梅田望夫著「ウェブ時代をゆく~いかに働きいかに学ぶか」(ちくま新書)を読みました。
梅田さんのウェブ論についてはおなじく筑摩新書から出ている「ウェブ進化論」という本について、私のこのブログ上で2006年11月2日と6日の二回に亘って感想を書いています。今回はその続編で本の帯には「ウェブ進化論完結編」と書かれていて、前著では書かれていなかった新たな考えが示されています。
著者はまず福沢諭吉の言葉から「一身にして二生を経るが如く」という言葉を引用します。福沢諭吉は66歳の生涯のうち前半の33才までを江戸時代で過ごし後半の33年間を明治時代として生きたのでした。
そのうえで、「今まさに現代人は、ウェブあるいはインターネットの存在する前の時代と、存在してからの両方の時代を生きているのだ」と言います。日本にとっての江戸から明治というそれ以上の社会変革が、「ネットの登場」ということの意味なのです。
ネットに関しては、その負の面がマスコミ等でも取り上げられて規制を強化したりなんだか怖いというような心情的な面が強調されがちですが、著者は一貫してネットに対して楽観主義を貫いています。
それは「ネットという技術の持つ性格について次の五つの点で、大きな希望を抱いているから」です。それは著者が
①ネットが「巨大な強者」(国家、大資本、大組織)よりも「小さな弱者」(個人、小資本、小組織)と親和性の高い技術であること。
②ネットが人々の「善」なるもの、人々の小さな努力を集積する可能性を秘めた技術であること。
③ネットがこれまでは「ほんの一部の人たち」にのみ可能だった行為(表現や社会貢献など)を全ての人々に開放する技術であること
④ネットが「個」の固有性(個性、志向性)を発見し増幅することにおいて極めて有効な技術であること。
⑤ネットが社会に多様な選択肢を増やす方向の技術であること、と考えているからです。
グーグルの登場で、無限大と言って良い情報に限りなく無償で時間の制約もなくアクセスすることが出来る社会が近づいています。グーグルはそうしたサービスをいつか有料にして巨大な収益を上げる会社になるのかと思いきや、まったくそのような経済観念ではなく、『世界中の情報全てを整理し尽くす』という壮大なビジョンを描き、収益は検索連動広告から得るという収益モデルを確立し、その収益をさらに惜しみなく「地と情報の整理」に投資するという行動を続け、拡大させています。
その彼らのモチベーションは、ひたすらに「知を愛するが故に、知の基盤を整備しようともくろむ」ことだけから来ています。それは、通常の経済観念では考えられないようなことですが、「ただ面白いから、お金はあとから適当についてくる」という人たちが支える世界がそこに現に存在しているのだ、ということ自体がすでに新しい社会の到来を指し示しています。
今のわれわれは、後の歴史家からある種の情報革命前夜に生きている状態なのでしょう。
* * * * *
そうした情報環境が猛烈なスピードで行われ、ウェブ社会が進化したことで、「知識を記憶していることの価値が相対化された。知をひたすらため込み、知の迷路に入り込み知識の多寡を競うために、知は本来あるのではない。知の意味とは、知を素材にそれを生きることに活かすことだ」と著者は言います。
そしてこのウェブ社会で生きていこうと思えば、「より自助の精神が求められる」と言います。「ネットは楽しい、面白い、便利だ。消費・娯楽の対象としてのネットの可能性はそれだけでも大きい。しかしネットが本当の意味で人生と交錯するのは、さらにその先においてである」
「ウェブ進化の初期に現れたリーダーたちに共通するのは、『自分が好きなこと』、『自分に向いたこと』、『自分がやりたいこと』を対象に『勤勉の継続』が自然に出来る人たちであった」
強いられて行う勤勉ではなく、自発的な楽しみからくる勤勉は苦しみではなく楽しみだ、というのです。
しかしそれでいて、著者は「強いられて何かをしなければならない対象には人類の叡知が詰まっているものある。例えば学校のカリキュラムがその好例だ」と言います。
そして村上春樹の『海辺のカフカ』の一節を引用したうえで、「『もう一つの地球(ウェブ社会のこと)』は、基礎的な力を「吸い取り紙」になって吸収した先に大きく広がる自由な世界である。そのあとは、没頭する対象を自ら選択し、人々に平等に与えられる唯一の資源たる時間の一瞬一瞬を、自分の責任でそこに注ぎ込んでいく。それが『もうひとつの地球』と積極的につきあう新しい生き方だ」と断言します。
これこそが著者がウェブ時代をサバイバルしてゆくこれからの若者に伝えたかったウェブ・リテラシー(ウェブとのつきあい方)。
現代を生きる我々は是非読んでおきたい一冊です。
* * * * *
この本を読んでから夜に、知人の小学校の先生と一杯飲みました。
これからの社会のありようと、そこに子供たちを送り出す教師たちが伝えなくてはならないこと、教えなくてはならないこと、そうした学校を取り巻く環境のこと・・・。
「教師や学校の厳しい現実を超えて、成果を出すにはどうしたらよいのですか?」と訊くと、「それはね、批判があっても最後は【なりふり構わずにやる】ことですよ、ははは」とのこと。
うーん、いろいろにインスパイアされて、自分が高まる一日でした。
こういう日がたまにあるものです。
梅田さんのウェブ論についてはおなじく筑摩新書から出ている「ウェブ進化論」という本について、私のこのブログ上で2006年11月2日と6日の二回に亘って感想を書いています。今回はその続編で本の帯には「ウェブ進化論完結編」と書かれていて、前著では書かれていなかった新たな考えが示されています。
著者はまず福沢諭吉の言葉から「一身にして二生を経るが如く」という言葉を引用します。福沢諭吉は66歳の生涯のうち前半の33才までを江戸時代で過ごし後半の33年間を明治時代として生きたのでした。
そのうえで、「今まさに現代人は、ウェブあるいはインターネットの存在する前の時代と、存在してからの両方の時代を生きているのだ」と言います。日本にとっての江戸から明治というそれ以上の社会変革が、「ネットの登場」ということの意味なのです。
ネットに関しては、その負の面がマスコミ等でも取り上げられて規制を強化したりなんだか怖いというような心情的な面が強調されがちですが、著者は一貫してネットに対して楽観主義を貫いています。
それは「ネットという技術の持つ性格について次の五つの点で、大きな希望を抱いているから」です。それは著者が
①ネットが「巨大な強者」(国家、大資本、大組織)よりも「小さな弱者」(個人、小資本、小組織)と親和性の高い技術であること。
②ネットが人々の「善」なるもの、人々の小さな努力を集積する可能性を秘めた技術であること。
③ネットがこれまでは「ほんの一部の人たち」にのみ可能だった行為(表現や社会貢献など)を全ての人々に開放する技術であること
④ネットが「個」の固有性(個性、志向性)を発見し増幅することにおいて極めて有効な技術であること。
⑤ネットが社会に多様な選択肢を増やす方向の技術であること、と考えているからです。
グーグルの登場で、無限大と言って良い情報に限りなく無償で時間の制約もなくアクセスすることが出来る社会が近づいています。グーグルはそうしたサービスをいつか有料にして巨大な収益を上げる会社になるのかと思いきや、まったくそのような経済観念ではなく、『世界中の情報全てを整理し尽くす』という壮大なビジョンを描き、収益は検索連動広告から得るという収益モデルを確立し、その収益をさらに惜しみなく「地と情報の整理」に投資するという行動を続け、拡大させています。
その彼らのモチベーションは、ひたすらに「知を愛するが故に、知の基盤を整備しようともくろむ」ことだけから来ています。それは、通常の経済観念では考えられないようなことですが、「ただ面白いから、お金はあとから適当についてくる」という人たちが支える世界がそこに現に存在しているのだ、ということ自体がすでに新しい社会の到来を指し示しています。
今のわれわれは、後の歴史家からある種の情報革命前夜に生きている状態なのでしょう。
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そうした情報環境が猛烈なスピードで行われ、ウェブ社会が進化したことで、「知識を記憶していることの価値が相対化された。知をひたすらため込み、知の迷路に入り込み知識の多寡を競うために、知は本来あるのではない。知の意味とは、知を素材にそれを生きることに活かすことだ」と著者は言います。
そしてこのウェブ社会で生きていこうと思えば、「より自助の精神が求められる」と言います。「ネットは楽しい、面白い、便利だ。消費・娯楽の対象としてのネットの可能性はそれだけでも大きい。しかしネットが本当の意味で人生と交錯するのは、さらにその先においてである」
「ウェブ進化の初期に現れたリーダーたちに共通するのは、『自分が好きなこと』、『自分に向いたこと』、『自分がやりたいこと』を対象に『勤勉の継続』が自然に出来る人たちであった」
強いられて行う勤勉ではなく、自発的な楽しみからくる勤勉は苦しみではなく楽しみだ、というのです。
しかしそれでいて、著者は「強いられて何かをしなければならない対象には人類の叡知が詰まっているものある。例えば学校のカリキュラムがその好例だ」と言います。
そして村上春樹の『海辺のカフカ』の一節を引用したうえで、「『もう一つの地球(ウェブ社会のこと)』は、基礎的な力を「吸い取り紙」になって吸収した先に大きく広がる自由な世界である。そのあとは、没頭する対象を自ら選択し、人々に平等に与えられる唯一の資源たる時間の一瞬一瞬を、自分の責任でそこに注ぎ込んでいく。それが『もうひとつの地球』と積極的につきあう新しい生き方だ」と断言します。
これこそが著者がウェブ時代をサバイバルしてゆくこれからの若者に伝えたかったウェブ・リテラシー(ウェブとのつきあい方)。
現代を生きる我々は是非読んでおきたい一冊です。
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この本を読んでから夜に、知人の小学校の先生と一杯飲みました。
これからの社会のありようと、そこに子供たちを送り出す教師たちが伝えなくてはならないこと、教えなくてはならないこと、そうした学校を取り巻く環境のこと・・・。
「教師や学校の厳しい現実を超えて、成果を出すにはどうしたらよいのですか?」と訊くと、「それはね、批判があっても最後は【なりふり構わずにやる】ことですよ、ははは」とのこと。
うーん、いろいろにインスパイアされて、自分が高まる一日でした。
こういう日がたまにあるものです。