先日、地元の釧路新聞に文章を寄せている市井の歴史家Tさんにお会いしました。
Tさんが今回釧路新聞に預けた原稿は、「北方領土の歴史再考」という題で、2月8日、9日、15日の三日に亘って上・中・下の三部作として紹介されたのですが、北海道と北方領土との関わりを対ロシア外交の視点で端的にまとめあげたもので、ポイントを押さえていながら実に読みやすい物語となっています。
実は私もかねてから、北海道開発に先駆ける北海道開拓は、そのルーツを江戸時代中期以降にロシアがカムチャッカ千島列島を南下しはじめて、そのことに江戸幕府が危機感を持ち始めた1700年代後半からの蝦夷地を舞台とした対ロシア政策の一環としての蝦夷地経営に求めるべきだ、と思っていて、まさに意見が合致して嬉しかったのです。
(こういう文章は一体どんな方が書くのだろう)とずっと意見交換をしたかったのですが、ついに先日ようやくその夢がかないました。
※ ※ ※ ※ ※
私自身東京にいた三年間のうち、2007年と言う年は不思議にそうした蝦夷地を開拓した物語に触れる機会が実に多くて、天から声がかかっているような気がしたもので、それが勉強を深めるきっかけとなったのです。
私自身は北海道開発における最大の功績者は田沼意次だと思っているのですが、これはTさんと完全に意見が一致しました。
しかしTさんは、「確かに後に北海道に探検隊を派遣したのは田沼意次ですが、彼にそう思わせたきっかけは工藤平助の『赤蝦夷風説考』という書物であり、その元ネタを提供したハンガリー出身のポーランド人フォン・ベニョフスキーにまで遡って語るべきだ」とおっしゃいます。
フォン・ベニョフスキーの名は、オランダ読みでファン・ベンゴウスキーとなり、それがなまって日本では「はんべんごろう」と呼ばれました。
彼は1767年のポーランド独立戦争に加わりましたがロシアに捕えられ、カムチャッカに追放される憂き目にも。しかしそこで彼は1771年に仲間と船を奪ってついに脱獄し、日本の阿波、土佐、奄美大島に立ち寄って食料や薪を補充しながらマカオに向かって南下してゆきました。
そして各藩での丁寧な対応を喜んでオランダカピタン宛ての手紙を託すのですが、手紙を受け取ったカピタンがその内容に驚いてこれを和訳させて長崎奉行に提出しました。
その内容とは、「ロシアはカムチャッカから千島の島々へ砦を築いて侵略の用意をしており、自分の推察では来年にも松前その他の島を手に入れるだろう。日本に対する自分の信義の証としてこれを知らせておく…云々」というもので、これが後に「はんべんごろうの警告」として知られるようになります。
長崎奉行は一応公儀に送達したものの流言としてあまり重要視しませんでした。しかし情報収集能力に長けた水戸藩からの口添えもあって、やがてこれが田沼の目に留まって、天明5(1785)年の翌年の蝦夷地探検と言う事業が始まり、これがまさに北海道開発の嚆矢とよべる出来事だったのです。
この探検に参加したのが最上徳内であり、かれは蝦夷地やアイヌの人々に対して終始「仁」で臨む
温かいまなざしを注いでおり、これは松前藩の暴政を批判するとともに蝦夷地を幕府直領とする動きへとつながってゆくのです。
辺境の地は国の力が注がれていなければ様々な摩擦を起こしますが、現在の北方領土に対する我が国の姿勢にも繋がる姿が浮かび上がるようです。
※ ※ ※ ※ ※
北海道には歴史がない、と言われ、せいぜい江戸時代末期の函館戦争くらいからしか歴史物語がないように思われがちですが、どっこい、1780年代からのロシア南下に対する警戒心、恐怖心と、そのころからの地図作りと情勢調査のための冒険談には胸がわくわくして、道民ならばぜひとも知っていてほしい物語なのですが、どうもこのあたりのことを語る人はあまりいないのです。
やはりここは私がやるしかないか、という思いもありますが、とりあえずTさんという同志がいることが分かっただけでも心強い思いがします。
私も少しずつ文章をまとめておきたくなりました。これからこのブログでも時々書いてみることにします。
大人も楽しめる蝦夷地を舞台にした冒険談なんて素敵ですよ。

【最近の中では一番参考になった書物】
『近世後期の奥蝦夷地と日露関係』川上淳 著
《過去の関連ブログ記事》
【黄金道路に冒険家を思う】2007-05-05
北海道における道路開削の嚆矢は襟裳岬東岸の黄金道路にあるのです。ここを見ずして北海道の道路を語るなかれ。
http://bit.ly/e28M1Y
【恩人たちの墓参り】2007-09-23
自転車で東京の本郷界隈を走っていると、ふと近藤重蔵のお墓が書かれた地図が目に入りました。その地図をよく見ると、その近場に最上徳内や松浦武四郎と言う北海道を探検した恩人たちの歯かもすぐ近くにあるではありませんか。
なるほどと墓参りをして拝んできましたが、気づけば今日は彼岸の中日。これも何かの縁なのでしょうか。
http://bit.ly/fVrYmZ
【自転車で谷根千を巡る】2009-09-20
上記の二年後に改めて最上徳内の墓参りをしたときの模様です。
http://bit.ly/es5Ir6
【日本幽囚記を読む】2007-08-23
1811年に日本とロシアの外交的緊張をもたらしたゴローニン事件が起きました。本書は二年に亘って日本に捕えられていたロシア人船長ゴローニンがロシアへ帰国してから表した書物で、実に面白い歴史書になっています。
あの司馬遼太郎さんが「今の日本人はこういう良い書物を読まなくなった」と薦める一冊。『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛も登場します。
http://bit.ly/e1ZGN4
Tさんが今回釧路新聞に預けた原稿は、「北方領土の歴史再考」という題で、2月8日、9日、15日の三日に亘って上・中・下の三部作として紹介されたのですが、北海道と北方領土との関わりを対ロシア外交の視点で端的にまとめあげたもので、ポイントを押さえていながら実に読みやすい物語となっています。
実は私もかねてから、北海道開発に先駆ける北海道開拓は、そのルーツを江戸時代中期以降にロシアがカムチャッカ千島列島を南下しはじめて、そのことに江戸幕府が危機感を持ち始めた1700年代後半からの蝦夷地を舞台とした対ロシア政策の一環としての蝦夷地経営に求めるべきだ、と思っていて、まさに意見が合致して嬉しかったのです。
(こういう文章は一体どんな方が書くのだろう)とずっと意見交換をしたかったのですが、ついに先日ようやくその夢がかないました。
※ ※ ※ ※ ※
私自身東京にいた三年間のうち、2007年と言う年は不思議にそうした蝦夷地を開拓した物語に触れる機会が実に多くて、天から声がかかっているような気がしたもので、それが勉強を深めるきっかけとなったのです。
私自身は北海道開発における最大の功績者は田沼意次だと思っているのですが、これはTさんと完全に意見が一致しました。
しかしTさんは、「確かに後に北海道に探検隊を派遣したのは田沼意次ですが、彼にそう思わせたきっかけは工藤平助の『赤蝦夷風説考』という書物であり、その元ネタを提供したハンガリー出身のポーランド人フォン・ベニョフスキーにまで遡って語るべきだ」とおっしゃいます。
フォン・ベニョフスキーの名は、オランダ読みでファン・ベンゴウスキーとなり、それがなまって日本では「はんべんごろう」と呼ばれました。
彼は1767年のポーランド独立戦争に加わりましたがロシアに捕えられ、カムチャッカに追放される憂き目にも。しかしそこで彼は1771年に仲間と船を奪ってついに脱獄し、日本の阿波、土佐、奄美大島に立ち寄って食料や薪を補充しながらマカオに向かって南下してゆきました。
そして各藩での丁寧な対応を喜んでオランダカピタン宛ての手紙を託すのですが、手紙を受け取ったカピタンがその内容に驚いてこれを和訳させて長崎奉行に提出しました。
その内容とは、「ロシアはカムチャッカから千島の島々へ砦を築いて侵略の用意をしており、自分の推察では来年にも松前その他の島を手に入れるだろう。日本に対する自分の信義の証としてこれを知らせておく…云々」というもので、これが後に「はんべんごろうの警告」として知られるようになります。
長崎奉行は一応公儀に送達したものの流言としてあまり重要視しませんでした。しかし情報収集能力に長けた水戸藩からの口添えもあって、やがてこれが田沼の目に留まって、天明5(1785)年の翌年の蝦夷地探検と言う事業が始まり、これがまさに北海道開発の嚆矢とよべる出来事だったのです。
この探検に参加したのが最上徳内であり、かれは蝦夷地やアイヌの人々に対して終始「仁」で臨む
温かいまなざしを注いでおり、これは松前藩の暴政を批判するとともに蝦夷地を幕府直領とする動きへとつながってゆくのです。
辺境の地は国の力が注がれていなければ様々な摩擦を起こしますが、現在の北方領土に対する我が国の姿勢にも繋がる姿が浮かび上がるようです。
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北海道には歴史がない、と言われ、せいぜい江戸時代末期の函館戦争くらいからしか歴史物語がないように思われがちですが、どっこい、1780年代からのロシア南下に対する警戒心、恐怖心と、そのころからの地図作りと情勢調査のための冒険談には胸がわくわくして、道民ならばぜひとも知っていてほしい物語なのですが、どうもこのあたりのことを語る人はあまりいないのです。
やはりここは私がやるしかないか、という思いもありますが、とりあえずTさんという同志がいることが分かっただけでも心強い思いがします。
私も少しずつ文章をまとめておきたくなりました。これからこのブログでも時々書いてみることにします。
大人も楽しめる蝦夷地を舞台にした冒険談なんて素敵ですよ。

【最近の中では一番参考になった書物】
『近世後期の奥蝦夷地と日露関係』川上淳 著
《過去の関連ブログ記事》
【黄金道路に冒険家を思う】2007-05-05
北海道における道路開削の嚆矢は襟裳岬東岸の黄金道路にあるのです。ここを見ずして北海道の道路を語るなかれ。
http://bit.ly/e28M1Y
【恩人たちの墓参り】2007-09-23
自転車で東京の本郷界隈を走っていると、ふと近藤重蔵のお墓が書かれた地図が目に入りました。その地図をよく見ると、その近場に最上徳内や松浦武四郎と言う北海道を探検した恩人たちの歯かもすぐ近くにあるではありませんか。
なるほどと墓参りをして拝んできましたが、気づけば今日は彼岸の中日。これも何かの縁なのでしょうか。
http://bit.ly/fVrYmZ
【自転車で谷根千を巡る】2009-09-20
上記の二年後に改めて最上徳内の墓参りをしたときの模様です。
http://bit.ly/es5Ir6
【日本幽囚記を読む】2007-08-23
1811年に日本とロシアの外交的緊張をもたらしたゴローニン事件が起きました。本書は二年に亘って日本に捕えられていたロシア人船長ゴローニンがロシアへ帰国してから表した書物で、実に面白い歴史書になっています。
あの司馬遼太郎さんが「今の日本人はこういう良い書物を読まなくなった」と薦める一冊。『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛も登場します。
http://bit.ly/e1ZGN4