先日、ある友人と話をしていて立派なリーダー像についての話になりました。
その彼の組織には、成果を出すことに長けたリーダーのAさんという方がいたのですが、彼には支持者もいた半面、その急進的な改革方法を快く思わない反対勢力も結構いたのだそう。
彼はそういう批判者を圧倒的に論破して物事を進めていってそれまでにはなかったような成果を上げて評価されたのですが、ある段階で職場を移動してゆきました。
すると組織内で彼の反対派が力を持ち始め、一方で彼を支えていた人たちが後ろ盾を失ってしまっていたたまれなくなる、という事態になってしまったのだそう。
友人自身はAさんに共感するところが多かった、と言っていましたが、Aさんの反対派を論破するやり方には少々疑問もあったと言います。
「Aさんには批判もありましたが、『こんな低レベルな批判だったら負けませんよ。論破して見せます』と言って、実際にそうしたのですが、それが却って批判派を増やしたような気もするんです」とは友人の弁。
「そのAさんは、自分がいなくなった後の組織全体のこととか地域の全体像が見えていたんでしょうかね」
「そう言われるとAさんの心情は分かりかねますが、短期間のうちに成果を上げたいという気持ちは強いように思いました」
「最近は断じて物事を行う強いリーダーシップが求められがちですが、それもできるだけ敵を作らないようなことも結構大事な要素だと思うんです」と私。
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江戸時代晩期の儒家である佐藤一斎は「言志晩録」という著書の中でこう言っています。
「愛敬の二字は交際の要道たり。傲視して以て物を凌ぐことなかれ。侮笑して以て人を調することなかれ。 旅獒(りょごう)に『人を玩(もてあそ)べば徳をうしなう』とは、真にこれ明戒なり」(言志晩録198段)
この意味は、「愛と敬の二字は、人と交際をするうえで大切な道である。傲慢な態度で何物に対しても見下してはいけない。侮り笑って人を嘲弄(ちょうろう)してはいけない。(書経の)旅獒篇に『人をあなどったりからかったりすることは、結局は自分の徳を喪うことになる』とあるが、これは立派な戒めの言葉である」ということです。
自分の方が優れている、相手は自分より劣っている、という考えは、言葉や態度の端々にそれがにじみ出てしまい、良好な関係性を作ることが難しくなってしまいます。
友人とAさんの話を聞いて、優れたリーダーこそやはり古典に戒めを求めて欲しいものだと思いました。
思って開けば古典には示唆に富む一節があるものですね。