北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

【番外編】石見銀山の歴史的意味を考える

2008-08-03 23:59:06 | Weblog
 さて、銀を掘った間歩の後は、人が住む集落の大森地区を散策です。こちらも昔ながらの木造の家並みが続き、文化庁の指定する伝統的建造物保全地区に指定されています。

 しかしこの大森地区の集落を見ても、石見銀山は、ぱっと見に「まさにこれが世界遺産かー!」と思わせるような派手な施設があるわけではありません。一度は指定が延期になったほどで、決して印象が強いものでもありません。

  

  

 説明によると、石見銀山の世界遺産名は「石見銀山遺跡とその文化的景観」とのこと。そして世界遺産として認められたポイントはと言うと、
①世界的に重要な経済・文化交流を生み出したこと
②伝統的技術による銀生産方式を豊富で良好に残すこと
③銀の生産から搬出に至る全体像を不足なく明確に示すこと、の三つです。

 実際に現場へ来ると、間歩による鉱山の歴史的雰囲気や大森地区の伝統的建造物保全地区による歴史的生活などは見ることである程度分かります。

 しかし、石見銀山が本当にすごいのは、ここから算出された銀が15世紀から17世紀にかけて日本から東アジア経済を動かした原動力になったと言うことで、この銀を求めてポルトガルが宣教師を派遣し、鉄炮を売りに来たというように、日本の歴史を世界経済にも大きな影響を与えながら展開したという歴史的事実こそが最大のポイントなのです。

 でもこれは相当説明を受けて深く理解しないと味わえないかも知れません。また、これだけ世界に影響を与えた銀の力も、学校の教科書にはあまり強調されていないような印象も受けます。日本人自身が世界におけるこの価値をもっと理解しなくてはならないと思いました。

    ※    ※    ※    ※

 また石見銀山を学ぶうちに印象的だったのはその日本人らしいその経営方針でした。

 こちらの銀山経営は、『御直山(おじきやま)』と呼ばれた代官所直営のところと、『自分山(じぶんやま)』と呼ばれる民間の自主開発による銀山の二種類があったとのこと。
 御直山は公費で開発して民間が入札でそれを請け負う、いわば公共事業のようなもの。一方自分山は民間の事業者が申請をして開発許可をもらうというシステムで、こちらは現代で言うところの民活というわけ。

 ここでは銀山の発掘は申請をして税金として収入の三分の一を納めさえすれば誰でも掘って良かったのだそうで、代官所もそれを大いに奨励したのだそうです。優良な銀の鉱床に当たれば大もうけが出来たわけで、江戸時代には有能な鉱山経営者が集まって活況を呈しました。

 この石見銀山と同様にやはり世界遺産になっていますが、同じ時期にボリビアのポトシという町でも銀山が発見されました。
 しかしこちらはスペインが現地のインディオを酷使して、まさに搾取によってスペインに銀の富をもたらしたのに対して、日本の石見銀山は、よほど優しい経営になっているのですね。

 宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」では人間が山を開発したために山の自然が荒れて神が怒るということが底流を流れていましたが、ここ石見銀山では精錬に必要な炭も周辺の村々に割り当てることで調達をしていたのだそう。
 決して自然から収奪をするだけではなくそのバランスを考えた開発の姿勢が伺えて、これがまた何とも日本人らしいではありませんか。

    ※    ※    ※    ※

 江戸時代、関東は金が取れたので基本通貨は金であり、関西は岩見の銀が取れたことから銀が基本通貨とされました。そのため関西と関東の物資の交換ではレートが生じてそこに両替商が商売を行える素地がありました。

 また銀による通貨は重さがそのまま貨幣としての価値となる「秤量貨幣(ひょうりょうかへい)」だったので、小額の場合は銀をちぎって払うこともあったのだとか。銀のちゃんとした通貨があまり残っていないのはそんな支払い方法によったからだ、とも教えられました。

 教科書に書かれていない日本史の奥深さを心ゆくまで堪能しました。

  
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出雲を歩く③~世界遺産石見銀山を歩く

2008-08-03 23:48:35 | Weblog
 松江のホテルを出発して車は一路西へと向かいます。今日は昨年世界遺産に指定された石見銀山の見学です。

 松江から石見銀山までは直線距離でも約60kmあって結構時間がかかりそう。現地の石見銀山ツアーでは地元にボランティア観光ガイドグループがあるので、そちらにガイドをお願いしたのですが、『現地に10時50分に集合してください』とのこと。少し早めにホテルを出て、余裕を持ったドライブで現地に向かいます。

   *   *   *   *   *

 石見銀山は市町村で言うと島根県大田(おおだ)市に属しますが、銀を掘った採掘場は市内から離れた山の奥の谷筋にあります。そしてここのごく狭い範囲に大森地区と呼ばれる建物が集中している地区と、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道が数多く見られる谷あいとがセットになっているのです。

 大森地区は今でも人が住んでいる集落ですが、ここへの公共交通網はきわめて弱いので車か観光バスで行くしかありません。しかし現地周辺は大きな駐車場が取れるような地形ではないので、少し離れたところに駐車場を兼ねて世界遺産センターという観光拠点施設を建設している真っ最中です。
 我々もこの世界遺産センターに車を停めて、ここから地区内を通るバスに乗り換えて集合場所へと向かうつもりです。

 さて、余裕を持って出発して少し早めに現地に到着したので、世界遺産センターを見て回りました。ここは無料の施設で、今は「ガイダンス棟」だけが出来上がっていて利用ができます。
 ここでの見物は石見銀山遺跡の間歩や街道、港、山城跡、歴史的町並みなど、この遺跡の特徴や全体像、世界遺産としての価値などが理解できるような展示などで、全体が完成するともっと充実することでしょう。

  

 また石見銀山周辺は、観光情報を平面図で理解するのにはちょっと骨が折れました。

 そんなときこそ、まずここのようなガイドセンターへ来て、周辺の山々や集落との関係を立体模型を見ながら説明を受けると分かりやすいことでしょう。事前に情報を得ておくと現場を歩いてもちょっとしたものの見方が変わるというものです。

  

 また紙媒体で伝えきれないような情報は映像展示がお勧め。薄型モニターには、銀の鉱石から銀の鉛合金をつくり、そこから灰吹法と呼ばれる方法で見る見るうちに純度の高い銀の粒ができてゆくシーンを放映していました。
 こういう説明は映像が一番です。

   *   *   *   *   *

 石見銀山ガイドはMさんという方が、我々家族を含めて8名の参加者をガイドしてくれることになりました。まずは地区内の乗り合いバスで行けるところまで行って、そこから先は徒歩で小経を歩きながら説明を聞くのです。

 小川に沿った谷筋の道沿いにはいたるところで坑道が見られます。ここでは坑道のことを間歩(まぶ)と呼んでいて、現在まで約600の間歩が確認されているそうです。

  

 間歩も最初は地表に銀の鉱床が露出している露頭を掘っていましたが、次第に鉱床に沿って下へと掘り進むようになります。

 しかし上下がある掘り方は水が出ると坑道が水没して効率が悪くなるので、次第に水平に坑道を掘って水を処理しながら左右に出てきた鉱床に沿って鉱石を掘る方法が開発されました。石見銀山で唯一入れる間歩の龍源寺間歩もそんな横への坑道です。途中で鉱床に当たって掘り進んだ跡が何箇所もあって、往時が偲ばれます。

   *   *   *   *   *

 間歩の中で唯一公開されているのが龍源寺間歩。水平の坑道は大人が楽々と立って歩けるほどの高さで、これをノミと槌で切り開いたのかと思うと気が遠くなりそうです。

  

「今歩いている間歩は当たり前に電気の明かりがついていますが、当時は電気はありません。だからここらあたりではサザエの貝殻に油をいれて灯心をにほのかな明かりを灯して暗がりで作業をしたんです」

「当然空気は悪いし、岩の粉も吸ってしまうわけで、厚遇を求めて山堀たちが集まってきたとはいえ、肺の病になるものも多く、30歳の誕生日を迎えた者は長寿の祝いをした、と伝えられています」

 決して犯罪者を奴隷のようにこきつかったり、強制労働による収奪をしたわけではなかったのですが、やはり過酷な労働であったろう事は想像がつきます。

 ここでの一槌一槌が日本の歴史を作ったという歴史と先人の苦労に思いを馳せるひとときでした。

  
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