シアターオーブ、2012年10月8日マチネ。
長年確執を募らせるイタリア・ヴェローナの二大名家、モンタギュー家とキャピュレット家の一団を前に、絶対的権力者である大公(ステファヌ・メトロ)が人々の惨状を荒々しく吐露する。キャピュレット家ではひとり娘ジュリエット (ジョイ・エステール)にパリス伯爵との縁談が持ち込まれ、従兄ティボルト(トム・ロス)は孤独な人生を憂いていた。一方モンタギュー家のロミオ(シリル・ニコライ)はいつかめぐり逢う運命の人に想いを馳せていた…
作・音楽/ジェラール・プレスギュルヴィック。2001年初演、2010年日本初演。2010年パリ凱旋公演時の改訂版を招聘。フランス語上演、字幕つき。全2幕。
星組版の感想はこちら、雪組版の感想はこちら、 男女混合キャストによる日本オリジナル・バージョン版の感想はこちら、月組版の感想はこちら。
まず、シアターオーブですが、ヒカリエの11Fまで上がったスカイロビーの奥に入り口があります。見晴らしがよくて明るくて、気持ちのいい空間でした。高いところ大好き!
そこからさらにエスカレーターで上がらされたところが正式なエントランス(チケット改札)。入ったロビーも広く明るく、トイレの数も多くよく回転していて、私は使いませんでしたがクロークもきちんとしていて見えました。
バーカウンターは二階客席ロビーにありました。
客席は三階まであるのかな? 赤坂ACTとかと似た印象でした。
席は前すぎて字幕が見づらく、まあ脳内で宝塚版の歌詞が自動的に再生されるのであまり見ませんでしたが、あまりいい訳詞ではなかったような…そしてかなり歌詞のニュアンスが違って感じられるものもありました。
それにしてもこれがオリジナル版なのでしょうか?
2幕はけっこう差異がありましたが、1幕はほとんど宝塚版そのままに感じられ(宝塚版にはなく男女版にあったキャピュレット夫人のいわゆる「涙の谷」がちゃんとあったくらい? あと「ティボルト」の位置とか。これは宝塚版でもあったりなかったり位置が違ったりしたし)、なんかもっと違うものを想像していた私にはなんとなく肩透かしでした。
だってスペクタキュラー・ミュージカルとか言ってさ、フランスのミュージカルはロンドンやニューヨークのものとは違うんだ、みたいな触れ込みだったじゃないですか。なんだっけ、シンガーとダンサーを分けているとか何とか。
だから私はたとえば、歌うジュリエットと踊るジュリエットがひとりずついるくらいなのかと思っていたわけですよ。ひとりがジュリエットの心情を歌い、合わせてもうひとりがジュリエットの心情を踊る、とかね。普通のミュージカルではひとりがやるけれど分業するということならそういうことなのかな?と思ったり。
でも別にそんなじゃなかったですよね…確かにメインキャストはほとんど踊らず歌うばかりで、踊るのはモンタギュー・チームやキャピュレット・チームなんだけれど、それって要するにアンサンブルってことで、分業ってほどではないじゃん…
どこがどうフランス独特なの?
キャピュレット夫人(ステファニー・ロドリグ)のいわゆる「涙の谷」、原タイトル「おまえは結婚しなければならない」(プログラムのミュージカル・ナンバーに、原タイトルだけでなく日本版というか小池版の曲名もちゃんと入っているのが嬉しい。翻訳によってタイトルの切り取られ方も変わってきているのです。いろいろニュアンスも違っておもしろい)のときに、歌う夫人とそれを聞いているジュリエットの他に、踊る夫人らしきダンサーとジュリエットらしき少女が別にいたけれど…ちなみにあれはもしかしてキャピュレット夫人の母親と少女時代の夫人だったのだろうか? でもあの特徴的なヘアスタイルを代々踏襲しているというのもシュールなんですけど…
とにかく、ここも特に効果を挙げていたとは思えなかったんですよね。だったら例えば『仮面のロマネスク』でヴァルモンとメルトゥイユが銀橋ないし舞台手前で歌い合うときに舞台奥でその心情を踊るふたりがいた演出とかの方がよっぽど効果的でした。
うーむ…
しかしもちろんセットは綺麗で歌唱はしっかりしていて骨太な味わいの舞台はがっつり楽しめました。もちろん私はどロマンチックに仕上げた宝塚版の方が結局は好きですが、それはそれこれはこれ。
そしてやはり楽曲が良く、楽しく観ました。
序曲が流れると早くも鳥肌が立ったのですが、ジュンコさんのナレーションが流れてこないのは不満だったりして(^^;)。
そしてまず「ヴェローナ」ですが、なんか大公はすごく高圧的というかザッツ・権力者で、みんなをいさめ慈しむというよりはおとなしくしてろ馬鹿者、とか言っているくらいのエラそうさで、わーなんか荒んでるわー、という感じがまずおもしろかったです。
芝居の部分があまりないというか、話の展開はけっこうカットが多く、逆に言うと小池先生はそこを丁寧にかつスマートにつなげたのだなあ、という印象。
またパリスがほぼアンサンブル扱いで歌わせてもらえていなかったり(キャストの問題かも)、モンタギュー卿がいなかったり、というのもなかなか唖然としました。
モンタギュー夫人(ブリジット・ヴェンディッティ)は特に未亡人っぽい装いはしていませんでしたが…これもキャストの問題なのかもしれないけれど(卿をさせられそうな中年男性をツアーに連れてこられなかったとか)、だとしたらモンタギューの総大将はもはやロミオということになってしまうので、ちょっとさすがにアレなんじゃないでしょうか…いや愛のためにな何もかも捨てるのもいいけどさ、跡継ぎがやるのと現頭領がやるのとじゃ重さが違くなっちゃうじゃん…
日本版では黒衣の男性の死が印象的でしたが、フランス版では白いドレスの女性が死(オレリー・バドル)に扮しています。
そして宝塚版の愛と死にしろ日本版の死にしろ、とても端整なたたずまいだったと思うのだけれど、フランス版の死は肉食系です。女性がやっているからってたおやかということはない。がんがん人間たちの間に割って入って噛み付いて掻き回して、黒い感情を引きずり出している感じでしょうか。
そんな死に翻弄されながら歌うロミオの「僕は怖い」は、だから本当に戦いのようで、しかも完全に負け戦感満載で、死に誘われるような背徳感とかBL感とかは全然ないんですね。おもしろい。でも最後の最後は聖母子像のようにも見えるという、不思議なナンバーになっていました。
仮面舞踏会はアヌビスとかが出ているからエジプトふう仮装しばりなのかな?
そして舞踏会の演出がこちらの方が私は好みでした。
ロミオとジュリエットが出会っていわゆる「天使の歌が聞こえる」になるとき(原タイトルは「幸福な愛」)、宝塚版では他の客たちはみんなハケてしまってふたりきりになるじゃないですか。
それはもちろんふたりの眼中にはお互いしかなくなり、ふたりだけの世界を作り出してしまっていることを表しているのだけれど、不自然といえば不自然でしょ? だってそこはパーティー会場で、みんながふたりだけ残して場所を変えるなんてあるわけないんだから。
フランス版では、周りの客はそのままそこにいますが動きを止めてしまい、ロミオとジュリエットだけが動き歌い寄り添い合い抱きしめ合うのです。
そこへほぼ連続してティボルトの「本当の俺じゃない」(原タイトル「俺のせいじゃない」)が始まります。このティボルトは一族の跡継ぎでちょっと乱暴者だけれどカリスマがあって…というよりは、どうもみそっかす扱いされているような、ハブられ厄介者扱いされている感じの悲哀が漂っているのですよ。そして歌声が意外に甘く優しい。
で、愛し方を教わっていない、だから愛し方がわからないだけ、俺のせいじゃないのに…みたいなことを歌いながら、カップルになって固まっている舞踏会の客たちをどついて倒していく。だけで抱き合ったまま固まっているロミオとジュリエットだけは倒されないんです。すごくいい演出だなと思いました。
それでいうとだから、キャピュレット夫人とテイボルトの関係というのは何もないことになっていたんじゃないかな? 私が何か見逃しただけ? でものちにティボルトが死んだときの夫人の嘆きも、あくまで保護者レベルに見えました。
このキャピュレット夫人は夫が浮気するなら自分もする、みたいな現代的なタイプの女性ではなくて、高圧的な夫に虐げられていて苦しんでいる、わりと古いタイプの家庭婦人に見えました。夫に愛されていないことに苦しんでいて、ジュリエットに結婚を命じる夫にも渋々従っていて、とにかく自分ひとりでは何もできないでいるように見えました。
ロミオが神父に式を挙げてもらうよう頼みに行くくだりでは、ジュリエットもこの歌に混じったりしているんですね。
そして乳母(グラディス・フライオリ)の「彼女はあなたを愛してる」(原タイトル「そして今、彼女は愛している」)では、下手で結婚式に向けて着飾り鏡の前で踊るジュリエットが浮かび上がり、上手ではキャピュレット夫人が手鏡を覗き込んでは嘆く姿が浮かび上がります。若さと美貌が失われ夫の愛が冷めていくのを嘆いているんですよね。この対象性がせつないわ…
でも一幕ラストの「エメ」に乳母が参加していないのは寂しいと思うの! やはり立ち会ってほしいものです。ここは小池先生の改変なのでしょう、GJ!!
二幕冒頭でも大公が「パワー」という権勢欲を歌い上げる歌を歌うので、このマッチョに在り方が宝塚版とは全然違うんだなあ、とちょっとあきれます。
そして決闘場面。
宝塚版ではロミオがティボルトを刺すナイフってマーキューシオが落としたものですよね? でもフランス版ではティボルトのナイフなんですね。
まずもってマーキューシオが刺されたのが、ロミオが乱入して交差した拍子に、という感じではなかった。そしてマーキューシオの死にティボルトはものすごくショックを受けて、ナイフを取り落とすし手に着いた血を必死で拭おうとしたりする。その取り落としたナイフをロミオが拾って復讐するんですねえ。
ティボルトはだから、なんというか、わりと繊細な普通の青年にするちょっと見えるんですよね…髪型はエキセントリックだけれど小柄だし、キャラクターとしてどういうイメージの存在なんだろう、とちょっと不思議に思いました。
続く「代償」でちょっとおもしろかったのが、宝塚版ではベンヴォーリオ(ステファヌ・ネヴィル)が「僕たちは犠牲者だ」みたいなことを歌うフレーズがあるじゃないですか。大人たちから憎しみしか教わっていないからそのとおりやったんだ、みたいな論法の、それはそうかもしれないがしかしさすがに無責任すぎてひどい言い草だなオイ、とみんながむずがゆく思うと思う箇所ですが(^^;)、フランス版ではそれをロミオが歌うんですね。なんかそれこそオイオイで、なんかちょっともはや相当おもしろかったわ…
歌詞とその意味がずいぶん違うなと思ったのは神父(フレデリック・シャルテール)と乳母が歌う「神はまだお見捨てにならない」で、原タイトルは「絶望のデュエット」ですよ。
そして私は今回やっとラストの「罪びと」のラスト部分がこの歌のリプライズであることに気づいたのですが、今回はそのくだりがなかった…しょぼん…ラストにスモークや天国デュエダンがないことは知っていましたが(日本版でもなかったし)、霊廟でのみんなでの歌い上げまではそのままあると思っていたので…
キャピュレット卿(セバスティエン・エル・シャト)の「娘よ」(原タイトル「娘を持つこと」)はまたちょっと違うニュアンスの歌でしたね。卿が女好きの男であることは変わりがないんだけれど、若い女と遊ぶ男って自分の娘だけは別だと思っていたり、逆に自分の娘に近づく男をものっすごく警戒したりしますよね。これは後者の歌でした。その愚かな男っぷりがより染みました。
それから私は「彼女なしの人生」で、マントヴァに向かうロミオが銀橋を渡り、一方舞台では神父のもとに泣きつきに行ったジュリエットがいてハモる、というくだりが大好きなのですが(ああいう舞台空間の使い方って本当に素晴らしいと思うので)、フランス版にはなかった…! おそるべしイケコ!!
ロミオに毒薬を売るのが実は死だったというのもすごく好きなんですが、それもなかった。というかロミオが毒薬を手に入れるくだりがまったくなかったけれど、それでも話は通じることになっているのか、すごいなオイ。死はジョン(名前出てこないけど)からさっさと神父の手紙を取り上げて破り捨てていました(^^;)。
「どうやって伝えよう」(原タイトル「彼にどう伝えよう」)もシャウト部分がなかったよ、残念…
霊廟では、ロミオが毒薬を飲むと同時にジュリエットの手足がピクリと動き、ロミオが倒れ伏すと同時にジュリエットが身を起こすものすごいタイミングのすれ違いっぷりに仰天。
そしてジュリエットは傍らに横たわるロミオを見てすぐ死んでいると見て取って嘆き始めます。あの「起きて、旅に出ましょう」みたいなくだりがない! あそこが泣かせどころなのに!! イケコ演出なのか、すごいな!!!
続く神父たちの恨みがましい「何故」がまたいいですよね。神の沈黙を嘆き恨み不満を鳴らすこういうくだりを観るたびに、信心している人ってすごいよなあ…とか考えたりします。神様は絶対に絶対に応えてくれないものなのにね(だっていないんだもんね、ということではなく)、それでも信じて祈るんだよね…
アンコールでは「20歳とは」のあと「ヴェローナ」でまさかの大公客席下り、「世界の王」では客席スタオベ手拍子でした。宝塚版歌詞を歌って参加しましたよ(^^;)。
ロミオがちょっと馬面過ぎたのが難だったけれど、ジュリエットは美人だし、楽しかったです。
長年確執を募らせるイタリア・ヴェローナの二大名家、モンタギュー家とキャピュレット家の一団を前に、絶対的権力者である大公(ステファヌ・メトロ)が人々の惨状を荒々しく吐露する。キャピュレット家ではひとり娘ジュリエット (ジョイ・エステール)にパリス伯爵との縁談が持ち込まれ、従兄ティボルト(トム・ロス)は孤独な人生を憂いていた。一方モンタギュー家のロミオ(シリル・ニコライ)はいつかめぐり逢う運命の人に想いを馳せていた…
作・音楽/ジェラール・プレスギュルヴィック。2001年初演、2010年日本初演。2010年パリ凱旋公演時の改訂版を招聘。フランス語上演、字幕つき。全2幕。
星組版の感想はこちら、雪組版の感想はこちら、 男女混合キャストによる日本オリジナル・バージョン版の感想はこちら、月組版の感想はこちら。
まず、シアターオーブですが、ヒカリエの11Fまで上がったスカイロビーの奥に入り口があります。見晴らしがよくて明るくて、気持ちのいい空間でした。高いところ大好き!
そこからさらにエスカレーターで上がらされたところが正式なエントランス(チケット改札)。入ったロビーも広く明るく、トイレの数も多くよく回転していて、私は使いませんでしたがクロークもきちんとしていて見えました。
バーカウンターは二階客席ロビーにありました。
客席は三階まであるのかな? 赤坂ACTとかと似た印象でした。
席は前すぎて字幕が見づらく、まあ脳内で宝塚版の歌詞が自動的に再生されるのであまり見ませんでしたが、あまりいい訳詞ではなかったような…そしてかなり歌詞のニュアンスが違って感じられるものもありました。
それにしてもこれがオリジナル版なのでしょうか?
2幕はけっこう差異がありましたが、1幕はほとんど宝塚版そのままに感じられ(宝塚版にはなく男女版にあったキャピュレット夫人のいわゆる「涙の谷」がちゃんとあったくらい? あと「ティボルト」の位置とか。これは宝塚版でもあったりなかったり位置が違ったりしたし)、なんかもっと違うものを想像していた私にはなんとなく肩透かしでした。
だってスペクタキュラー・ミュージカルとか言ってさ、フランスのミュージカルはロンドンやニューヨークのものとは違うんだ、みたいな触れ込みだったじゃないですか。なんだっけ、シンガーとダンサーを分けているとか何とか。
だから私はたとえば、歌うジュリエットと踊るジュリエットがひとりずついるくらいなのかと思っていたわけですよ。ひとりがジュリエットの心情を歌い、合わせてもうひとりがジュリエットの心情を踊る、とかね。普通のミュージカルではひとりがやるけれど分業するということならそういうことなのかな?と思ったり。
でも別にそんなじゃなかったですよね…確かにメインキャストはほとんど踊らず歌うばかりで、踊るのはモンタギュー・チームやキャピュレット・チームなんだけれど、それって要するにアンサンブルってことで、分業ってほどではないじゃん…
どこがどうフランス独特なの?
キャピュレット夫人(ステファニー・ロドリグ)のいわゆる「涙の谷」、原タイトル「おまえは結婚しなければならない」(プログラムのミュージカル・ナンバーに、原タイトルだけでなく日本版というか小池版の曲名もちゃんと入っているのが嬉しい。翻訳によってタイトルの切り取られ方も変わってきているのです。いろいろニュアンスも違っておもしろい)のときに、歌う夫人とそれを聞いているジュリエットの他に、踊る夫人らしきダンサーとジュリエットらしき少女が別にいたけれど…ちなみにあれはもしかしてキャピュレット夫人の母親と少女時代の夫人だったのだろうか? でもあの特徴的なヘアスタイルを代々踏襲しているというのもシュールなんですけど…
とにかく、ここも特に効果を挙げていたとは思えなかったんですよね。だったら例えば『仮面のロマネスク』でヴァルモンとメルトゥイユが銀橋ないし舞台手前で歌い合うときに舞台奥でその心情を踊るふたりがいた演出とかの方がよっぽど効果的でした。
うーむ…
しかしもちろんセットは綺麗で歌唱はしっかりしていて骨太な味わいの舞台はがっつり楽しめました。もちろん私はどロマンチックに仕上げた宝塚版の方が結局は好きですが、それはそれこれはこれ。
そしてやはり楽曲が良く、楽しく観ました。
序曲が流れると早くも鳥肌が立ったのですが、ジュンコさんのナレーションが流れてこないのは不満だったりして(^^;)。
そしてまず「ヴェローナ」ですが、なんか大公はすごく高圧的というかザッツ・権力者で、みんなをいさめ慈しむというよりはおとなしくしてろ馬鹿者、とか言っているくらいのエラそうさで、わーなんか荒んでるわー、という感じがまずおもしろかったです。
芝居の部分があまりないというか、話の展開はけっこうカットが多く、逆に言うと小池先生はそこを丁寧にかつスマートにつなげたのだなあ、という印象。
またパリスがほぼアンサンブル扱いで歌わせてもらえていなかったり(キャストの問題かも)、モンタギュー卿がいなかったり、というのもなかなか唖然としました。
モンタギュー夫人(ブリジット・ヴェンディッティ)は特に未亡人っぽい装いはしていませんでしたが…これもキャストの問題なのかもしれないけれど(卿をさせられそうな中年男性をツアーに連れてこられなかったとか)、だとしたらモンタギューの総大将はもはやロミオということになってしまうので、ちょっとさすがにアレなんじゃないでしょうか…いや愛のためにな何もかも捨てるのもいいけどさ、跡継ぎがやるのと現頭領がやるのとじゃ重さが違くなっちゃうじゃん…
日本版では黒衣の男性の死が印象的でしたが、フランス版では白いドレスの女性が死(オレリー・バドル)に扮しています。
そして宝塚版の愛と死にしろ日本版の死にしろ、とても端整なたたずまいだったと思うのだけれど、フランス版の死は肉食系です。女性がやっているからってたおやかということはない。がんがん人間たちの間に割って入って噛み付いて掻き回して、黒い感情を引きずり出している感じでしょうか。
そんな死に翻弄されながら歌うロミオの「僕は怖い」は、だから本当に戦いのようで、しかも完全に負け戦感満載で、死に誘われるような背徳感とかBL感とかは全然ないんですね。おもしろい。でも最後の最後は聖母子像のようにも見えるという、不思議なナンバーになっていました。
仮面舞踏会はアヌビスとかが出ているからエジプトふう仮装しばりなのかな?
そして舞踏会の演出がこちらの方が私は好みでした。
ロミオとジュリエットが出会っていわゆる「天使の歌が聞こえる」になるとき(原タイトルは「幸福な愛」)、宝塚版では他の客たちはみんなハケてしまってふたりきりになるじゃないですか。
それはもちろんふたりの眼中にはお互いしかなくなり、ふたりだけの世界を作り出してしまっていることを表しているのだけれど、不自然といえば不自然でしょ? だってそこはパーティー会場で、みんながふたりだけ残して場所を変えるなんてあるわけないんだから。
フランス版では、周りの客はそのままそこにいますが動きを止めてしまい、ロミオとジュリエットだけが動き歌い寄り添い合い抱きしめ合うのです。
そこへほぼ連続してティボルトの「本当の俺じゃない」(原タイトル「俺のせいじゃない」)が始まります。このティボルトは一族の跡継ぎでちょっと乱暴者だけれどカリスマがあって…というよりは、どうもみそっかす扱いされているような、ハブられ厄介者扱いされている感じの悲哀が漂っているのですよ。そして歌声が意外に甘く優しい。
で、愛し方を教わっていない、だから愛し方がわからないだけ、俺のせいじゃないのに…みたいなことを歌いながら、カップルになって固まっている舞踏会の客たちをどついて倒していく。だけで抱き合ったまま固まっているロミオとジュリエットだけは倒されないんです。すごくいい演出だなと思いました。
それでいうとだから、キャピュレット夫人とテイボルトの関係というのは何もないことになっていたんじゃないかな? 私が何か見逃しただけ? でものちにティボルトが死んだときの夫人の嘆きも、あくまで保護者レベルに見えました。
このキャピュレット夫人は夫が浮気するなら自分もする、みたいな現代的なタイプの女性ではなくて、高圧的な夫に虐げられていて苦しんでいる、わりと古いタイプの家庭婦人に見えました。夫に愛されていないことに苦しんでいて、ジュリエットに結婚を命じる夫にも渋々従っていて、とにかく自分ひとりでは何もできないでいるように見えました。
ロミオが神父に式を挙げてもらうよう頼みに行くくだりでは、ジュリエットもこの歌に混じったりしているんですね。
そして乳母(グラディス・フライオリ)の「彼女はあなたを愛してる」(原タイトル「そして今、彼女は愛している」)では、下手で結婚式に向けて着飾り鏡の前で踊るジュリエットが浮かび上がり、上手ではキャピュレット夫人が手鏡を覗き込んでは嘆く姿が浮かび上がります。若さと美貌が失われ夫の愛が冷めていくのを嘆いているんですよね。この対象性がせつないわ…
でも一幕ラストの「エメ」に乳母が参加していないのは寂しいと思うの! やはり立ち会ってほしいものです。ここは小池先生の改変なのでしょう、GJ!!
二幕冒頭でも大公が「パワー」という権勢欲を歌い上げる歌を歌うので、このマッチョに在り方が宝塚版とは全然違うんだなあ、とちょっとあきれます。
そして決闘場面。
宝塚版ではロミオがティボルトを刺すナイフってマーキューシオが落としたものですよね? でもフランス版ではティボルトのナイフなんですね。
まずもってマーキューシオが刺されたのが、ロミオが乱入して交差した拍子に、という感じではなかった。そしてマーキューシオの死にティボルトはものすごくショックを受けて、ナイフを取り落とすし手に着いた血を必死で拭おうとしたりする。その取り落としたナイフをロミオが拾って復讐するんですねえ。
ティボルトはだから、なんというか、わりと繊細な普通の青年にするちょっと見えるんですよね…髪型はエキセントリックだけれど小柄だし、キャラクターとしてどういうイメージの存在なんだろう、とちょっと不思議に思いました。
続く「代償」でちょっとおもしろかったのが、宝塚版ではベンヴォーリオ(ステファヌ・ネヴィル)が「僕たちは犠牲者だ」みたいなことを歌うフレーズがあるじゃないですか。大人たちから憎しみしか教わっていないからそのとおりやったんだ、みたいな論法の、それはそうかもしれないがしかしさすがに無責任すぎてひどい言い草だなオイ、とみんながむずがゆく思うと思う箇所ですが(^^;)、フランス版ではそれをロミオが歌うんですね。なんかそれこそオイオイで、なんかちょっともはや相当おもしろかったわ…
歌詞とその意味がずいぶん違うなと思ったのは神父(フレデリック・シャルテール)と乳母が歌う「神はまだお見捨てにならない」で、原タイトルは「絶望のデュエット」ですよ。
そして私は今回やっとラストの「罪びと」のラスト部分がこの歌のリプライズであることに気づいたのですが、今回はそのくだりがなかった…しょぼん…ラストにスモークや天国デュエダンがないことは知っていましたが(日本版でもなかったし)、霊廟でのみんなでの歌い上げまではそのままあると思っていたので…
キャピュレット卿(セバスティエン・エル・シャト)の「娘よ」(原タイトル「娘を持つこと」)はまたちょっと違うニュアンスの歌でしたね。卿が女好きの男であることは変わりがないんだけれど、若い女と遊ぶ男って自分の娘だけは別だと思っていたり、逆に自分の娘に近づく男をものっすごく警戒したりしますよね。これは後者の歌でした。その愚かな男っぷりがより染みました。
それから私は「彼女なしの人生」で、マントヴァに向かうロミオが銀橋を渡り、一方舞台では神父のもとに泣きつきに行ったジュリエットがいてハモる、というくだりが大好きなのですが(ああいう舞台空間の使い方って本当に素晴らしいと思うので)、フランス版にはなかった…! おそるべしイケコ!!
ロミオに毒薬を売るのが実は死だったというのもすごく好きなんですが、それもなかった。というかロミオが毒薬を手に入れるくだりがまったくなかったけれど、それでも話は通じることになっているのか、すごいなオイ。死はジョン(名前出てこないけど)からさっさと神父の手紙を取り上げて破り捨てていました(^^;)。
「どうやって伝えよう」(原タイトル「彼にどう伝えよう」)もシャウト部分がなかったよ、残念…
霊廟では、ロミオが毒薬を飲むと同時にジュリエットの手足がピクリと動き、ロミオが倒れ伏すと同時にジュリエットが身を起こすものすごいタイミングのすれ違いっぷりに仰天。
そしてジュリエットは傍らに横たわるロミオを見てすぐ死んでいると見て取って嘆き始めます。あの「起きて、旅に出ましょう」みたいなくだりがない! あそこが泣かせどころなのに!! イケコ演出なのか、すごいな!!!
続く神父たちの恨みがましい「何故」がまたいいですよね。神の沈黙を嘆き恨み不満を鳴らすこういうくだりを観るたびに、信心している人ってすごいよなあ…とか考えたりします。神様は絶対に絶対に応えてくれないものなのにね(だっていないんだもんね、ということではなく)、それでも信じて祈るんだよね…
アンコールでは「20歳とは」のあと「ヴェローナ」でまさかの大公客席下り、「世界の王」では客席スタオベ手拍子でした。宝塚版歌詞を歌って参加しましたよ(^^;)。
ロミオがちょっと馬面過ぎたのが難だったけれど、ジュリエットは美人だし、楽しかったです。
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