駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『薮原検校』

2021年02月12日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 PARCO劇場、2021年2月11日13時。

 舞台に現れたるはひとりの按摩・盲太夫(川平慈英)。盲の身ながら悪事に長けたひとりの男の生涯を語り出す。物語の始まりは江戸時代の中頃、松島は塩釜漁港。性悪だが見目の良い魚屋・七兵衛(三宅健)と、顔はおへちゃだが心根の優しいお志保(宮地雅子)の間に男児が生まれる。夫婦は子を慈しむが、七兵衛の悪行が祟ったためか、子供は目が見えなかった。生きる術は他にないとお志保は男児を塩釜座頭・琴の市(佐藤誓)に預ける。真っ直ぐに育て、と杉の市(市川猿之助)と名付けられるが…
 作/井上ひさし、演出/杉原邦生、音楽・演奏/益田トッシュ。1973年初演。

 以前、せたパブで萬斎さんで観たときの感想はこちら
 内容は全然覚えていないんだけれどおもしろかった…という記憶があったので、こまつ座でチケットを手配しました。おもしろいったってコメディとかではなくて、ピカレスク・ロマンで、ユーモラスなところもあるけれど基本的には障害者差別を描く重い、長い、しんどい作品です。
 前回も長いとは感じたんだけれど、今回はより感じたかなー。そこも含めて鑑賞すべき作品だとは思うんですけれどね。ミュージカルではないけれど効果的に歌や音楽が入るのが井上戯曲の定番で、なのでテーマとか構造とかが『パレード』に近いのかな、とも思いました。もうちょっと塙保己市(三宅健)の怖さというか胡散臭さをわかりやすく描いてもいいのかな、とは感じたかな。それがラストの嫌さ加減にも直結するんだと思うので。
 三宅くんは私は舞台を初めて観たかもしれませんが、最初は声が悪いなと思っていたら何役も演じ分けるためのものだったのかとのちにわかり、どの役も達者で感心しました。
 でも鮮やかだったのは川平慈英と益田トッシュだったかなー。猿之助はもちろん、松雪泰子も素敵でしたが。あとテレビドラマでよく見る人という印象でしたが、宮地雅子がホント上手かった。
 我ながら、ちょっと森発言のショックが尾を引いていて、さらに後任もアレな感じだし、『パレード』のユダヤ人差別、黒人差別、南部貧乏白人差別なんかもわかるし今回の障害者差別もわかるし、そういうあらゆるマイノリティ差別を世の中から撤廃していかなくちゃならないんだけれど、数でいったらマイノリティでもなんでもない、人口の半分を占める女性たちが今なお差別に苦しめられている現状を突きつけられてちょっとげんなりしていて、フィクションでも観るのが食傷気味、というコンディションで観てしまったかもしれません。すみません。(でもよく考えたらマイノリティって数じゃなくて、保持している力の小ささのことですね。そういう不平等が問題だ、ということであって…)

 新しくなった劇場は綺麗で客席の傾斜がしっかりあって観やすく、センターブロックが1列20席くらいあって真ん中の席の人の出入りがちょっと大変かな、という以外は問題がなさそうでした。ちょっと大きいシアタークリエくらい? ロビーで一杯飲めて終演後も街でごはんができて、という日々が戻ってくれば、楽しいロケーションにあるいいハコだな、と思いました。でも祝日の渋谷は、いつもほどではなかったけれどそれでも人出はけっこうありましたね…引き続き気を引き締めて、シュッと行ってシュッと帰り、普段は在宅勤務で家に籠もりたいと思います…





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『マリー・アントワネット』

2021年02月11日 | 観劇記/タイトルま行
 シアターオーブ、2021年2月8日17時。

 18世紀末のフランス。国王ルイ16世(原田優一)統治の下、国家は財政難に陥っていた。それにもかかわらず上流階級の貴族たちはいまだ豪奢な生活を送り、飢えと貧困に苦しむ民衆たちの王室への不満はふくれあがっていた。パリのバレ・ロワイヤルでは、オルレアン公(この日は上原理生)が主催する豪華な舞踏会が開かれている。圧倒的な美しさを誇る王妃マリー・アントワネット(この日は笹本玲奈)は、スウェーデン貴族フェルセン伯爵(この日は田代万里生)と再会する。そこへ、舞踏会に忍び込んできた貧しい少女マルグリット・アルノー(この日はソニン)が突然現れる。MAという同じイニシャルを持ちながら、正反対の環境で生きるふたりの女性が出会った瞬間だった…
 脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ、音楽・編曲/シルヴェスター・リーヴァイ、演出/ロバート・ヨハンソン、翻訳・訳詞/竜真知子、音楽監督/甲斐正人、振付/ジェイミー・マクダニエル。遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』を原作に、2006年に東宝が「帝劇から世界へ」と銘打って初演したミュージカルで、2009年ドイツ、14年韓国、15年・16年にハンガリーで上演されブラッシュアップがされ続け、18年に日本で改訂版を上演したものの再演。全2幕。

 『パレード』もそうだったのですけれど、初演のときにはなんとなく食指が動かず、再演と聞いて「再演されるくらい良作なんだったら観ようかな」とチケット取りに動きました。実際には製作費回収のためとかで2年後くらいの再演というところまではあらかじめ折り込み済みなのかもしれませんが、でもこのご時勢の中で上演できるだけすごいし、上演してくれるだけでありがたいことです。初日直前くらいに取ってもまだまあまあの良席が買えたところがせつなかったですが…でも、健全ではあるかもしれません。それでも空席はぼつぼつとあり、来られなかった人も多いのだろうなと思うとそれもまたせつなかったです。あ、私はマリーハナフサをミュージカル女優としてあまり買っていなくて、ソニンは好きなのでこの組み合わせを取りましたが、花ちゃん回は満席だったよとかならそれはそれで申し訳ありませんです…チケットが売れることはいいことです。
 さてしかし、そんなわけで初演からだいぶいろいろな変遷を経てきた作品ではあるようですが、もっともっと手を入れられるだろう、てかまだまだ脚本が弱くて全然できてないじゃんこの作品、というのが率直な感想でした。楽曲は素晴らしく役者の歌唱もみな素晴らしく、音の圧に当てられ酔いしれ楽しめただけに、またゴージャスなお衣装(衣裳/生澤美子)も八百屋の盆の装置含め豪華なセット(美術/松井るみ)もシオティーの指揮(指揮/塩田明弘)による生オケも十分に堪能できただけに、肝心のお話がこれかーい!てか、なってなーい!!と私には思えたのでした。毎度、感激感涙大感動だった方にはすみません…
 遠藤周作の『王妃~』を私も昔読んだ記憶はあるのですが、中身は覚えていません…『ベルばら』以上のものはなかったんじゃないかな? というかマルグリットのアイディアってこの小説にあったものなんですか?
 てかそもそもマリー・アントワネットのイニシャルってMAじゃなくない? 彼女の名字は結婚前はド・ロレーヌ・オートリッシュで(私のこのあたりの知識は何もかも池田理代子『ベルサイユのばら』によっています)、結婚後はド・ブルボンなのかな? とにかく、イニシャルってファーストネームとセカンドネームの頭文字で作るものではないのでは? 西洋の風習にくわしくないので、よくわかりませんが…少なくともマルグリットの「アルノー」は名字でしょう? そこがすでにバランス崩れてるってのは、どうなの?
 あと、なので私はこの作品の正式タイトルは『MA(エムエー)』だとずっと思っていたんですけれど、会場についてプログラムを買って初めてくらいに『マリー・アントワネット』だということに気づきました(発券したチケットの日時や会場以外の文面をよく見なかったので…)。MAってのはこの舞台の単なるロゴマークみたいなものだったんですね。でも、ラインナップでは最後にマリー役者がひとりで登場し、その前がマルグリット役者でしたが、あとはずっとふたりセットでいました。カテコに出てきても常にふたり一緒で、マリーはフェルセンに、マルグリットはオルレアンにエスコートされてハケる。なので、ダブル主演というかダブルヒロインというか、対等なキャラクターとされているんじゃないの? もちろん、『メアリー・スチュアート』もタイトルロールはメアリーだけどメアリーとエリザベスがダブルヒロインのような、なんならエリザベスの方が主役っぽい作品でしたが、それと比べるとこのマルグリットにはあまりにドラマがない、と私は感じました。マリーと対比される民衆側の架空の女性キャラクターとして、例えばロザリーやジャンヌほどには描けていません。なら、『ベルばら』からオスカルのパートだけ抜いてやればよかったんじゃないの? あれこそマリーの物語です。今、マリーについても『ベルばら』以上のものが描けているとは思えません。ましてマルグリットは同格のキャラとしてもそうでないとしても、全然描けていない。本当は、「女を入れると会議が長引く」みたいな森発言とかが飛び出しちゃうような今だからこそ、現代日本でやるからこそ、マリーとマルグリットを通して描けるものがもっともっとあるはずなのに。なのにこんなあいまいで漠然とした脚本で、こんな豪華な座組がもったいないよ…と歯噛みしながら観てしまいました。
 本当は、ストーリーとテーマこそが作品の命なんだと思うんです。でも、この作品は何を描きたいのかが、私には中途半端に見えました。
 マリーの人生を描きたかったのだとしたら、彼女の魅力を上手く描けていないと思いました。ハナから浅はかでしょーもない女に描いているようにしか見えませんでした。それじゃ観客は彼女のことをいいな、好きだな、応援したいなと思えないし、そのあと彼女が目覚めようが運命に凜々しく立ち向かおうが、感動できません。それじゃダメで、観客がもっと彼女に対して親身になれるように、好感を持つように、私もこうかもしれないなと思うくらいに彼女をチャーミングに、良く描いてあげなければならないのではないでしょうか。
 彼女はたまたまオーストリア皇女に生まれついちゃっただけの、私たちと変わらないごく平凡で善良な女で、明るくて優しくて朗らかでお茶目で、それが陰謀渦巻く宮廷の貴族社会の中では浮いちゃって陰で馬鹿にされる原因になっちゃっただけで、人を信じやすくて騙されやすいのも欠点とは言いきれなくて本当なら美点のはずで、家族と友達を愛し自分にできる小さな幸せを見つけて楽しむいじらしく可愛らしい人で、それが庶民のどれだけの犠牲の上に成り立つものなのか思い至らなかったことは確かに不勉強だったし国民を愛し守るべき王妃としては愚かでふさわしくなかったんだけど、なんせフツーの女だったんだししょうがないんですよ、私たちだってうっかりこんなふうに生まれついたらこうなっちゃいますよ、そんな上手く政略結婚に対応して良き妻良き国母良き王妃良き君主になんてそうそうなれませんよ…と観客に思わせるように作ってほしいのです。そう描けるエピソードもチャンスも多々あるのに、そうなってない。そこがもったいないのです。フェルセンが説教するくだりなんかも逆効果になっていると思います。マリーの愚かさが際立つだけだし、フェルセンは愛する女のことを全然理解してくれない、心ない男にしか見えません。ランバル公爵夫人(彩乃かなみ)もあいまいなキャラで、ただの享楽的な女友達かと思っていたら後半急に信心深げに歌ったり教会に行こうとして殺されたりしていて、「えっ、そういうキャラだったの?」と思っちゃいましたよ。神に関して描くつもりなら、このあたりももっとやりようがあったでしょうよ…
 フツーの女、しかもフツーよりはちょっと美人でちょっと勉強が嫌いな、そんなわけでフツーよりちょっとやっかいな、でも明らかに私たちみたいなただの女がこんな家に生まれちゃって、国の都合で幼くして結婚させられて世継ぎを産むことばかり期待されて周りからやいやいうるさく言われて、そりゃささやかな贅沢や恋くらいしちゃうっつーの、って感じの空気をもっと上手く作らないと、この作品は響かないと思います。それでも「わがまますぎない? この立場になったんだからわきまえろよ」って視点が出ちゃうのが世知辛い現代なのだとも思うので。『エリザベート』のシシィの「鳥のように自由に生きたい」みたいなのも、人として不変の想いだと捉えるか、この立場の人にふさわしくないワガママだと捉えるかはかなり別れるところなわけで、でもこの作品ではこのキャラのこの心情に肩入れしてもらいたいんです、って意図があるのならやり過ぎなくらいにそう描かないとダメなんですよ。その意味でたとえば『ベルばら』の演出を全然越えられていません。なので、なら『ベルばら』やれよ、って言いたくなっちゃうわけです。
 マルグリットという、同じイニシャルだけど正反対の境遇の女を出すことでマリーを描く、というのなら、ふたりの似ているところと違うところの描写をもっと突き詰めなければダメでしょう。てか異母姉妹ってさすがに無理がありませんかね? ウィーンでマリア・テレジア女帝の夫やってる男にパリで私生児作る暇なんかありますかね? でもそこはあえて目をつぶって、同じ父親を持つ同じ歳の、でも全然違う境遇に育った女ふたり、とするのはおもしろいと思うので、だったらもっともっと描き込みたいですよね。
 たとえばマリーが天真爛漫でおてんばで勉強嫌いな少女だったのだから、マルグリットはおとなしくて引っ込み思案ででも本を読むのが大好きな勉強熱心な少女、にするとかね。父親はたまにしか顔を見せないけれどお金も出してくれるし本も送ってくれる、だから母娘は貧しいながらもなんとか暮らしていて、マルグリットはもっと勉強したい、もっと世界を見たいと思って育ち、やがて啓蒙思想に目を開かされていき、自由や平等というものを欲するようになる、とかね。けれど父が死んだのか送金が絶え、母が病を得て生活は一気に苦しくなる、とかね。マリーが政略結婚をさせられたのだから、逆にマルグリットは幼馴染みの仲良しとラブラブの結婚をするんでもいい。でも飢饉で生活が苦しくなり仕事も干されて夫は酒に溺れるようになり、暴力を振るい、子供からすら食べ物を取り上げるような男になっていって、マリーの長男ルイ・ジョセフと同じ年に生まれたマルグリットの子供は飢えで死んでしまう、とかね。それでマルグリットは変わる、革命の闘士として立ち上がる。のちに監獄でマルグリットがマリーの娘や次男を見たときに、「あなたにもお子さんがいるの?」「いたよ、生きていればあんたの死んだ長男と同い歳だ」と語り合う、とかね…
 でも、マルグリットをキャラとして立てることがなかなか難しいのはわかります。暴徒の先頭に立つ女、ってやっぱ怖いですもん。プログラムに「私の憤りが、いつか世界を変える」とあって、それはわかるんですね。怒りとか憤りが大事、ってのは最近でも、しつこいですが森発言に瞬時に怒って性差別だと訴え反発するような力が必要とされていることからもわかるのです。でも、それが暴動につながるというのはやはり男性的だと思うんですよね。これもある種の性差別に当たるかもしれませんが、でも、女はどうしても本能的に暴力を回避しようとするものだと思うのです。今のような、貴族を倒せ、王妃を殺せ、とわめき叫ぶマルグリットは、気持ちはわかるんだけれども観客の支持は得られない、という存在になっちゃっていると思います。また、復讐の対象としてマリーの命を狙う、というのも違う気がします。そんなことをしても死んだ長男は帰らないし、民衆の飢えた腹が満たされるわけでもないからです。観客には復讐の虚しさがわかっているので、やはりそういうマルグリットには同調しづらい。
 でも、同じ人間なのに、同じ父を持つ同じ歳の女なのに、こんなのは理不尽だ、人間は平等であるべきだ、等しく幸福になる権利があるはずだ…と怒り、嘆き、憤るマルグリット、という流れは作れるはずです。それで観客の共感を呼ぶようなキャラにするためには、彼女はもっと高邁な理想を、理念を、思想を、ある種の綺麗事を訴える人間にすればいいと思うんですよ。今、たとえば『1789』にあるような、人権宣言みたいなことを言うキャラクターが全然いないじゃないですか、この作品には。歌詞にもそういう部分が全然ないんですよね。貴族の浪費と傲慢に民衆がキレて騒ぐ、というだけで、自由や平等を求める革命の理念みたいなものが熱く語られるようなくだりは全然ないのです。だからそれをマルグリットにやらせるといいと思うのですよ。ロベスピエール(青山航士)が今はなんかいるだけみたいなキャラになっちゃってるので、他の作品とかで闇落ちする以前の彼が言いそうな青い理想をマルグリットが言えばいいと思うのです。死んだ子供の復讐がしたいのではなく、貴族を懲らしめたいのでもない、人はみな自由で平等であるべきだ、だから今のこの社会を変えたい、だからみんなで立ち上がろう、と熱く訴えるくだりを作ればいい。それは観客の心にも響くでしょう、現在なお達成されていない人類の課題だからです。
 そしてそんなマルグリットが、今のように、オルレアンそしてジャック・エベール(この日は上山竜治)たち、理想や思想のためより目先の小金や自分の権力に目をくらませている男たちに利用される…とすると、よりドラマチックになるのではないかしらん。その場合、マルグリットは彼らのどちらかに惚れちゃってもいいのかもしれません。女性キャラクターだと色恋沙汰を作らないとドラマにならない、ってのもまた性差別的ですが、でも色恋ってものすごく大きなファクターです。人間の情動の原因となるものの大きなひとつです。ここでさらに性差別的なことを言うのはどうかと思うのですが、私は男が「勝ちたい」と思うのと同じくらい女が「愛されたい」と思うことは強く激しい欲求だと考えているので、そしてマリーが「愛する女」として描かれているので、マルグリットにもそういう面があってもいいのではないかな、と思ったのです。少なくとも今、あまりに何もなくてただ怒ってるだけみたいになっちゃってるので、人間味がなくてつまらないし、空っぽで寂しいキャラになっちゃってると思うんですよね。
 フェルセンがすごく紳士的で、マルグリットを人間扱い、貴婦人扱いするところなんか、いいなと思ったんですよね。それでマルグリットはちょっとほろりと絆されてもいいと思うんです、なおさらマリーに妬いちゃうとかでもいいでしょう。とにかくなんでもいいからマルグリットの心が動く様子がもっと欲しいわけです、それがドラマになるのですから。
 マルグリットがエベールかオルレアンをちょっと好きになって、でも利用されただけで裏切られた、というような恋愛展開じゃないなら、恨みを持つ展開でもいいかな。ロザリーのパクリに近いけど、たとえば夫が死んだのはオルレアンのせいだとかで、密かに復讐の機会を探している、とかね。それで彼らに協力し、民衆の先頭に立つ振りをして、エベールとオルレアンの契約書をそっと盗んでおくマルグリット…とかね。それとも、惚れるのはフェルセンに対してで、でも彼は貴族で雲の上の人間みたいなものだし王妃の恋人だ、この想いが届くわけはない、でもせめて身分が対等なら友達くらいにはなれたかもしれない、やはり生まれながらに身分や階級が決まってしまうなんておかしい、こんな世の中は変えよう…と同志エベールたちと立ち上がる、でもいいかもしれません。
 これまたいいなと思いつつ物語として未消化だなと感じたエピソードは、マルグリットが立ち上がろうと演説をぶっても、女たちは目先の賃金が欲しくて洗濯に勤しんで耳も貸さない、というくだりです。そうですよね、理想や思想では腹は膨れない、彼女たちにとっては革命運動に身を投じるなんざ贅沢なことで、ただ家族に今日食べさせるもののことしか考えられないのです。だからマルグリットがどんなに理想を語っても、彼女たちは動かない。でも、オルレアンがギャラを出すからデモれと言うと、彼女たちは飛びつくんですよ。そして行進を始める。マルグリットは呆然として最後をついていく…
 すごく、わかるんですよね。さもありなん、とも思う。でもこれって、マルグリットが負けたってことでしょ? オルレアンが金の力を使ってずるく立ち回って勝ちをさらったってことじゃないですか。いやオルレアンはマルグリットに「先頭に立て、行進を率いろ」と勝ちを譲るようなことを言いますよ? でも実際のマルグリットは出遅れて、最後尾を行く形になっているじゃないですか。オルレアンは彼女を、女たちのパワーを利用しているだけで、自分は体よく陰に隠れて、民衆が国王たちを引きずり下ろすのを待っている。マルグリットたちは矢面に立たされて利用されているにすぎないんです。ここに高邁な理想なんか全然ない。観ていて、なんの救いもなくただ醜い現実が突きつけられただけの場面になっていて、私は鼻白みましたね。でもこの視点は『ベルばら』にはなかった。だからどうせなら生かしたい。
 だからここは明らかにマルグリットが負けて、しかもそれを悔しがる場面にすべきなんじゃないでしょうか。彼女は人々に理想のために立ち上がってほしかったのに、彼らはそれでは動かず、金をチラつかされて動いた。それでは利用されているだけだ、オルレアンは民衆の味方なんかじゃない、自分がルイの代わりに王座に就きたいだけの権勢欲の塊みたいなチンケな男だ、騙されるな、行っちゃダメだ…マルグリットがそう叫んでも誰も耳を貸さない、人々はいつしか暴徒化して王宮へ進軍してしまう。暴力では何も解決できないのに、と打ちひしがれるマルグリット…
 革命は進み、国王一家は監獄に移送され、マルグリットはスパイとして世話係になり、その日々の中でマリーが意外とただのフツーの女であること、家庭の外に恋人を持ってはいたけれど意外に良き妻良き母親であり、父に教わった懐かしい子守歌を歌う、自分の異母姉妹かもしれない女であることに気づく。この人を処刑してもなんの意味もないんじゃなかろうか、最愛の恋人に最後に一目合わせてあげてもいいんじゃなかろうかと思うようになる…とかね。
 けれど革命はさらに凶暴化して貴族を端から断頭台に送り、マリーもついに処刑されてしまう。オルレアンやエベールは我が世の春とばかり天狗になっている。だからマルグリットは彼らの秘密の契約書を持ち出して彼らを告発する。自由や平等といった理念をホントは屁とも思わず、ただ自分がのし上がったりいい思いをしたかっただけの男たちを正義の名の下に引きずり下ろす。その時点ではまだヒーロー方だったロベスピエールは、正しい判決を下すでしょう。
 それでも革命はまだ道半ばで、そもそも女性は未だ二級市民扱いです。真の自由、平等、友愛の世は遠い。それでもそれを目指したい、とマルグリットが歌い出し、そこへ霊魂となったマリーも加わって全員で歌うラストの「どうすれば世界は」は、問題が据え置きのまま持ち越されている現代に生きる我々観客の胸に、深く響いてくるのではないでしょうか。女が主役で、主に女が多く観る現代日本のミュージカルの舞台で、これなら訴えるに足るテーマになり、それを紡ぐストーリーになるのではないでしょうか。どうすれば世界は変えられるの?と歌い上げられて終わる、オチのない、宿題を観客に押しつける作品。かんばらなくては、彼女たちの遺志を継いで自分たちが世界を正しく、豊かに変えていかなければ…と思わせられる作品に、こういう流れでなら、できたんじゃないのかなあ。そういうものが、私は観たかったなあ…

 さて、久々に観た笹本玲奈ちゃんは歌が上手くて可愛くて、とても素敵でした。演技が上手いのかどうかは、なんせこの作品の中でのマリー像が私にはよくわからなかったので、ちょっと判断ができませんでしたが。
 そしてこういう役はお手のものだよね、というソニンも素晴らしかった。だからこそ、ただオルレアンやエベールの掌で転がされていただけに見えかねないマルグリット像なんかじゃなくて、もっと理想と信念に生きて傷つき戦う熱く激しい演技が見たかったなー。
 田代くんは王子さま、上原さんは楽しげな悪役で、いずれもよかったです。とにかく出てくる人みんな歌が上手いので、耳が喜ぶったらありませんでした。ミホコの歌も良かっただけに、意味不明だったことが残念です。ユミコも良かったけれど、なんならあのキャラはいらなかったよね…貴族を利用し調子に乗らせてその下で小ずるく稼ぐ小悪党、という存在意義は、マリーの純粋さと他の貴族の傲慢さとがもっときちんと描かれてこそ生きてくるものだと思うので、今は不発です。
 ルイ、ギヨタン(朝隈濯朗)、ラ・モット夫人(家塚敦子)もそれぞれ良かった。子役も泣かせてくれました。
 そうだ、大ラスはマリー・テレーズ(この日は石倉雫)で締めてもいいな、とも思ったのでした。マリーの娘、のちにオーストリアへ逃れ、もちろん苦難もありつつも天寿をまっとうしたと言ってもいい女性。そうやって女は血をつなぎ遺志をつないでいく、私たちもまた…と観客に思わせる流れとして、です。

 再度手直しして、コロナの収まった世界で、またヨーロッパへそしてアメリカへ(アメリカではマリーはあまりウケないのかしら…)進出していけたらいいのになあ、と思います。あとはこれくらいの作曲家が日本人でも出てきてほしい。舞台の基本はまずは脚本だけれど、ミュージカルにするなら楽曲がもちろん大事ですからね。
 輸入過多どころかほぼほぼ輸入一本槍の日本のミュージカルですが、漫画だアニメだ2.5だってどんどん海外進出しているんだから、戯曲が続けないはずはないんですよね。がんばっていただきたいものです。海外公演を追っかけて旅行できる日々が、早くまた来ますように…



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『僕とナターシャと白いロバ』

2021年02月08日 | 日記
 浅草九劇、2021年2月4日18時半。

 一時、熱く愛した詩人ペクソク(東山光明)を忘れられず、一生恋しく思いながら独身を貫いた妓生のジャヤ(この日は月影瞳)。「私のように卑しい女性をひとりの詩人が愛し、ナターシャにしてくれたのだから、自分は喜んでそのように生きる」と、彼と彼の詩に一生を捧げたジャヤと、彼女の記憶の中に溶け込んでいるペクソクの物語。
 Book by Park Hae Rin、Music by Chae Han Wool。上演台本・訳詞・演出/荻田浩一、音楽監督・歌唱指導/福井小百合、振付/港ゆりか。韓国人なら誰でも知っている、国民的詩人ペクソクとその恋人ジャヤの悲恋の韓国ミュージカルを日本語上演。全1幕。

 舞台と客席の間にビニールカーテンが下げられていて、そりゃ狭い会場だし感染対策してくれるのはありがたいのですが、舞台と客説の距離は普通程度にあるし、歌唱で唾が飛ぶったってちょっと神経質すぎるのでは…光って見づらいのでは…と懸念していましたがやはり角度によっては見づらかったです。役者が正面に来るとクリアに、ビニールの存在をほぼ感じない程度に良く見えましたが、斜めになると紗がかかったように見えました。内容が、記憶や回想を表現するような幻想的と言っていいミュージカルなので、もしかしたらある程度いい効果になっていたのかもしれませんが、私はぶっちゃけストレスを感じましたね。でも、ここまでしても上演するのか、それともいっそ取りやめるのかというような問題には、正解がないものだと思うので、仕方ないと言えば言えますね。とはいえ一応、言及しておきます。
 韓国ミュージカルには「マルチマン」と呼ばれる、何役をも演じ分けるような存在がいることが多いそうで、今回は伊藤裕一がそれにあたり、ペクソクの詩を朗読したり、ペクソクの親や知人などを演じていました。彼が黒いスーツ姿で、ペクソク役は白いスーツ、ヒロインのグンちゃんはピンクのチマ姿で物語は始まります。
 でもなんか、朗読からその作品世界へ、そして実際のペクソクとジャヤのエピソードへ…とあわあわ進んでいく、舞台らしいっちゃらしい展開なんだけれど、キャラの名前すらきちんと語られないままにスルスル進んでいくので、私はわりとのっけからおいてけぼり感を感じました。ふわふわ歌われる歌といい(しかしとても難しい楽曲だと思うし、役者は3人とも歌唱がめっちゃ達者でした)、わざとそう演出しているんだとは思うんですけれど、それこそビニールカーテンのせいもあって疎外感を感じたというか…思うに舞台って客席と地続きで、そこにいる生身の役者が演じているのに、時空を越えたこの世ならぬものを表現してくれるから惹き込まれるのであって、境界を示すカーテンなんか下げちゃったらそれで終わりなんじゃなかろうか…
 あと、全体に、ジャヤの回想なのか想いなのか、はたまた捏造された記憶、ロマンスなのかよくわからないようになっているのですが、ぶっちゃけどんな事情があろうと男は女と結婚せず女は妓生にまで身を落として(とあえて言いますが。またわかりやすく赤いチマに着替えるんだコレが…)男を待った、という話なんだと思うので、どんなに美しい詩が生み出されまた当の女が幸せだったと語ろうと、ちょっと「ケッ」って気がしちゃったんですよね…こういうの、もういいよ、こういうのを美しいと持ち上げ消費するのやめようよ、もっと別の愛の物語が他にいくらでもあるだろう、なければ新しいものを紡いでいこうぜ、とちょっとやさぐれるように考えてしまったのでした。
 でもグンちゃんは素敵でした。ちょっとおっとり訛った様子もいじらしい。私はトップ時代はあまり観ていなくて花組下級生時代の方が印象が強いくらいで、なので別に歌の人だと思ったこともないくらいなのですが、歌も演技もとてもよかったです。老け芝居とかもとてもよかった。
 韓ドラにハマっていたとき、あのお膳が欲しくてソウルでけっこう探したんだけど、いいのがなかったし運んでこられなかったろうな、とか思ったりしました。

 この会場、クリスマス前にコマを観に来ましたが、そのとき浅草の人出がけっこうあって、みんなフツーにデートしたり観光したりしている様子で、ちょっとオイオイとなったんですよね。そのあと緊急事態宣言が出て、今回はさすがにガラガラで店も閉まり、夜はゴーストタウンのようでした。寂しいけど安心もしました。でもやっぱり観劇もデートも観光も一律に不要不急じゃないと言う人はいると思うので、難しい問題ですよね…なかなかわびしいお出かけとなりました。





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宝塚歌劇宙組『アナスタシア』

2021年02月07日 | 観劇記/タイトルあ行
 宝塚大劇場、2020年11月7日13時(初日)、8日11時。
 東京宝塚劇場、2021年1月8日15時半(初日)、9日11時、19日15時半、2月1日15時半。

 20世紀初頭のロシア、サンクトペテルブルク。ある冬の夜、ロシア皇帝ニコライⅡ世(瑠風輝)の末娘アナスタシア(天彩峰里)は、大好きな祖母であるマリア皇太后(寿つかさ)から小さなオルゴールを手渡される。「このオルゴールから流れる音を聞いたら、私を思い出して…」そう言い残して、皇太后はパリに移住する。時は流れ、17歳の美しいプリンセスへと成長したアナスタシア(星風まどか)は、王宮の舞踏会を楽しんでいる。そこをボリシェヴィキが襲撃して…
 脚本/テレンス・マクナリー、音楽/ステファン・フラハティ、作詞/リン・アレンス、潤色・演出/稲葉太地、音楽監督・編曲/太田健、編曲/高橋恵、訳詞協力/高橋亜子。2017年ブロードウェイ初演、全2幕。

 大劇場初日の感想はこちら。2万字も書いていますが、結局東京公演でも大きな変更はなかったので、修正要望などについてはここでほぼ書き尽くした感じがあります。「ル・サンク」にも脚本は載らなかったようなので、ねちねち赤入れもできませんでした。残念です。
 アニメは見ていないのですが、その元となった『追想』という映画は見ていて、これはアーニャ役のイングリット・バーグマンとディミトリに当たる役のユル・ブリンナーがいつ恋に落ちたのかよくわからないうちにラストにトートツにマリアをおいて出奔するので、私はけっこう呆然としたものでした。それからするとアニメ、ミュージカルとどんどんロマンチック度が上がっていき、さらに宝塚歌劇版ではブロードウェイ版からディミトリが主人公格に改変されて、ますますラブ度が上がっていると思います。なのでもう一押し、丁寧に作り込んで、より完成度の高いロマンスに仕上げてもらいたかった…と本当に思っています。現時点では、大味で薄っぺらい話だったな、とか、良かったんだけどなんか細かいところがいろいろよくわからなかったな、という印象を持つ観客もかなり多数いるように思えるんですよね、私調べでは。そしてそういう印象になるのもむべなるかな、という仕上がりになってしまっていると私は感じているのです。東京公演で脚本・演出にまったくブラッシュアップがなされなかったことに関しては、私はかなり恨みを持っています。契約や権利関係がどうなっているのかわかりませんが、今後また再演されるようなことがあったら、そのときにはもっとちゃんといろいろ手を入れてほしいなと切に願っています。あたらこれだけの素材を、もったいないですよホント…

 さて、では以下、主に生徒の感想を。あとは前回書けなかったフィナーレについてなど。
 
 ゆりかちゃんディミトリ、いいよねホントいいわよね! ニンに合っているキャラクターだったな、としみじみ思いました。後輩がつぶやいていたのですが、だいもんがやるディミトリだと目が暗そうで不幸の予感しかしないし、珠城さんだと真面目っぽそうで詐欺師感があまり出ないし、れいちゃんだとジゴロ感が漂っちゃうし、こっちゃんだと熱く告白されて真っ直ぐハッピーエンドになっちゃいそうで、なのでゆりかちゃんだったからこそ!と思えたとのこと。まったく同感です。イヤ実はけっこうなんでも上手くこなすタイプのスターだと私は評価しているんですけれど、でもなんか好みにスポッとハマりました。それと、本来アナスタシアがヒロインかつ主役である物語に対して、ディミトリ主役にある意味むりやり改変した中でのバランスや存在感が絶妙だった、ということもあるかなと思いました。それもゆりかちゃんが、もちろん必要とあればやるんだけれど、でも必要のないときは俺が俺がとならないタイプの、おおらかで懐の深いスターさんだからかな、と思います。
 アナーキストで、のちに強制収容所で死んだ父親に育てられた少年、というのがディミトリの生い立ちですが、このアナーキストっていうのがまずいいんですよね。だって政府が腐敗しているときの反政府主義者、無政府主義者ってヒーロー方じゃないですか。そもそも私はアナーキストとかコミュニストとか社会主義者といった言葉を昭和の少女漫画で覚えたクチで、それはいずれもマイナスのイメージで描かれていたものではまったくありませんでした。弾圧に耐える正義の人、理想に燃える闘士といったニュアンスが強かった気がします。テロリストとかファシストとは違う。それが根っこにあるので、志ある素晴らしい親に育てられた、痩せて汚れてはいても明るい瞳の健やかな少年、というイメージが立ち上がるのでした。
 ディミトリが見たパレードは戦勝記念だか皇室記念行事だかのときのものでしょうし、まだ幼かった彼はおそらく父親に同伴されて見物に行ったのでしょう。父親がパレードに向ける視線は決して好意的なものではなかったと思われます。でも彼は投石などの暴力を振るうようなことはしなかったし、息子がパレードのきらびやかさに目を奪われてはしゃぐのを止めなかったことでしょう。だからディミトリは馬車の上で微笑む小さな末娘に手を振り、その名を呼んだ…
 これがホテルのアーニャの部屋での「幾千万の群衆の中」の名場面っぷりに結実する、素晴らしいですね。ちなみにユスポフ宮殿でアーニャが「夢の中で」を歌うときも、ネヴァ河畔で「あの日の12月」がリプライズされるときも、舞台奥に踊る男女の白い影が映像で幻想的に写されますが、この場面ではそれはないですよね。そういう回想とか幻想のイメージ映像の手助けが要らないくらい、それでも「あの日のパレード」と馬車の上の少女と沿道の少年を観客の目に浮かばせるゆりかちゃんディミトリとまどかアーニャの歌と演技が素晴らしいです。ディミトリのなんてこたないパジャマ姿も素敵。ここのぼかしたセリフも素敵(だからこそ他のもっとクリアに語るべき部分はより明確なセリフにする必要があるのですが)。惹き寄せられるように近づいて、キスしちゃいそうな空気になって、でもハッとなって跪き頭を垂れて「皇女様」と呼んで敬意を捧げる男と、その彼の肩に手を差し伸べる女…美しい。ディミトリはのちに皇太后に会っても、お礼を言ったり謝ったりはしても頭は下げませんでした。だからこそこの二度のお辞儀が効いてくるのでした。
 私がディミトリの台詞で特にいいなと思っているのが「俺は…俺は人生で初めて褒美をもらったような気分だよ」みたいなヤツです。「俺は」を二度言うのがすごくいいと思う。宝塚歌劇の脚本では残念ながらこういう繰り返し、重複にはほとんど意味がないことが多く、私なんかはなら取れよと毎度思ったりするのですが、これには意味があったと思います。ちゃんと強調できているし、言いながら移動しているということもあるけれどタメにも意味がある。
 オペラ座に黒燕尾で現れたディミトリは、そりゃ似合っちゃっててカッコいいです。まさにりゅうとした着こなしです。『エルベ』のカールがどんなに着崩しても品が出ちゃっていたように、それはもう上級生タカラジェンヌの必然であり、ここは舞台の嘘として目をつぶるべき箇所なのでいいのです。ヴラドに冷やかされ、ドレスアップして現れたアーニャの美しさに動揺し、タイを直してくれようとする彼女の手を払って、エスコートの腕を気取って差し出すディミトリ、そしてふたりを見送るヴラド…ロマンスの種は確かに育っていて、でも当のふたりは無自覚なままで、マリアに認めてもらうという目的に突き進んでいる。アーニャがマリアに会っている間のディミトリのおたおたっぷり、出てきてわめくアーニャに一言も言い返せない様子、さらに出てきたマリアに言いつのり捨て台詞を吐いて去り、アーニャの部屋に戻るとそこに再びマリアが現れて…祖母と孫娘の再会を心から祝し、しかし報奨金は要らないと突っぱねるディミトリ。お金目当てで始めた詐欺だったのに、嘘から出た真で彼女は本当にアナスタシアだった。その真実こそがご褒美、愛した彼女の幸せこそが幸せで、自分の願い…貧しく、報われることの少ない人生を送ってきた詐欺師の青年が、やっと手に入れたもの。だから彼は空手で、さよならも言わずに去っていくのでした。たまらん…!
 でもだからこそラストのやりとりももっと丁寧にだな…とまた言いたくもなりますが、でもゆりかちゃんディミトリが本当に素敵なので、もういいです。貧困で裏家業に手を染めても世をすねきれずワルになりきれず、優しさや誠意みたいなものを持ち続けてきた、甘いと言われればそれまでだろうけれど強く、また潔い男。ゆりかちゃんはそんな素敵な男性像を力みなく、軽やかに体現してくれていました。本当に惚れ惚れしました。好きです(突然の告白)。

 そして私が好きなまどかアーニャの台詞は「おかしいわ」です。
 アナスタシアもマリアもちょっとやんちゃというか、あまり皇族らしくない皇族だったのでしょうが、それでも周りには彼女たちを皇族と崇め奉り、どんな理不尽に思える言葉や命令にもハイハイと従うだけの人々が多かったのでしょう。だから自分の言葉を常に肯定されることに慣れてしまう。アーニャも「やればできるさ」のくだりではヴラドに意見を否定されて、そういうことには慣れていないとキレていました。でもここでは、自分の意見が否定されないことに慣れるべきだなんておかしい、間違った意見なら否定されることは自然なことだ、といういたってまっとうなことを言える女性に成長しています。
 アーニャの記憶は結局のところ戻らないままで、でもまだらに思い出される記憶が明らかにアナスタシアのものなので、やはり彼女はアナスタシアではあるのでしょう。けれど彼女には記憶を失ったあとに、自分の手で稼ぎ自分の足でロシアの半分を歩いて移動した年月があり、それが彼女をただの皇女アナスタシアから今のアーニャというひとりの、賢く聡明で美しい女性に成長させているのです。記憶が戻ってただ皇女の座に納まる、のではなく、さらにその先へ行くのがアーニャなのです。おかしいことにはおかしいと言える人間に成長した彼女は、離れていても家族のままだと信じられる家族に再会できたからこそその祖母のもとを離れ、愛する男のところへ行けるようになったのです。
 見たのがだいぶ以前なのでちょっと記憶が怪しいのですが、『追想』では主役ふたりのラブがわりとトートツに見えたのと同様に、アーニャが本当にアナスタシアだったのかはけっこう怪しい、というように演出されているように私には見えました。そしてそれも素敵だなと思ったんですね。アーニャが本当にアナスタシアだったのかどうかということにはあまり意味がなくて、でもそんなアーニャとディミトリが出会い恋をしふたりで歩き出すことを選んだ、というドラマが素敵なんだと感じたからです。でも確か梅芸版のブログラムはアーニャのことを「記憶をなくしたアナスタシア」と説明しちゃっていて、ソコそう断定しちゃうんだ!?味気ないなー、無粋だなー!とちょっと憤慨したものでした。宝塚版はそこはまた違った意味であいまいというか、なんせ全体に薄ぼんやりした脚本なのでどっちに振って演出している、ということも残念ながらないように見えますが、全体としては最後に家族で記念写真を撮って本の中にしまわれていっておしまい、となるので、トータルでよりお伽話感があるのはいいのかな、と感じました。じゅっちゃんアナスタシアもまどかアーニャも同じ写真に収まっている、というのは本当はちょっとシュールなことで、現実にはありえないそうしたことも含めて、素敵なファンタジーに仕上がっているのだな、と思ったのでした。そして全体がファンタジー、お伽話だったからこそ、中の主役ふたりはリアルに成長し変化しリアルに恋愛したのだ、となっているとなおよかったのだろうな、と思ったということです。
 とまれ、まどかは歌は絶品で生き生き死していて、まあのびのびとまではいっていないけれどそれはもう仕方ないのかもしれないし、でもホント言うとテクニカルな意味では台詞が早口になりすぎて滑ったり浮いたりしがちなのは役者の技量として改善してほしいのだけれど、とにかく可愛らしくてひたむきでいじらしくて心から応援したくなる素晴らしいアーニャだったので、私は満足です。専科への異動は組ファンとしては本当に残念なのだけれど、より大きな場が与えられることだと信じて、涙をこらえて送り出したく思います。そしてもし巷間噂されるように花組新トップ娘役に就任するのだとしても、ゴタゴタ言われるのをあまり気にせず、がんばっていってほしいなと願っています。応援してるよ、MSも行きたいよ!!

 さて、私の周りではわりと、キキちゃんとずんちゃんは役を交換した方が良かったのでは…という人が多く、私はちょっと意外に感じましたが、それだけずんちゃんがヴラドを好演していて役を大きく、美味しく見せているんだろうな、と思いました。まあ実際常にトップコンビと一緒にいる役なので、出番も多く目立つ役ではあるのかもしれません。でもここをキキちゃんにやらせちゃうと『オーシャンズ』とかと一緒じゃん、バディものはいろいろやってきたじゃん、となって、この配役だったのでしょう。『バレンシアの熱い花』みたいに1、2、3が徒党を組む(笑)場合もまれにありますが、基本的には主役のトップスターに対して2番手が親友役なら3番手は仇役、2番手が仇役なら3番手が親友役に回るのはもう配役としてパターンなので、仕方ないですよね。そして私はキキちゃんは、グレブをすごく上手く演じていて、この出番もそう多くないしそんなに描き込まれてもいないしぶっちゃけしょっぱい仇役を力わざでとても深いものにしていて、さすがの大熱演大健闘だなと感心していたのでした。父の息子としての意地以上に恋と執着を見せて、作品のロマンス度のアップにしっかり貢献していると思うんですよね。なのでそこは高く評価してあげたいです。しかしどなたかが言っていましたがもうジェンヌ人生の半分を2番手として過ごしているんだそうですね…たまにそういう生徒もいるものですが…ゆりかちゃんが相手役を替えてもうしばらく続投するなら、ホント辛抱どきですよね。でも、しんどいんだろうなあ…
 一方ずんちゃんは、そもそもなんでも上手いんだけれど、さらに力の抜き方を学習して楽しそうにちょいと困ったおじさん役をやっていて、とても良きです。別箱主演作の中身に今ひとつ恵まれないことだけが玉に瑕だよね…でも、宙組初の生え抜きトップ目指して、じりじりとがんばっていってほしいです。

 そしてリリーそらね、もうホント今すぐ帝国劇場とか日生劇場とかに立てると思うし、マジで良き退き時を得て卒業しましょうよ外部で活躍しましょうよもったいないよ…と思います。トップになることがすべてではないけれど、まず絶対に宙組でトップになる目はないんだと思うし、そうしたらこんなふうに便利使いされている場合ではないと思うんですよ…イヤ本当に上手いし、もちろん男役に戻ればそこそこカッコいいんだけれど、でもやっぱりここでこの体格なのは弱みだと思うので…それでも当人は男役がやりたくてやっていて、もちろん楽しいんでしょうけれどね。イヤしかしホント上手い。舌を巻きます。キュートでチャーミングで、世慣れたちゃっかり感や多少のオバサン感まで上手い。でもアーニャに思わず跪いちゃったあと、「期待しすぎないでね、お嬢さん」となるにはもう一拍あってもいい気はしましたけれどね…あとフィナーレはなんとか着替えて男役で出してあげた方がよかったのではなかろうか…でもまあとにかく圧巻の出来です、それは確かです。

 役としてはここまでかな。マリアすっしーは『神土地』からの続投ということで、本当はもうちょっと歌える人がやった方がいいんでしょうが、まあいい感じではありました。
 皇帝一家はもえことあおいちゃん(河畔の幻想場面での歌声が絶品!)、四姉妹はアラレひろこかのちゃんと可愛子ちゃん揃い、アナスタシアの子役はじゅっちゃんでますます小さく幼く見せる技に磨きがかかり、皇太子アレクセイはららたん、こってぃに抱っこされて深遠な台詞を吐くくだりは鳥肌ものでした…
 「ロマノフ男」のあきも、しどりゅー、あーちゃん、こってぃがディミトリの詐欺仲間にスライドする妙味は、いい。しどりゅーはネヴァ・クラブの門番みたいな役もやっていますが、まあこのあたりの男役スターはみんな役や出番としてはしょっぱいやね…
 バレエ場面ではかのちゃんオデットのチュチュの半径をもっと大きくしてくれよちんちくりんでみっともないな、とは声を大にして言いたいですが、東京では客席からレベランスに拍手ができるよう改変されて吉。ただしSEも残した方がよかった。キョロちゃんジークフリートときよちゃんロットバルトのバレエの技量の素晴らしさも特筆ものでした。バレリーナは他にひろことさらちゃん、もうひとりはABパターンで入れ替わりかな?
 あとはさおが顔で選んだに違いないボリシェヴィキの美男美女たち、まっぷーとりんきらの手堅い仕事が光るくらいでしょうか。もちろん組ファンはバイト探しも楽しむんだけれど、そして生徒たちも楽しんで細かく役作りして作品を下支えしていたと思うのですけれど、宝塚歌劇としてスターを楽しむ、という部分はどうしても後回しにされてしまっている演目でした。新公もないし、あとあと響かないといいけどなあ…という心配は、あります。やはり綺羅星のごとくいるスターたちを生かした、オリジナル当て書きでこのレベルの作品を、常に上演してもらいたいものですね、劇団さん!

 フィナーレはずんちゃんの歌唱指導から。パッと空気を変えたいところだというのはわかるんだけれど、しかしこのお衣装の突飛さはどうなんだ…サルエルの色違いみたいなものにした方が、まだ統一感が出たかもしれません。
 しかしせっかくの長身揃い脚長揃いの宙男にわざわざサルエルパンツを履かせるセンスが理解できません…カッコいいけれども! 黒と赤のロシアふうのハイウエストのドレスで決めた娘役さんたちは、ゴージャスでシックでとても素敵。男役群舞では、ゆりかちゃんが引っ込んでキキちゃんターンになったあと、再度娘役たちがざかざか出てきて男女カップルになってみんなでガンガン踊る流れも素敵でした。
 そして水色?のお衣装でのデュエダン。まどかにゃんは上手スッポンからのセリ上がり、からの本舞台センターに出てきてさっとしゃがんでゆりかちゃんが階段を降りてくるのを待つ、みたいな振りがすごく好き。たいして踊っていない振りでそれは残念なんだけれど、銀橋に出ていくときも上下で別れる形ではなく、手を取り合ってふたりで下手から出ていく振りで、キュンとしました。ラインナップもちゃんとトップコンビの会釈で終わって、よかったです。
 いいトップコンビだと思うんですよね、大人っぽい持ち味のゆりかちゃんに対してまどかがロリっぽすぎるとさんざん言われましたが、まどかってけっこう声は低いしあまりきゃいきゃいしたところがない娘役さんで芝居も大人っぽい役の方がハマるタイプだし、その意味で芸風は似ていて、でも顔のタイプが面長と丸顔で違うのもちょうどよかったと思うのです。まあゆりかちゃんは相手のタイプを問わないタイプの男役だからかのちゃんでもちゃんとハマるとは思うんだけれど、やっぱりちょっと残念ですよねこれで解散とは…と思ってしまうのでした。
 あとパレードでまどかに劇中のドレスを着せたのは許せん。キキちゃんもグレブの軍服だったならわかる、ゆりかちゃんだけがトップとして本編のキャラとは関係なくきらびやかなお衣装だというならわかるのです。でも男役ふたりが本編とは関係ないお衣装で、まどかだけがアーニャのドレスって、1着日和ってんじゃん、って気しかしません。タイトルロールだからこそあえて、なのかもしれませんがそんなふうには思えません。トップ娘役を大事にしない劇団に未来なんかない。東京公演からでも変えてほしかったです。新調じゃなくても、紫のドレスなんていくらでもあるやろ! ケチんなや!!

 緊急事態宣言が出て開演時間が前倒しされたので、平日の入りは残念ながら厳しいようです。ああ、もったいない…私も今後どこかからこぼれてきたら追いチケするかもしれませんが、とりあえず見納めてしまったので感想をまとめました。千秋楽のライビュは見られるかちょっと予定がわからず…見られたら、また追記するかもしれません。

 次はブリリアとそらのバウか、どちらも楽しみですね。ゆりかのも応援していきたいです。そしてまどかもMSだけでなく、どうせなら専科としておもしろい仕事をひとつふたつして欲しいなーと願っています。ホント愛ちゃんのマノンでもおもしろいかも。それか今度こそまともな娘役主演のバウ公演とか。いろいろと期待しています、変わらず応援し続けます。引き続き体調に気をつけて、どうかみなさまご安全に…

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『誰にでも秘密がある』~韓流侃々諤々リターンズ24

2021年02月06日 | 日記
 2004年、チャン・ヒョンス監督。イ・ビョンホン、キム・ヒョジン、チェ・ジウ、チュ・サンミ。

 自由恋愛主義の三女の新しいボーイフレンドに、本の虫の次女、倦怠期の主婦である長女がそれぞれ心奪われ…という、まあベタベタな、エロスとしては当時も今見てもたいしたことのない(笑)ラブコメ映画ですね。たいしたことない、というのは結局エロの方向がヤンジャン方面であってビーラブ方面じゃないからです。所詮男視線なんですね。ヌルいし、結局はファンタジーというか夢オチに近い結末なので、わざとベタでイージーにしているんだとは思います。
 でも、三姉妹のみならず末の弟までイ・ビョンホン演じるスヒョンにヨロめきかける(笑)のが、当時も今もさすが韓国という感じがします。令和になってもこの視線はヘルジャパンには持ちえていないと思うので。あと、三女は元カレと、次女は論文の指導教官と、長女は夫と結局上手くいく、というラストなのですが、邦画だと三姉妹は悶々としたまま全員不幸になって終わる気がします。本当にヘルジャパンです、残念です。
 しかし、今の流行りは知りませんが、この当時の韓国女優のスレンダーだけど胸がある、というスタイルの作り方は私の好みに合っていて、見ていてウハウハでした。あとメガネのチェ・ジウがホントにチャーミングだし、メガネが素通しじゃなくてちゃんと少なくともガラスが入っているのがサイコー(笑)。コーフンしてメガネ曇らせてるのとか、たまらなくキュートでした。
 ヒョンビンが今また人気なんだから、この出演者たちも今も俳優さんとして活躍しているのかなあ? いい中年俳優になっているのなら、また作品も見てみたいなと思いました。


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