以前から千代田区の知人に「神田神社の濃い氏子衆に会わせてくれませんか」と頼み込んでいたのが今夜実現。
場所はこれまた神田の路地の奥にあるSという居酒屋さんで、濃い神田っ子たちに囲まれて楽しいひと時となりました。
そもそも神田神社の氏子の人たちに会いたかったのは、東京でも最も活気あふれる神田明神祭を支える地域力の源が何なのか、ということや、祭を通した地域の連帯がいざというときの地域防災力にどのように繋がっているのか、ということを知りたかったからです。
さらに言えば、今は掛川市と一緒になった旧大須賀町横須賀の三熊野神社のお祭は、江戸の殿様が当時の横須賀の地に江戸の祭の様式をそのまま持ってきたもので、東京の祭が明治以降次第に変化していったのに対して、隔離分布のように昔のままに残されているという点で、神田以上に江戸らしく、その縁で今では人的な交流も盛んになっているというご縁もあるのです。
さらにさらに言えば、神田神社の主祭神である平将門公の首検分をしたといわれるところが十九首という地名で今でも掛川市内に残っているというご縁もあり、実にさまざまな曰く因縁が掛川と神田の間にはあるのです。きっと何かがあるはずだと思わずにいられません。
* * * * *
今日来ていただいたのは、全部で6人でしたが、一番の兄貴分的な存在のTさんは、開口一番「いや~、横須賀の三熊野神社祭は今年も行ったけれど本当にいいねえ!」と言うのです。
「実は私は掛川にいたことがあって・・・」と経歴をお話しすると「あ、そうかい!いやあの祭は本当に良いし、あの地域がすばらしいよね」と重ねてべた誉め。
「神田祭の主のようなTさんから見て、何がどう良いですか?」
「神田はね、昔は横須賀のような歴史的な物語の人形をつけた二輪の祢里(ネリ=屋台)だったんだけど、明治以降に神輿に変えたという歴史があるわけ。それがそのまんまに残っている。そしてお囃子も昔の江戸のそのものが残っているのも素晴らしいね」
「なるほど」
「でももっとすごいと思うのは、鳳輦(ほうれん)って鳳凰のついた一番の神輿がお通りになるときには周りが土下座してお迎えするんだよ!こんなに光景なんて他じゃ見られないよ」
神田の若頭が感動するんですから、本当にすごいんです。掛川の衆は自分の地域の外のお祭にはあまり関心がなさそうなので、どれくらいすごいか分かっているのやら・・・。
* * * * *
祢里と神輿の話になると、参加していただいていた神田明神の禰宜でらっしゃるSさんも興味深いお話を教えてくれました。
「神田のお祭も江戸時代までは祢里を引いていたんですが、明治の御維新になって文明開化に伴って電線が張り巡らされるようになって、祢里がそれをくぐれなくなって変えたんだとも言われているんですよ」
「へー」
するとまた別な方が「いや、商人は公方様が御代わりになったんだから、俺たちも変わろうという時代に媚びるような商人根性もあったんだと思うよ」
神輿の話でももう大盛り上がりです。
* * * * *
「すごいなと思ったのは、明治7年に明治天皇が神田明神に行幸された際に、『平将門はその昔天皇に弓引いた逆賊である。よって祭神から下ろすように』という沙汰があって、摂社か末社に動かれたときがありましたよね」と私。
「おやこままささん、良くご存知ですね」
「それが、また地域の熱意で昭和57年でしたか、また御祭神として復活したという話も聞きました。この神田の皆さんの将門公に対するシンパシーってどこから来るんでしょうねえ?」
「将門公が祭神から降りた後の十年はお祭がなかったんです。昔はお祭は秋だったんですが、それを十年ぶりにやったらすごい台風にぶち当たりました。将門台風なんて言われて、『将門公の呪いだ』なんてい言われました。で、それで祭の時期を5月に変えちゃったんですよ」とTさん。「へー、それは知りませんでした」
次に禰宜のSさんが「やはり将門公は、都から派遣されて地方で庶民を苦しめる官僚に対する義憤から乱を起こしたのであって、その気持ちに共感を感じるところが大きいんでしょうね。それに徳川三百年の御恩を簡単には忘れられないし、薩長に対する反骨の気持ちもあったんですよね。薩長が江戸入りするときは当時このあたりでも竹槍で立ち向かったくらいですから」
「『上からは明治だなどといふけれど、治明(おさまるめい)と下からはよむ』とか、『芋(薩摩のこと)はしもげる、おはぎ(萩=長州のこと)はすえる、五月葵(=徳川様)の花盛り』なんて言い方もあったよね」
またSさんが「やはり徳川様は、天下祭と称して江戸総鎮守の神田明神の祭だけは江戸城に入ることを許したりして、庶民の心をつかむことに本当に長けていましたね。人の心が動く要素って、経済だけじゃないんですよ」
* * * * *
「神田の祭が今でも氏子で支えられているというのは、皆さんはずっと昔から江戸の住人だからですか?」
「いや、それが結構人は変わっているんですよ。関東大震災もあったし東京大空襲もあったでしょう。でもやっぱり震災が大きかったかな。私なんかは親が大正時代にここへきてその二代目」
聞けば、新しく入ってきた初代は割りと地域に対して大人しく過ごすのですが、二代目からは地域への貢献度が評価されるし、そのうちに神田のお祭が好きになっていくということのようです。
「お祭のときは3日間公園にテントを張って炊き出しをしますからね。それは防災訓練と一緒。いざというときの練習になってますよ」
やはりお祭は地域が皆でやる最大のイベントであり、その連帯感はいろいろな方向に花開く財産になっているのです。
「こままささんって、神社に詳しくてなかなか面白いねー」
「是非今度は神社のほうへもお越しくださいね」
「もちろんですよ!これで神田明神へ行くのが楽しみになりましたよ」
神田明神にお友達ができるとは望外の喜び。神田の人たちもとても熱
くて素晴らしい人たちばかり。こういうご縁ができるのも御神徳と言えそうです。
場所はこれまた神田の路地の奥にあるSという居酒屋さんで、濃い神田っ子たちに囲まれて楽しいひと時となりました。
そもそも神田神社の氏子の人たちに会いたかったのは、東京でも最も活気あふれる神田明神祭を支える地域力の源が何なのか、ということや、祭を通した地域の連帯がいざというときの地域防災力にどのように繋がっているのか、ということを知りたかったからです。
さらに言えば、今は掛川市と一緒になった旧大須賀町横須賀の三熊野神社のお祭は、江戸の殿様が当時の横須賀の地に江戸の祭の様式をそのまま持ってきたもので、東京の祭が明治以降次第に変化していったのに対して、隔離分布のように昔のままに残されているという点で、神田以上に江戸らしく、その縁で今では人的な交流も盛んになっているというご縁もあるのです。
さらにさらに言えば、神田神社の主祭神である平将門公の首検分をしたといわれるところが十九首という地名で今でも掛川市内に残っているというご縁もあり、実にさまざまな曰く因縁が掛川と神田の間にはあるのです。きっと何かがあるはずだと思わずにいられません。
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今日来ていただいたのは、全部で6人でしたが、一番の兄貴分的な存在のTさんは、開口一番「いや~、横須賀の三熊野神社祭は今年も行ったけれど本当にいいねえ!」と言うのです。
「実は私は掛川にいたことがあって・・・」と経歴をお話しすると「あ、そうかい!いやあの祭は本当に良いし、あの地域がすばらしいよね」と重ねてべた誉め。
「神田祭の主のようなTさんから見て、何がどう良いですか?」
「神田はね、昔は横須賀のような歴史的な物語の人形をつけた二輪の祢里(ネリ=屋台)だったんだけど、明治以降に神輿に変えたという歴史があるわけ。それがそのまんまに残っている。そしてお囃子も昔の江戸のそのものが残っているのも素晴らしいね」
「なるほど」
「でももっとすごいと思うのは、鳳輦(ほうれん)って鳳凰のついた一番の神輿がお通りになるときには周りが土下座してお迎えするんだよ!こんなに光景なんて他じゃ見られないよ」
神田の若頭が感動するんですから、本当にすごいんです。掛川の衆は自分の地域の外のお祭にはあまり関心がなさそうなので、どれくらいすごいか分かっているのやら・・・。
* * * * *
祢里と神輿の話になると、参加していただいていた神田明神の禰宜でらっしゃるSさんも興味深いお話を教えてくれました。
「神田のお祭も江戸時代までは祢里を引いていたんですが、明治の御維新になって文明開化に伴って電線が張り巡らされるようになって、祢里がそれをくぐれなくなって変えたんだとも言われているんですよ」
「へー」
するとまた別な方が「いや、商人は公方様が御代わりになったんだから、俺たちも変わろうという時代に媚びるような商人根性もあったんだと思うよ」
神輿の話でももう大盛り上がりです。
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「すごいなと思ったのは、明治7年に明治天皇が神田明神に行幸された際に、『平将門はその昔天皇に弓引いた逆賊である。よって祭神から下ろすように』という沙汰があって、摂社か末社に動かれたときがありましたよね」と私。
「おやこままささん、良くご存知ですね」
「それが、また地域の熱意で昭和57年でしたか、また御祭神として復活したという話も聞きました。この神田の皆さんの将門公に対するシンパシーってどこから来るんでしょうねえ?」
「将門公が祭神から降りた後の十年はお祭がなかったんです。昔はお祭は秋だったんですが、それを十年ぶりにやったらすごい台風にぶち当たりました。将門台風なんて言われて、『将門公の呪いだ』なんてい言われました。で、それで祭の時期を5月に変えちゃったんですよ」とTさん。「へー、それは知りませんでした」
次に禰宜のSさんが「やはり将門公は、都から派遣されて地方で庶民を苦しめる官僚に対する義憤から乱を起こしたのであって、その気持ちに共感を感じるところが大きいんでしょうね。それに徳川三百年の御恩を簡単には忘れられないし、薩長に対する反骨の気持ちもあったんですよね。薩長が江戸入りするときは当時このあたりでも竹槍で立ち向かったくらいですから」
「『上からは明治だなどといふけれど、治明(おさまるめい)と下からはよむ』とか、『芋(薩摩のこと)はしもげる、おはぎ(萩=長州のこと)はすえる、五月葵(=徳川様)の花盛り』なんて言い方もあったよね」
またSさんが「やはり徳川様は、天下祭と称して江戸総鎮守の神田明神の祭だけは江戸城に入ることを許したりして、庶民の心をつかむことに本当に長けていましたね。人の心が動く要素って、経済だけじゃないんですよ」
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「神田の祭が今でも氏子で支えられているというのは、皆さんはずっと昔から江戸の住人だからですか?」
「いや、それが結構人は変わっているんですよ。関東大震災もあったし東京大空襲もあったでしょう。でもやっぱり震災が大きかったかな。私なんかは親が大正時代にここへきてその二代目」
聞けば、新しく入ってきた初代は割りと地域に対して大人しく過ごすのですが、二代目からは地域への貢献度が評価されるし、そのうちに神田のお祭が好きになっていくということのようです。
「お祭のときは3日間公園にテントを張って炊き出しをしますからね。それは防災訓練と一緒。いざというときの練習になってますよ」
やはりお祭は地域が皆でやる最大のイベントであり、その連帯感はいろいろな方向に花開く財産になっているのです。
「こままささんって、神社に詳しくてなかなか面白いねー」
「是非今度は神社のほうへもお越しくださいね」
「もちろんですよ!これで神田明神へ行くのが楽しみになりましたよ」
神田明神にお友達ができるとは望外の喜び。神田の人たちもとても熱
くて素晴らしい人たちばかり。こういうご縁ができるのも御神徳と言えそうです。
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