駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『カラミティ・ジェーン』

2012年02月11日 | 観劇記/タイトルか行
 ル テアトル銀座、2012年2月8日マチネ。

 1800年代。男勝りのジェーン(湖月わたる)は、同じ西部の賞金稼ぎで二丁拳銃のビル・ヒッコック(金児憲史)と出会い恋に落ちる。ふたりはともに賞金稼ぎの旅を続けるが、やがて結婚してデッドウッドの町に居を構える。ジェーンに赤ん坊が生まれ、幸せで平凡な家庭生活が始まるが…
 原作/ジャン=ノエル・ファンウィック、翻訳/浜文敏、脚色・演出/吉川徹。
 19世紀のアメリカに実在した女性、マーサー・ジェーン・カナリーの半生を題材に1950年代に映画化、その後舞台化された音楽劇。2008年に湖月主演で初演されたものの再演版。

 「音楽劇」と言っていましたし、楽しいチャンバラ西部劇アクション舞台が楽しめるのかなと勝手に思っていたのですが、意外に真面目にヒロインの半生を追った芝居になっていたので、ちょっと驚きました。
 しかもその生き様がけっこうせつない。ジェーンは現代女性とまったく同じことをやっています。
 男性と同等に仕事ができていた。楽しんでいた、やりがいもあった、稼いで生きていけていた。
 恋には男でも女でも落ちる。同じ仕事の、理解ある男性で、一緒にいて楽しくて、幸せだった。
 でも身ごもるのは女だけ。赤ん坊と家庭に縛り付けられるのは女だけ。男はあいかわらず仕事をし遊び回り出歩き、あげくに浮気なんかしたりする。
 女は男と別れる。残された子供が可愛くないわけではない、しかし稼がなければならないし、育てきれない。金持ち夫婦に預けて、自分は再び働きに出る。
 しかし時代が変わり、かつての仕事はもうない。生きるためにどんな仕事でもしていくが…
 せつない。せつなすぎます。
 そういうしんどい、せつない、たっぷりした芝居の部分と、アトラクションみたいなショーアップ場面とのバランスが、私には悪く見えました。
 パパイヤ鈴木がノリノリのウエスタン・ショー場面だって、かつては本当に西部で賞金稼ぎをして働いていたジェーンが要するにまがいものの見世物にされているわけで、楽しく手拍子なんか打てません。
 娘と再会するのに舞い上がって突拍子もない言動をしてしまうくだりも、オーバーすぎた。
 老境に差し掛かったジェーンのところに娘が訪ねてくるくだりも、その前の老婦人たちのボケ演技を笑うことなんかできませんよ。
 あそこで笑ったからこそあとで泣ける、ということ? でも笑えないよ。哀れだし、誰もが行く道なんだもん。
 この感覚がシンクロしなかったので、けっこうすすり泣いている観客も多かったのですが、私は浸りきれなかったし泣けませんでした…

 役者は好演。
 ワタルはそらイキイキしていましたし、ピッタリでした。
 初演とキャストが違うビルやバッファロー・ビルも良かったし、岡田達也や伽代子の達者ぶりはほとんど役不足なくらいでした。
 だからこそ、演出がなあ…と残念。
 あ、南海まりのスタイルの異常なまでの良さも健在でした。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kバレエカンパニー『シンデレラ』

2012年02月11日 | 観劇記/タイトルさ行
 オーチャードホール、2012年2月7日マチネ。

 演出・振付/熊川哲也、音楽/セルゲイ・プロコフィエフ、指揮/井田勝大、演奏/シアターオーケストラトーキョー。
 全3幕。

 オーチャードホールの二階席って初めてだった気がしますが、全体が見やすくてとても良かったです。
 舞台はセットや装置が美しく、軽妙なキャラクターたちが演じるボディランゲージが十分にわかりやすく、美しいお伽噺が展開していって、夢のようでした…
 シンデレラは松岡梨絵、王子は宮尾俊太郎、仙女は浅川紫織。意地悪な義姉たちは岩渕ももと湊まり恵、とてもよかったです。そして継母はルーク・ヘイドン。
 シンデレラが丹精している薔薇、トンポ、キャンドル、ティーカップが妖精になるのも可愛い。
 馬車を囲むコール・ドが「星」なのにもきゅんとしました。心洗われるようでした…
 どの幕も幕引き直前がなかなか素敵だったのも演劇的で良かったです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『仮面のロマネスク』夜話

2012年02月09日 | 日記
 しつこく『仮面のロマネスク』のことを考えています…

 いつもはもっとアタマ切り替えられるのに、今回全然ダメです。
 アタマの2割くらい、ココロの6割くらい中日に置いてきちゃってる気がする。
 会社に出ててもクールな仕事人ぶれないよー、早く週末来て!(^^;)

 というワケでさいとうちほ『子爵ヴァルモン』(小学館flowersフラワーコミックスα全2巻)を再読しました。
 そういえば原作にファーストネームが出てこないキャラクターがわりといるので、こちらではトリスタン・ド・ヴァルモンにイザベル・ド・メルトイユとなっています。ダンスニーはラファエル。
 まあそれはともかく。

 こうして読むと、やはり現代の視点があるというか…フェミニズムっぽい、というのとも違うと思うのだけれど…やはり少女漫画というものは時代の最先端をいくのだなあ、と思います。
 逆に言えば、あの原作を『仮面のロマネスク』に改変した柴田先生の視点は、やはりロマンチストのそれなんだなー、というか…
 もちろんそれは宝塚歌劇として正しいことだと思います。宝塚歌劇はトップコンビの純愛を描くべきものである、というのが私の持論だとは先日も書いたとおりなので。
 そしてそれって恋愛に対して保守的というか少女趣味的というか楽観的というか乙女チックになるってことなんだよね、と改めて思った、というか…
 つまり『子爵ヴァルモン』のメルトイユの絶望というのは現代女性のそれに通じるものがあると私は思うわけですが、その回答はないわけですよ。回答がないところで物語は終わっている。
 物語はもちろんそれでいいのだけれど、私たちはこの現代を生きていかなければならないわけで、そこにもまた回答はない。まだ、なのかもしれないけれど。しかし怖ろしいことです…

 『子爵ヴァルモン』では、簡単にまとめると、「男は馬鹿だ」と言っています。
 そして女には二種類あって、そんな男と幸せに恋愛できる女と、そうでない女とがいる、と言っているのです。
 前者がトゥールベルであり、後者がメルトイユです。
 メルトイユは決して策に溺れた間抜けな策士、フラれ女のような描かれ方はしていません。
 美しく賢く誇り高く生まれつき、才覚を駆使して生きている。しかし賢いから男を愛さないということはない。彼女もまた愛と幸福を求める、その意味でごく普通の女性なのです。
 けれど最終的に、メルトイユの愛には誰も応えてくれずに物語は終わる…
 それはざっくりいうと社会のせいだし、メルトイユのせいでは決してないのに、相手がふがいないせいで幸せになれないことになっているのだ、という話ですよねこれは…
 怖い。

 そして、ヒロインをトゥールベルにして愛の物語を描いているわけでもない。
 結果的にヴァルモンもトゥールベルも死んで終わるのですし、それはやはり愛のある種の敗北だからです。
 誰もが敗者である、というこういう視線って、やっぱりものすごく現代的だと思うなあ。

 だけどロマンチック・ラブ・イデオロギーの世界では、つまり宝塚歌劇ワールドでは、愛は絶対で愛こそすべてで愛イコール幸福です。
 だからメルトゥイユがヒロインで、ヴァルモンとの愛が完遂されて舞台は終わる。死や別離でも分かてない愛がそこにはあったとされているのです。
 愛はある、けれどふたりは死と別離で引き裂かれる、その悲しさを描いているのですね。それは絶望とは違うと私は思う。もっと甘美で美しいものだもん。

 トゥールベルは…原作では修道院でそのまま息を引き取りますが、『仮面のロマネスク』では、革命騒ぎのさなかであっても法院長は迎えに行ってトゥールベルを連れ出して、田舎に逃げたりするんじゃないかしらん。
 つまり彼女は死なないのではないでしょうか。なんとなくそんなふうに思えます。
 もちろん彼女はヴァルモンの愛を失ったので、生きていさえすれば幸せということではないかもしれない。でもきっと法院長は優しいよ。そして彼女はなんらかの新たな生き方を見つけるのではないかしらん。
 つまり、宝塚歌劇は女性キャラクターを不幸せにはしないということですよ。セシルだってダンスニーと仲良く所帯持つだろうし。台詞がなくなっていましたが彼は勝ち方についていたはずなので。
 すべての女が幸せになる。それは理想論だし、だから在り方として正しい。
 そして現代少女漫画はそうではないということですね。常に時代を反映し、極北目指して進化しているからです。たとえ時代とともに行き詰ろうと、ね。すごいなあ。

 韓国映画『スキャンダル』では、イ・ミスクがペ・ヨンジュンより完全に年上マダムに見えたこともあって、また印象が少し違いましたが、ラストシーンに関しては意外に優しい視線があります。
 チョ・ウォン(ヴァルモンに当たる)にかつてもらった小さな花束を押し花にしておいたものを、外国に逃れる船の上でチョ夫人(メルトゥイユに当たる)が手に取り、懐かしみ、その花が風に取られて空に舞う…
 かつてのウォンの微笑の回想がそこに重なって映画は終わります。あるとき確かにヴァルモンとメルトゥイユの間にあった愛を提示して終わるのですから、感覚としては『仮面のロマネスク』に近い。ただしウォンは決闘で傷つき、ヒヨン(トゥールベルに当たる)のもとへ向かおうとして落命しますが。
 また、クレジットとともに、ウォンの子を宿したソヨン(セシルに当たる)がチョ夫人の夫に側室として嫁ぐ(つまりこの映画ではメルトゥイユは未亡人ではなく、ジェルクールと夫婦のような形になっているのです)ことを暗示する場面が流れるのですが、これもまたセシルが不幸に堕ちてはいないのだということを示していますし、セシルが修道院に戻ってしまう『子爵ヴァルモン』とは明らかに違う演出です。
 女の幸せは神のもとにしかないのか…それは『源氏物語』の宇治十帖のラストのようですね。ヒロインは男たちから逃れて身投げするないし出家する。もはや恋愛を放棄することでしか幸福はないという、そのすさまじい人生観…『源氏』って怖ろしいほど現代的です。1000年たっても違う回答を我々は得られていないとも言える。
 大和和紀の『あさきゆめみし』もそこまで描ききっていたけれど、さいとうちほが『源氏』を描いたらどうなるんだろう、とか思ったり…あるいは現代少女漫画は未だ『源氏』の向こうを描けていないということか。あら話が逸れたかな。

 つまり、どんな形であれ男と女が愛し合い幸せになることを常に観せてくれる宝塚歌劇は素晴らしい、という話です。
 それが望ましい形である、と私は考えているからです。



(「BS宝塚歌劇夜話」なんて番組できればいいのに…あ、CSでも)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仮面の恋--もうひとつの愛と死の輪舞

2012年02月06日 | 大空日記
 『仮面のロマネスク』について、あくまで現時点での、かつ個人の記憶と感想にすぎないのですが。
 あらためて、こんなにも役者の個性によって見えてくるものが違うんだなあと考えさせられる観劇体験も珍しいような気もします…再演主演者のファンだからか原作ファンだからなのか。
 かつて何を見たのか、何を見たいと思っていたのか、今何を見た気でいるのか、そして、見えるべき物語とはなんなのか。
 まだまだ未消化ですが、語ってみたいと思います。

 宝塚歌劇なのですから、原作が持つ本当のテイストやストーリーはどうであれ、見せるべきは主人公とヒロインの純愛です。
 プラトニックな関係か、肉体関係があるかどうかとかいうことではなくて、真実の、絶対の愛という意味での、純愛です。
 その意味でも、この作品はもともとなかなかギリギリのところをいっていると思います。
 ヴァルモンがトゥールベルに一瞬でも本気になって見えるようだと、メルトゥイユがかわいそうというか、メルトゥイユとの間にこの「純愛」が成立していないように見えてしまう。
 でもトゥールベルにまったく本気になっていないように見えると、トゥールベルがただ弄ばれただけでかわいそうに見えて、結果的にヴァルモンが嫌な人間に見えて、主人公としての資格を失って見えかねない…

 ヴァルモンとメルトゥイユはふたりとも仮面をかぶりながら社交界を生きています。
 ヴァルモンは零落しかけた家を再興させるために、主に最初は王族のご婦人方に取り入って立身出世を果たした。その数々の浮き名はものがたい婦人たちにとっては眉をひそめるべきものですが、おおむねは勲章とされています。
 メルトゥイユは貴族の女性に求められるところに従って若くして結婚し、未亡人になってからは艶やかながらも身持ちの堅い、社交界の華との評判を維持している。色恋沙汰は賢く隠しているのです。
 物語はふたりの口論の場面から始まるし、ふたりが恋人同士だった頃のことは回想として台詞で語られるだけなので、ふたりがどんなふうに出会いどんなふうに恋に落ちどんな恋をしどう別れたのか、本当のところは観客には見えません。
 今はお互いの本性を知り尽くした同志としてつきあっている、ように見える。
 しかし宝塚歌劇としては、真実の恋人はこのふたりであり、他にいろいろあってもそれはみんなアレだったんだよ…となることを求められるワケです。
 しかしヴァルモンはトゥールベルに本気になってしまう…
 それでも、ヒロインから見て浮気者で酷い、とは見えなかった。
 少なくとも、私には大空ヴァルモンはそんなふうに感じられました。

 こうして考えるに、初演ヴァルモンのユキちゃん(高嶺ふぶき)は本当にハンター気質で稀代の色事師で色悪ってのがニンだったんですねえ(全力でほめてます)。
 遊蕩児という言葉がぴったり。いつも上手に立っていて、何事も高みから見ておもしろがっている人の悪い感じ。でも残忍だったり酷薄とまではいかない、そして哀愁を漂わせたりもしない。
 あくまで社交界を手練手管で泳ぎ渡っている、あの軽妙な感じ…
 ハナちゃん(花總まり)のメルトゥイユは、とにかく高貴だった印象があります。だから私には、当時また自分が若かったことを考えるにしても、ふたりが過去に本当に愛し合っていたことがあった、というのがどうも上手くイメージできなかったような気がします。ふたりは、仮面姿がよく似合っていた…
 そしてトゥールベル夫人のユリちゃん(星奈優里)が、もちろん貞淑で実直そうな演技をちゃんとしているんたけれど、でもその肌一枚剥いだら内にものすごく熱い情熱を秘めているよね、ってのが香り立ってしまっている娘役さんだったと思うのですよ。
 だから、なんというのかな、ヴァルモンがトゥールベルを誘惑し陥落させるのが必然というか、時間の問題に見えたというか…そしてそこにものすごく目新しい「真実の恋」はなかったように見えた、というか。
 だからヴァルモンも揺れなかったし、だから約束どおりトゥールベルを捨ててメルトゥイユのもとに戻ってメルトゥイユと踊って、革命のあとトゥールベルは修道院を出てきちんと暮らしたのではなかろうか、幸せになれたかはまた別にして…と、思えました。

 でも大空ヴァルモンは、どアタマの
「侯爵夫人、さあ、お約束を果たしてください」
 が、なんかもうものすごい切羽詰っててマジに私には聞こえて、あれ?とまず違和感を感じてしまったわけですね。
 ヴァルモンっていつも余裕綽々で、こんなに必死になったり本気見せたりしちゃう人じゃないんじゃないの?と。
 でも大空さんが余裕綽々の役作りができなかったワケはない。そういう大人の男の演技だってできる人だからです。だからあえてそうしていないのです。この必死になっちゃうのが今回の演技プランなんです。
 では大空ヴァルモンとはどんな人間なのか。もっと幼いというか、意外にまっすぐというか、熱いというか…そんなヴァルモンを演じようとしていたのではないかしらん。
 あるいはまあ、結果的にそうなってしまったのだ、というんだとしても。

 対してスミカのメルトゥイユはそれはそれはたっぷりと大芝居で素敵な貴婦人っぷりで、ヴァルモンをあしらわんばかりです。
 でも、実は私はチュイルリー公園のミモザの歌の場面の彼女が好きで、朝の装いのせいもあるけれど本当に娘娘していて、ヴォランジュ夫人(再演ではブランシャール夫人)が言うようにおっとりしたお嬢さんに見えるのです。
 それはもちろんそうメルトゥイユが演じていて、それをそうスミカが演じているのですが、やはり役者のニンが透けるというか、娘時代のメルトゥイユは確かににこんなふうにおっとりして見えただろう、でも決して愚鈍ではなくむしろはしっこく聡明で、大人を観察して仮面のかぶり方を覚えていったのだろう…と思えたのですね。
 スミカのメルトゥイユにはそんな、なんというか人間味が見える気がする。だから、ずっとつっぱらかってヴァルモンを牽制しっぱなしでも、冷たすぎるようには見えませんでした。
 だからこそラストは、もう少し弱く崩れてもいいかもしれないけれどな…とは、思わなくもありませんが。

 そして、なんといってもえりぃ(藤咲えり)のトゥールベルがもう、
「ええ、心細くて…」
 の第一声がもう、本当に不安そうでよるべない子供のようで、風にも当てられぬよう育てられたお嬢さん感丸出しで、嫁いだとはいえまだまだ生娘感全開で法院長ナニやってたのみたいな、貞淑とかいうよりそもそもそういうことイロイロ全然知らないでしょ、みたいな感じがもうものすごいんですよね。
 そらヴァルモンもぐらりときちゃいますよ本気になっちゃいますよ。でもホント手を出しちゃダメな聖域だったんだって、ほうらどツボにハマっちゃった…というお話になったように、私には見えました。

 大空ヴァルモンも最初は、
「初めてのタイプだ。どうしても気になる」
 とおもしろがってトゥールベルを追い始めたように見えます。
「何が怖いのです」
 って色気ダダ漏れで迫られたらそら怖いですよ。
「今以上のことをあなたに望んではおりません。こうしてあなたのそばにいて、恋を語ることさえ出来ればいいのです」
 とか
「黙ってお慕いしておけば良かった」
 とか言っておきながら、そのまま全然おとなしくなんかしてない。
 何もしていない夫人に対して
「私の愛をかきたてておいて、そのまま冷たくさえぎらないでください」
 なんて、もうほとんど難癖の口説きようですよねヴァルモン様ったらホント怖いわニヤニヤさせられるわー。
 でもここらへんまではまだまだ恋愛遊戯なワケです。

 遊びの駆け引きのつもりだから、トゥールベルを落とすのに手間取っていることが噂になっている、と牽制してくるメルトゥイユに対しても平然としていられる。
 あとまわしにするつもりだったセシルの件に手を着けざるをえなくなったときも、
「あの約束はまだ生きていますね?」
 とメルトゥイユに念押しする余裕がある。横槍を入れてきたヴォランジュ夫人にやり返すためにセシルを落とそうということになったのだけれど、そもそもそれがメルトゥイユの希望でもあったので、その報酬もきちんともらうつもりだということですね。ヴァルモンはやっぱり隙あらばメルトゥイユと元サヤに戻りたいと思っているのです。
 メルトゥイユの現在の恋人ベルロッシュに対する
「ふん!」
 は、ユキちゃんのはどうだったかなー。大空さんのはホントにいまいましげでおもしろくなさそうで、その様子が可愛く見えて、こういうところもやや幼いというか、意外にまっすぐなヴァルモンに見えるのです。
 つまりメルトゥイユにであれトゥールベルに対してであれ、意外にも常に真面目で真剣なんですね。だから憎めないというか。贔屓目すぎ?
 でもそれがニンだし、そういうキャラクターにしようとしているように私には見えました。

 再びロワールのローズモンド夫人邸で。
 トゥールベルが、ヴァルモンによって恋のときめきを知らされてしまってもなお、未だに本当に恐怖に震え、涙にくれているのをみて、ヴァルモンが
「あなたの涙を私は望んではおりません」
 と言うあたりから、様子が違ってきたのではないでしょうか。今さら女の涙に動揺するヴァルモンじゃないんだけれどね、でもね。
 ほとんど茫然自失のトゥールベルはヴァルモンの膝をかき抱いて、
「私をお助けください。私を死なせたくないなら離れてください。向こうへ行って、私を救ってください…」
 と言います。ヴァルモンが離れようとしたのにトゥールベルが放さないので、ヴァルモンは笑ってトゥールベルが自分の膝を抱く手をぽんぽんと叩きます。
 ハッと気づいたトゥールベルは体を離し、寝室へ逃げ込みます。ヴァルモンは追いません。
 「もう陥ちたも同じだ」から。でもその実、このときヴァルモンこそがトゥールベルに陥ちたのでは? 可愛いな、と思って笑っちゃったのでは? だから最後の一歩をためらったのでは? 彼女の気持ちを尊重したから。あるいは、彼女の自分への想いの本当のところに自信が持てなくて、一方的にズカズカ攻めたてていく気になれなかったから。彼女の愛が欲しくなったから…

 でもユキちゃんヴァルモンはここの笑いも「してやったり、ホラ陥ちた」みたいだったんですよね。
 だから続く歌はちょっと不可解だったのだけれど、「さあ、次はセシルだ」はゲームのように楽しげでした。
 
 でも大空ヴァルモンは恋に落ちかけています。だからここの歌はその動揺やとまどいを歌っていて、だからこそ、むりやり気持ちを切り替えるように言う
「フランソワーズ…君はどう思う。さあ、次はセシルだ」
 の台詞が、やはり必要なのではないのかな?と思うのですが…
 この台詞がなくなってしまっているので、ヴァルモンがどういう気持ちでセシルの部屋へ入っていったか、見えづらくなってしまっていると思うのです。
 ちなみにセシルに関してはさすがにヴァルモンも本気ではないのですが、だからこそ寝室の鍵に関するやりとりは初演台本どおりにして、セシルは本当に微塵も疑いを抱いていない素直な、逆に言うと警戒心の足りないお嬢さん、という感じにしておいた方が良かったんじゃないのかなあ。
 セシルが鍵に関して一度とまどって、ヴァルモンが押し切る、という形だと、ヴァルモンの人でなし感が強まるじゃん…ユキちゃんヴァルモンだったらアリだったかもしれないんだけれど、大空ヴァルモンにはそぐわないかも?という気がしました。これもよくわからない改変だったわ…

 教会の前でのメルトゥイユとのやりとりのくだり。
「顔色変えて逃げ出すに決まっている、昨日と同じように」
 というのは、だから大空ヴァルモンにおいては実は自分のことを言っている部分もあるのではないかしらん、と私なんかは思うわけですよ。だからこそメルトゥイユは感づく。
「ちょっとおかしいわね。好きになったんでしょう」
 と。そしてヴァルモンは「メルトゥイユの視線を避けて」と台本にもあるように、話題を変えます。
 ちなみにこのあとのトゥールーズの馬に関する台詞がす素晴らしい。一見、のちに盗まれそうになる云々みたいな話の伏線のために置かれたもののようですが、そうではなくて、ふたりがなんでも気楽に貸し借りできる関係というか、君のものは僕のもので僕のものは君のもの、みたいな状態であることをヴァルモンはメルトゥイユに再確認したかったし当て擦りたかったわけですよね、そういうことを表している、実に秀逸な台詞だと思います。

 セシルとダンスニーについては思惑どおりに進んでいる。しかしトゥールベルは身を隠してしまって行方がしれない。
「油断ね」「それほどのことじゃあない」
 というやりとりにはヴァルモンのいらだちが見えて、彼の本気がよくわかります。でもだからこそメルトゥイユも
「夫人を手に入れたら、恋心をきっぱりとお捨てなさい」
と言い募る。だからこそヴァルモンはメルトゥイユの嫉妬を、つまり自分への本気を感じ取る。だから
「夫人を征服できたら、あなたのところに帰ります。だからベルロッシュはお払い箱にしてください」
 と要求する。大空ヴァルモンはフラフラ揺れているのではなくて、違ったようにどちらの女性も同時に愛してしまっている困った、でもごく自然な男のようにも見えます。
 ヴァルモンはメルトゥイユが次の相手のあたりをつけていることも見抜いていて、釘を差す。でもだからといってそれでやめたりしないメルトゥイユなのでした。こちらも本気だからこその意地なのです。

 トゥールベルのガウン(?)を脱がし、自分も上着を脱いでタイを外すヴァルモン様の色気は鼻血ものなのですが、それはさておき、脱いだ衣装を片寄せてカウチに横たわる場所を作るトゥールベルもなかなか可愛い(^^)。いやいやそういうものですよね。
 このときのふたりは一瞬ですが確かに幸せそうに見えました。けれど我に返ったトゥールベルはよろめくように消え去り、代わって現れたセシルはヴァルモンをダンスニーと呼んで抱きついてくる始末です。真摯にやっているのになかなか報われないヴァルモン様…
 セシルが去り、迎え入れたメルトゥイユも、冷たいままで燃え立たない。ここの、台詞が聞こえるような火花散るダンスは素晴らしい。大空さんとスミカの、無言の演技の真骨頂だと思います。
 そして冒頭の場面につながります。大空ヴァルモンは本気だから、余裕も何もなく言うのです。
「彼女を捨てればいいんだろう」

 ユキちゃんヴァルモンは仮面舞踏会で、余裕綽々で法院長からトゥールベルを奪って踊り、そしてトゥールベルを捨ててメルトゥイユと踊り、立ち去っていったように見えました。
 でも大空ヴァルモンには苦悩が、葛藤が、見えた気がする。もはやニンなのか演技なのか好みのイメージなのか…(^^;)
 だって本当はやっぱりトゥールベルを愛していたのかもしれない。優しくしてあげたかったのかもしれない。でもまっとうできないことも見えているんですよね。だったら早いうちにここで終わらせてあげるのも優しさかもしれないわけです。
 だからヴァルモンはトゥールベルを残してメルトゥイユと去った。でもメルトゥイユはヴァルモンのそんな優しさを、トゥールベルへの愛情を我慢できなかった。ヴァルモンを愛していたからです。だからダンスニーを引き入れるのですね。逆説的なようですが、メルトゥイユには他にどうしようもないのです。

 アゾランやルイまで使ってメルトゥイユの私室を目指すヴァルモン様ははっきり言って滑稽です。カッコ悪いです。でもせざるをえないの、本気だから。トゥールベルを捨てたのに報酬をよこす様子がないから、受け取りに出向いたのです。
 ユキちゃんヴァルモンにはもしかしたら自虐の視点があったかな、さすがにそんなには作りこんでなかったかな。こんなみっともないことしちゃうのもおもしろい、とばかりにここでも楽しんでいるふうだったかな。

 ヴァルモンに説得されてダンスニーがセシルのところに戻ろうとするので、メルトゥイユとしてはプライドが許さず、ヴァルモンがセシルを抱いたことを明かします。
 メルトゥイユはダンスニーがヴァルモンに決闘を申し込むとまでは予想していなかったかもしれません。顔をこわばらせはしますが、でも止めるようなこともしません。
 ヴァルモンを愛しているから、ヴァルモンがトゥールベルに心を残しているのが許せない。そんなヴァルモンならいらないし、自分を捧げたくないし、いっそ死んでしまってもいいのです。それくらい愛しているのです。
 それがメルトゥイユの愛し方なのです。

 だから最終場の独白は、もう少しだけ弱さを見せてもいい気がする…
 そうは言っても、愛する人にはやっぱり生きていてほしい、と思うものだから。
 自分を愛していなくてもいい、別の誰かを愛していてもいい、でもとにかく生きていて…そう思えるのが究極の愛なのでは? ことここに至って、メルトゥイユはやっとそんなふうにヴァルモンを愛すようになったのでは?
 だからこそヴァルモンもメルトゥイユのもとに帰ってきたのでは? 決闘に追い込むくらい、殺したいくらい、メルトゥイユが自分を愛してくれていたのだと理解して。もうアゾランをトゥールベルのいる修道院に行かせたりしない。さらに、貴族の責務として戦いに赴かなければならない。でもその前に会っておきたい人、それは…

 仮面をかぶって器用に社交界を生き抜いてきたふたりの、不器用な真実の素顔、たったひとつの恋。命が終わるというときにやっとたどりついた愛…
 これはそんな物語なのかな、と思うのです。

 でも大ラスは確かに、キスシーンで終わるよりも踊り続けるふたりに幕、の方がいいかな…うーん。
 ダメだやっぱり観足りない考え足りない語り足りない。まだまだ観たい。どうしよう行ける日ない。
 …妄想し続けます…

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボリショイ・バレエ『スパルタクス』

2012年02月04日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京文化会館、2012年2月2日ソワレ。

 クラッスス(この日はアレクサンドル・ヴォルチコフ)率いるローマ帝国軍が各地を残虐に侵略し、捕虜を奴隷として鎖につなげていく。その中にはスパルタクス(イワン・ワシーリエフ)と妻フリーギア(スヴェトラーナ・ルンキナ)がいる…
 音楽/アラム・ハチャトゥリアン、台本/ユーリー・グリゴローヴロィチ(ラファエロ・ジョヴァニョーリの小説と古代史に基づくニコライ・ヴォルコフのシナリオを使用)、振付/ユーリー・グリゴローヴィチ、美術/シモン・ヴィルサラーゼ、音楽監督/ゲンナージー・ロジェストヴェンスキー。管弦楽はボリショイ劇場管弦楽団、指揮はパーヴェル・ソローキン。
 1968年初演、全3幕。

 初めて観た演目ですが、ハチャトゥリアンの勇壮な音楽に乗って、まあまあ男性舞踊手陣が飛ぶわ回るわ大変な動きで、超絶技巧の連続で、荒々しくてでも荒っぽくはなく端整で凛々しくて、プリマドンナのサポートでなくてさぞ楽しく踊っているんだろうなあ…とすがすがしかったです。
 クラッススの愛人エギナのマリーヤ・アラシュがまた生き生きと意地悪くプライド高そうに踊っていて、フリーギアよりあとに出てきてお辞儀するし、第二ヒロインで黒ヒロインだけど見せ場としてはこちらの方が大きいくらいですよね。
 フィギュアスケートにも使われることが多い楽曲はさすがにアダージョ部分から。でもペアみたいなスターリフトもあってこれもすごかった…!

 お話は、わかっちゃいるけど…ですね。『海賊』もそうなんだけれどちょっと同じことの繰り返しのようでもあり、でも今回はそれが群舞のポリフォニックな付け方のせいもあって効果的で、そして施した情けがあだになって最後に主人公に返ってくるという…
 残されて泣くのはいつも女ですが、遺骸のもとで立ち上がらなくてはいけない…ベタですが泣けました。

 シンプルですが美しい美術、多層的に繰り出されるコール・ドも素晴らしく、決してロマンチックなお話でもなんでもないけれど、バレエってやっぱり美しいな、すごいな、と感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする