お世話になった榛村純一さんの通夜とお葬式のために、日曜日から掛川へ行ってきました。
榛村さんは、ここ1、2年の間にそれまで勤めていた公職をだんだんに降りて、身軽になるようにされていましたが、そのなかでも「これだけは全うしたい」と勤めあげていたのが、大日本報徳社の社長でした。
静岡空港に降り立って、掛川に到着してから、その報徳社を訪ねました。
ちょうど知り合いの事務の方が書類の整理に没頭していて、私の顔を見て「ああ、ちょうど良いところに来てくれました」と、募る思いがほとばしって、いろいろな最近の事情を教えてくれました。
実は明後日3月13日は、新幹線掛川駅開業30周年の記念日。榛村さんは30年前の開業に至る苦労話やらその後の町の発展などについて講演をする予定があったようで、その最後に使われるはずだったレジメの案を見せてもらいました。
曰く、「榛村さんは、ぎりぎりまでレジメを直す人でしたが、亡くなる直前の直しの指示に『理念・志・夢』というキーワードが入ったんです。なんだか私はそれを見て、何か感じるものがあったのかなあ、と思ったりもするんです」としんみり。
榛村さんのお棺が葬儀場へ向かうときは、途中で榛村さんゆかりの場所を巡りながら会場へと向かうことになっていましたが、報徳社の建物前にも立ち寄っていただく運びとなり、多くの関係者が報徳社前で榛村さんを涙ながらにお見送りしました。
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ちなみに、榛村さんご本人は、生涯学習運動実践の一つとして「ピンピンコロリ」を改めて、「一世紀一週間人生」のススメをずっと唱えていました。
これは「一世紀=百歳まで」生きる、そして具合が悪くなったら長患いして自分や家族が苦しまないように、「一週間=短い時間で」あの世へ行くような生き方の提唱でした。
一部には、「すぐに死ねという事か」と揶揄する人もいましたが、「そうではなく、百歳まで健康で無事に生きることができれば、枯れ木が朽ちるように亡くなれるものだよ」という考え方でした。
榛村さんは83歳。百歳にはちょっと足りませんでしたが、文字通りのピンピンコロリという潔い最後でした。
この日は、お通夜への参列者が東京を始め各方面から来る予定だったのですが、あろうことか東海道新幹線が、浜松~静岡間で停電のために止まってしまって、多くの参列者が乗り換えを強いられるなど混乱しました。
ただ榛村さんの事績を知っている人たちは、「さすがは掛川に新幹線(駅を開業させて)を止めた男だ。通夜にも新幹線を止めるとは!」と言ったり、「新幹線も、通夜に参列せずにはいられなかったか」と妙な納得をして、生前の功績をいつまでも語り合っていました。
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日がかわって今日は、9時半から告別式があり、昨日のお通夜に続いて多くの参列者が葬儀会場に訪れました。
もう離れて13年にもなるのに、当時お世話になった多くの職員や市民の皆さんと顔を合わせては、懐かしくまた、「こういう会い方も残念ですね」とお互いに悔やむのでした。
榛村さんの棺が会場を離れるときも多くの参列者がいつまでも見送っていました。
どうぞ安らかにお休みください、と言いたいところですが、あの榛村さんのことですから、「さて、あの世とは何かを見極めてみるよ」とにっこりと笑っているかもしれませんね。
榛村さんの生涯学習への志は、若い我々が受け継ごうと思います。お疲れ様でした。
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