館に到着してみると、ずいぶんと近代的なデザインの建物です。樋口一葉は、この吉原の隣町だった当時の竜泉寺町に住んで商売をして生活をしていたことがあって、そのときの経験や風景感が小説「たけくらべ」に結晶しました。
そのことを地域の住民の皆さんが大切に思って、地域で土地を購入してそれを区に寄付するなど、一葉の記念館を作りたいという地域の熱い思いを行政も受け入れて、旧館は昭和36年に建てられ、それが平成18年に建て替えられて今の建物になっているのだそうです。
女流文学者の単独記念館としては我が国初めてのことだったそうですから、地域アイデンティティを大事にする土地柄なのが分かります。
樋口一葉は明治5年に生まれ、同29年に24才の若さで結核のためにこの世を去っています。
一葉館の展示は、一葉の人世をたどりながら、まだ女性が世に出ることが難しかった時代背景を、周辺の人たちの姿とともに教えてくれます。
小説『たけくらべ』は、いつか吉原デビューをしなくてはならない女の子と淡い恋心を中心にこの界隈が描かれていて、ここでの生活がなければこの作品は誕生しなかったとも言われているのです。
展示を見ていると、地元のおじいさんおばあさんが入ってきました。「へえ、昔はこういう地名だったんだねえ!」なんてやっています。
最後のエレベーターのところで、売り物の『吉原今昔図』が貼ってありました。図の中には明治27年、大正12年の関東大震災前、昭和20年の東京大空襲時、昭和33年の公娼廃止時、そして平成5年の5種類の地域図が書かれています。眺めているとちょうどご老人ご一行様と一緒になりました。

「この図面を見ると昔のことを思い出しますか?」
「ええ、昭和33年の図がありますが、これだとよく覚えていますよ。この下の方にね、病院があったんですよ、吉原病院ってね」
「へえ、遊女がくるんですか」
「そう、彼女たちは週に一度ここへきて診てもらったもんですよ。地域に友達がたくさんいましてね、『おい、今日診察やってるぞ、見に行くか~』なんてね。大らかな時代でしたよ、ははは」
「この界隈で遊んだりもしましたか?」
「いやいや、こんなところで遊んだら素性がばれちゃうからね」
「近くにはここの女性の関係者も多いんですか」
「千束小学校なんかはそういう方の子供も多かったよね。そういう子は髪を結い上げて着物で来たりね、ちょっと違ったね」
「風景は変わったんでしょうね」
「昔は弁天沼って沼がありましてね、今は駐車場になっちゃってるところ。よくそこで魚を釣ったなあ…」
吉原の風景も文学と記憶の彼方になっているようです。
※ ※ ※ ※
もと弁天沼があったところには観音様が祀られていました。この沼でも関東大震災で火事になったときに逃げ込んだ人が490人も溺れ死んだという記録があるそうです。こんなところにも土地の記憶として関東大震災が生きていました。
土地の記憶はいろいろな形で残るものですね。


※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます