妹が亡くなって明日が初七日。
一般的には「喪に服す」という期間があって、やるべきではない禁忌がありますが、いつまで何をしないでいるのか、の判断はなかなか難しいところです。
私の家は仏教でも浄土真宗という宗派ですが、妹が嫁いだ先は浄土真宗とは異なる宗派なので、そちらの形で葬儀を執り行いました。
残された我々はどのようなふるまいをするのかが難しかったので、浄土真宗の僧侶をしている友人にそのあたりをざっくばらんに聞いてみました。
彼の答えは、「我々浄土真宗の考え方には『喪に服す』という考えがないんだよ」というもの。
そうなのか!とちょっと驚きですが、彼が言うには、「浄土真宗では、人は亡くなればすぐに阿弥陀様に導かれて仏の世界に行くことができる。なので"めでたい"とは言わないまでも、それを穢れたことだという考えはないんです」とのこと。
そこには日本特有の神道的な"穢れ"の考え方も交じっており、それゆえ神道的には一定期間神社に参拝しないとか神棚に触れないようにするなどの"喪に服す制約"があるのだと。
しかし仏教は本来お釈迦様の慈悲を説く考え方なので、罰という考え方はなく、死は病気などの今生の苦しみから開放され浄土に生まれ仏様になるできごとなのだ、と考えるのだそう。
それを「往生の素懐(おうじょうのそかい)」と言って、本来仏教では喪に服すという制約は考えなくても良いのだ、と。
しかしながらそうは言っても、亡くなったことを知らずに家を訪ねてくる友人知人もいるであろうから、例えば四十九日などの一定期間は家にいたほうが良いという考えがあり、それが喪に服しているようにも見えると。
「浄土真宗としてはそういう考え方で良いのだけれど、宗派が異なれば神道的な考え方を取り入れているところもあるので、自分たちの考えを押し付けるのは控えたいね」
また付け加えてくれたのは、「あなたのところの家にお悔やみが来ることはないだろうから、浄土真宗的には強い制約を考えなくても良いと思いますよ」ということでした。
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他の宗派では亡くなった方に仏の世界の名前として「戒名」というところがありますが、これは仏の世界での戒律を守るということの心の表れです。
一方わが浄土真宗では亡くなった方につけるのは「法名」ということになっていて、厳しい戒律を守って修行できない衆生が阿弥陀如来の請願の心によって救われて仏になるという考え方です。
仏教も宗派によっていろいろな考え方があるところですが、「仏助けたまえ」と願えば罪業は深くとも必ず救ってくださるのが阿弥陀様というのが浄土真宗です。
残されたものは生きて行かなくてはなりません。
"末代無知の在家止住の男女たらん輩"(蓮如上人が書かれた御文章の一節)である我々は、少しずつ日常を取り戻してゆきましょう
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