駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

またまた『仮面のロマネスク』私論

2012年02月13日 | 日記
 またまた遠征してきました。
 苦手なはずのダブル観劇がまったく苦になりません…もうどっぷりです。
 中日でしたが(「ちゅうにち」じゃなくて「なかび」ね)、演じる方も観る方も回数を重ねて、初演が払拭されてきているのではないかと思います。
 加えて、自分自身がぶっちゃけめんどくさい恋愛をしていることもあり、自分の精神状態によっては見えるものが違うんだな、と思わされたり…(^^;)。
 なのでいつも以上に個人的見解に偏った感想かもしれませんが、しつこく語ってみたいと思います。


 もしかしたら柴田作品はいつものことなのかもしれませんが、この作品は特に、男と女の相克を描いたものなのだなあ、としみじみ感じました。
「男を真剣に愛したことがありますか/女を真剣に愛したことがありますか」
「そうかしら 泣いているのは いつも 女 女 女/そうですか だまされるのは いつも 男 男 男」
「あなたは男 わたしは女/わたしは男 あなたは女」
 すべて対になる歌詞です。
 しかし当時の社会は、そして現代もなお、男女は同等ではまったくありません。

 当時の貴族社会において、結婚と恋愛は別物である、というのは男女を通した常識だったのでしょう。結婚は家と家を結び財産を子孫に残すためのもの、恋愛は婚外で、が常識でした。
 だから結婚した女性の艶聞は、実はそれほどスキャンダルではなかったのではないでしょうか。「おっ、やるね」ニヤリ、程度というか。
 けれど未亡人は違います。
 「未だ亡くなっていない女」ってことですよこの漢字。夫が死んだら妻も殉じて死ぬのが当然で、なのに「未だ」死に遅れている、ということを意味している、恐ろしい言葉なのです。
 実際には年齢差のある夫婦が多かっただろうから、若くして寡婦になる貴婦人も多かったろうと思うのですが、再婚というのもあまり美しいこととされていなかったようですし、後追いで死なないのなら修道院にでも行け、というような、社会的に抑圧する風潮があったのでしょうね。

 ヴァルモンは未だ独身で、おカタい人には「いつまでも身を固めずにふらふらと、みっともない」と眉をひそめる向きもあったのでしょうが、その色恋沙汰は彼の勲章になりこそすれ、傷にはなりません。
 でもメルトゥイユは違う。女だから、未亡人だから。
 同じように恋愛を楽しんでも、隠さないと、恥知らず、身持ちが悪いと揶揄され非難され、社交界のつまはじきにされる。それは貴族にとっては社会的抹殺に等しい事態です。
 だからメルトゥイユは恋愛を賢く隠します。たとえば今の恋人のベルロッシュも、対外的にはあくまでパーティーのホステスのパートナー役を頼んだだけ、みたいな形を貫いている。彼にも、友達に吹聴したりしないよう言い聞かせていることでしょう。
 彼女にはそれだけの才覚があるから、きちんとやってみせて、貞淑な寡婦の鑑との評判を取り、社交界に確固たる位置を占めている。ヴァルモンだけが真実を知っていて、上手くやっているねと褒めてくれる。
 でもだからって彼女が抑圧を感じていないわけではないのです。賢い彼女には、自分にあまり自由が許されていないことがわかってしまう。でも彼女は本当はもっと自由に生きたいのです。
(ちなみに一方のトゥールベル夫人が「綺麗なだけのお馬鹿さんで結果的に幸せになる女」であるともまた言いきれません。彼女は夫を愛し敬い盲目的に仕えてきましたが、ヴァルモンの誘惑に流されて、結局は人生を破滅させてしまうからです)

 人は誰だって正当な評価をされたい。誰にだって嘘はプレッシャーなのです。
 嘘をつかず、普通に恋愛を楽しんでそれをオープンにして、モテることやいい恋愛をしていることを誉めそやされたい、とメルトゥイユだって思うはずなのです。それは俗物根性かもしれない、でも自然な感情ですよね。

 でも女にはそれが許されない。ヴァルモンと同じような生き方はメルトゥイユには許されていないのです。
 それが悔しくないはずがあるでしょうか?

 だから冒頭の「宴は果てて夜深く」のふたりのやりとりには、もう少しそういうニュアンスが出てもいいのかもしれないな、くどくても私だったらもう少し台詞を足したくなるかもな、と今回思いました。

 「恋の行方」から「恋の証」の場面。前半は台詞のないシーンなのに、ヴァルモンとメルトゥイユの火花散る丁々発止の会話が聞こえてきそうです。そしてそのまま台詞というか言い合いになる。
 ふたりは同類でソウルメイトで、愛し合ってもいる。けれどヴァルモンは男でメルトゥイユは女なのであり、決して同等ではない。恋愛において、結婚において、人生において。
 だからメルトゥイユとしては勝負を下りるしかない。同格に戦えないのだから仕方ないのです。「お友だちでいいじゃない」と。
 だがヴァルモンはメルトゥイユを愛しているから、約束をはたしてもらいたいから、「友だちは嫌だ! 彼女を捨てればいいんだろう」と言う…

 けれど仮面舞踏会で、ヴァルモンがトゥールベルを捨ててみせたことにこそ、メルトゥイユはショックを受けたのではないでしょうか。
 ヴァルモンが確かにトゥールベルに本気になったように、メルトゥイユには見えた。けれどヴァルモンはそのトゥールベルを捨てた。ヴァルモンは愛した女を捨てることができる男だったのです。それは要するにヴァルモンも他の男と同じ、ただの男だったということです。そして自分もまたいつか捨てられることがありえるただの女だということなのです。
 大空ヴァルモンが「次はセシルだ」という台詞を言わなかったのは、彼にとってトゥールベルが「次」と並列できるような存在ではなかったからです。
 しかしメルトゥイユにとっては、自分と彼女が並べられたように感じたのではないでしょうか。だから「私をハレムの女のひとりにするつもりですか」と激高する。自分にはヴァルモンしかいないのに。
 ヴァルモン以上に愛せる男など、彼女は出会わなかった。ジェルクールでもベルロッシュでもダメで、おそらくダンスニーでもダメだとわかっているのです。
 なのに男の方では楽々ともうひとりの女を見つけて、うかうかと恋に落ちたりしている。
 その無常。この世に頼りにするに足る愛などない、真の愛を捧げるに足る男などいない、というその絶望。
 メルトゥイユはそんなものに囚われたのではないでしょうか。

 トゥールベルが引きこもった修道院にヴァルモンがアゾランをやっている、それは確かに彼のトゥールベルへの心残りの証拠です。けれどそれ以上に、この無常感、絶望こそがメルトゥイユには衝撃だったのではないでしょうか。
 だから田舎に去り、そしてパリへ戻ってきたことをヴァルモンに知らせなかった。「あんな男」であるダンスニーを寝室に引き入れた。
 なのにヴァルモンは案内も請わずに押し入ってきた。自分への愛情の強さの証だとは、彼女にはもう思えなかったことでしょう。傲岸不遜な男の鼻持ちならない乱暴狼藉…女がもっとも忌むものです。
 しかもヴァルモンはダンスニーにセシルへの愛情を思い出させ、自分との関係をただの過ち、勘違いの恋の幻だと言わせた。これは女としてのプライドが傷つきます。
 だからダンスニーに、ヴァルモンがセシルを抱いたと告げます。ヴァルモンが驚くように、それは仮面をかぶって社交界を泳ぎわたってきたふたりのやり方からしたらとんでもないルール違反です。けれどメルトゥイユはやってのけた。
 事実を否定したりごまかしたりすることはヴァルモンにはできず、激高したダンスニーはヴァルモンに決闘を申し込みます。ヴァルモンはそれもまた受けざるをえない。
 ここにいたってメルトゥイユはさすがに動揺しますが、しかし一方で「死ねばいい」と思っていたことでしょう。強い愛情は簡単に憎悪に変わります。メルトゥイユは殺してやりたいくらいヴァルモンを愛していたのです。

 そもそも「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる」というのはある種の真実なのではないでしょうか。
 女性の方が平均寿命が長いから、というのもありますが、先に死んだ日には残った男はいそいそと若い女との浮気に励むに決まっていて、女はおちおち成仏もできない、と思うのが女でしょう。
 愛した男を見とって、その男の墓の上で楽しく踊り暮らすメリー・ウィドウ・ライフが、女の積年の夢だと思うのですよね。
 それに死はひとつのゴールです。
 結婚はこの時代も今も、決して愛のゴールではない。愛の戦いは一生続くのです。それに耐えきれなくなってきたときに、対象の死を願うのは私には当然のことに思えます。
「死ねばいい」
 トート閣下もかくやの思いで、メルトゥイユは念じたのかもしれません。

 前回、決闘の行方を案じて、
「誰を愛していてもいい、トゥールベルを愛してもいいから、生きていてくれさえすればいい」
 と思う境地に至って、メルトゥイユは最終場でヴァルモンへの愛を告白するモノローグをするのでは、と思った、と書きましたが…
 今回、決闘で、あるいは市民の蜂起で、ヴァルモンの命はないだろうと思ったからこそ、メルトゥイユもやっとプライドで身を覆うのをやめて、素直に仮面を外す気になれたのかもしれない、と思いました。
 もう戦う相手はいないから。戦う相手が死なないと、戦うことをやめられない、愛という名の戦いに縛られた悲しい女だから…
 
 そしてヴァルモンもまた、近衛連隊に籍を置く者として、また貴族の義務として、敗色濃厚でも国王軍に身を投じようとしているわけですが、トゥールベルへの罪悪感はあるしメルトゥイユは約束を守ってくれないしでなんだかもうわやくちゃになっちゃってくさくさしちゃって、いいやもう死ににいこう!みたいなところがあったんじゃないかな、と思いました。
 そういうのってすごく男の人っぽい。彼もまた愛に捕らわれた愚かな男だったのでした。

 でもここからが、男と女のこの断絶をひらりと飛び越えてみせる、柴田宝塚ロマンの真骨頂なんだろうなあ、と思うのです。

 彼が最後に顔を見に来たのはメルトゥイユでした。
 見に来ただけで、彼女がちゃんとこの事態に対する手だてを考えているだろうことは信頼していたと思うし、逆に言えば彼女を守って一緒に国外へ出るとかそういう発想は彼にはさらさらなかったわけで、それもまたいかにも男の無責任っぽい、と今やや皮肉な気分になっている私なんかは思います。
 それでも彼は、メルトゥイユの館を訪れた。

 メルトゥイユは振り返り、階段に佇むヴァルモンの姿を見ます(片足だけ一段下ろしたポーズのカッコいいことったら! 私なら簡単に惚れ直すね!!)。
 死ねばいいとまで思った男が、全身全霊をかけて愛し憎んだ男が、生きて自分のところに現れた。でも死ににいくという。一方自分は嵐を逃れて生き延びられるだろう、でも心は死ぬのだ、今。
 彼が死ぬから。
 相手が死んでも愛は残るのかもしれない、けれど愛し合う相手がいない、愛し合う肉体がない愛はやはり空虚だ。私の体は生き長らえる、しかし命は終わるのだ。彼なくして自分はないも同然なのだから。
 こんな別れが来ると、いったい誰が思っただろう…

 お茶会で大空さんが、こんな時代のこんな社会で、仮面をかぶったこんな生き方をして、それでもあれがヴァルモンとメルトゥイユの青春だったんだな、と思う、というようなことを言っていたのですが…まさしくそのとおりだと思いました。これはふたりの青春が、恋が、命が終わる物語なのですね。
 だから若かりしころの彼らがどんな出会いをしてどんなふうに恋に落ちて、ぶっちゃけどんなセックスをしてどんな別れに至ったのか、実は今ひとつ想像しがたいのですが、それでいいのですね。これはそこを描いた物語ではないのですから。

 初演がユキちゃんのサヨナラ公演だったため、
「もう少しで僕もおいとまするよ」
 なんかはいわゆる退団台詞なわけですが、今回はスミカの
「楽しかったわ」
 に泣かされました。初演台本ではヴァルモンの台詞だったようです。
 トップ生活が、宝塚生活が楽しかったと思ってくれてる? 大空さんにつきあわされて(と私は勝手に思っている)組替えしてトップになって。そうでなければもっとゆっくり長く違った形で宝塚生活を送れたかもしれない。違う花を咲かせたかもしれない。でも同時就任で在任三年、同時退団が自然だよねという空気もあったか本当に本人の初めからの意志か、まだ新公学年を出たばかりなのに卒業していく。私は勝手に申し訳ないと思っている、でもすごくありがたい、添い遂げてくれて(この言葉に問題を感じつつも)うれしいと思っている。そんな可愛い可愛いスミカが、台詞でだけれど万感の思いを込めて「楽しかったわ」と言ってくれている、大空さんとの「華やかなりし日々」を(笑)そうまとめてくれている…と思うと、もう泣かないではいられませんでした。
 こんなファンですみません…


 どうしようあとまだ20回くらい観たい。
 プレサヨナラ公演にしてまたこんな名作に巡り会えた僥倖に、感謝しないではいられません…


コメント (4)
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