東京建物Brillia HALL、2022年1月21日18時。
名門貴族ヴェラキッカ家のノラ(美弥るりか)は一族の仲間と養子たちに囲まれて暮らしていた。ヴェラキッカ家の吸血種たちは全員がノラに強烈なまでの愛情と執着を見せる。そこに新しい養子キャンディ(平野綾)が現れ、ノラを巡るマウントゲームが激化し、やがてヴェラキッカ家の秘密が暴かれていく…
作・演出/末満健一、音楽/和田俊輔。2009年初演の『TRUMP』から始まる、吸血種たちの叙事詩を描くミュージカル。全2幕。
2018年上演の『マリーゴールド』にえりたんとあゆっちが出演したんでしたっけ? それでひととき私のTLでは話題になっていた気がします。それ以前にもなんとなく名前は聞いていて、吸血鬼の話でオリジナル・ミュージカルでマニアックなファンが多いらしい…みたいなイメージはなんとなく持っていました。シリーズ最新作の主演にみやちゃんが決まって以降も再三話題は聞こえてきましたが、私は格別みやちゃんのファンだったわけでもないし、門外漢にはおよびでないものなのだろう、とスルーしていました。
が、今回の作品はシリーズ未履修でも問題ない、とかノー予習でも大丈夫、とかこの演出家の作品にしては珍しく観易く優しい(易しい?)という評判や、コレは全みやちゃんファンが観たかったヤツだ、とかこれこそみやちゃんの退団公演だイヤ真性お披露目公演だとかの評判も聞こえてきて、ほほう、と興味を持ったところに譲渡ツイートを見かけたので、もうすぐ千秋楽というタイミングでしたがシュッと行ってきました。よかったです!!!
ちなみにブリリア席ガチャは…後ろが中通路、という列のセンターブロック下手寄りだったのですが、前列は背が特別高いわけでもないごく普通のお若いお嬢さんでしたが、ゼロ番から下手半分くらいが全然見えませんでした。上手側半分と下手端だけが見える。すごく姿勢良く座ってやっとなんとか下手のセンター寄りに立つ役者の顔だけは見える、足もとなんかは全然見えない…という感じでした。このハコの1階前方の床の段差、他の劇場より確実に小さいですもんね。そんなところ上品ぶっても仕方ないやろ、と思います。ホント今すぐ工事し直してほしいよ、やたら足音が響く床の材質も含めて…でも音は良かったです。確かアルバムなんかも出しているくらい楽曲にもこだわりがあるシリーズ、という認識でいたのですが、そのとおりにみんなガンガン歌うし踊るし、だけどみんなちゃんと上手くて踊りながら歌っていても演奏が大音量でも歌詞がちゃんと聞こえて、非常に心地良かったです。音響(百合山真人)とかチューニングとかがすごくちゃんとしているんだろうなと感じました。
開演前にプログラムにざっとでも目を通して軽く予習したい…と思って開場すぐに入ったのに、客席の照明はすでにほの暗く、プログラムの印字の色が紺で(客席ではグレーに見えました)見出しは七色のグラデになっていて(35年か40年前にこういうインクで同人の便箋とか作ったよね…!?と震えました)、鳥目と老眼とコンタクトレンズによる遠視では全然読めなくて断念しました。なので本当にノー知識で観ました。でもまったく問題なかったです。
みやちゃんの卒業公演みたい、いやお披露目公演みたい、という評については、確かに私も『武蔵』はホントしょーもない脚本だったと思っていますし『クルンテープ』もサヨナラ仕様にはあまりなっていなかったと思うので、なるほどなとは思いました。ただ、トップスターのプレお披露目の別箱公演でも、こんな主役ありき、主役一本被りの、主役の主役による主役のためだけの演目なんて作ってもらえませんよ…!とは思いました。ショーやコンサートでもなかなかこうはいかないと思います。それは宝塚歌劇が他のスターや最下の組子にまでなんとか出番を作ろうとするせいもあるけれど、やはり在り方というか覚悟というか振りきり方が違うんだろうな、と思いました。なんせこれまでの経緯をスルーしていたので演出家がどこでみやちゃんを見初めたのかとかどういう意図でキャスティングしたのかみたいなことを全然知らないのですが、もともとノラの物語はうっすら構想していて、そこにどんぴしゃの役者が現れた…みたいな感じなのでしょうか。素晴らしい出会い、奇跡ですね。でも別にノラとその他大勢、みたいになっちゃっていないところがいい。養子たちはアンサンブルかもしれないけれど、メインキャスト8人にはちゃんとキャラクターとドラマがありました。これはロビン(宮川浩)が刺さる人もウィンター(西野誠)が刺さる人もあるいはマギー(斎藤瑞希)が刺さる人もいるでしょう! 配役もしっかりしていました。このクオリティは純粋にすごいと思います。
ただ逆に言うと、ファンの喜び具合が私には少し奇異に感じられました。私は彼女の卒業後の活動を全然追えていないのだけれど(私が観たいと思う作品に出ていないので)、それに不満があった、ということなのかな…? あるいは未だ男役姿みたいなものを求めているということなら、それはちょっと不幸なことなのでは…とも思ったりしました。また、ノラは確かに中性的というか性を超越したようなキャラクターで(私はなんせ未履修ゆえに吸血種にも性別ってあるのかいな、とか性交による生殖で繁殖してるんかいな、とか考えながら観ていたわけですが)、かつザッツ座長というか、それこそ登場人物全員の中心かつ頂点にいる存在のお役なのですが、ぶっちゃけて言うと要するに幻、幻想のキャラクターなわけで、もちろんその演技は意外に難しいとは思うのですが、ただただ美しく絶対的に在るだけの役とも言えるので、ある程度の美貌を持つ役者なら誰でもやれちゃうんじゃないの…?とちょっと思っちゃったんですね。みやちゃんじゃないとできない役、とまでは思わなかった。まあそれはどんな役でもそうなんだけどさ、戯曲が先にあって役者はそれを演じるだけだし、再演で交替することもあるわけですからね。イヤもちろん今回はみやちゃんあっての当て書きだったのかもしれないけれど、でもみやちゃんの役者としての資質、可能性はコレだけじゃない、こんなもんじゃないだろう!?とファンじゃないからこそ思ってしまいました。そういう意味では私はやはり芝居が好きで芝居が観たいんだと思います。だからもっとがっつり芝居するみやちゃんをどうせなら観たい、という欲が出ました。この作品を見るまでほぼノー興味だったんだから、逆に考えるとすごいことですね。
私が一番感じ入ったのは地下室の少女時代のノラのくだりでした。つまりちゃんと生きていたころのノラ、ということです。ラスト、それまでお衣装も鬘も取っ替え引っ替えしてきたノラがどんな姿で現れるんだろう?と思って、いざポスターの姿で出られたらなるほどやられた!とは思ったのですが、一方で私はあの地下室の姿で出てきてくれてもよかった、襤褸を着て伸び放題のぼうぼうの髪で、それでも、あるいはだからこそ美貌がいっそう際立ち、一番美しく見えた気すらしたあの真実の、生前のノラの姿でもよかった…!と思ったのですよ。みやちゃんの役者としての真骨頂はそこにあるのではないかと思いました。
もちろんそれはそれとして、ラインナップですら新しいお衣装を着て出てきちゃうスーパーモデルスターっぷりとか、最後の最後に「また同じ夢を見ましょう」みたいな殺し文句を言って締める千両役者っぷりとかにはギャー!と興奮させられたんですけれどね。まあでもそれくらいここまでファンが不憫だったということなのかな…かいちゃんに先駆けてユニセックスな感じで元気に活動しているのかなー、と遠目に眺めていたんですけれどねえ。てかホントこんだけ歌って踊れるんだからもっとなんでもできるだろう、と思っちゃうけどなー、事務所とかなんとかあるのかなー、芸能界コワイ。
さて、そんなわけで舞台は、これまた「1幕はショーで2幕は芝居」とも聞いていたのですがまさしくそんな感じの構成なのと、ヴェラキッカに新たに加わるキャンディというキャラクターが置かれていることもあって、彼女と一緒に世界に入っていけてとてもスムーズでした。あゆっちのジョー(愛加あゆ)がわりとすぐに、鮮やかにかつ躍動的に出てきてくれたのも心強かったです。ガンガン歌い踊るナンバーがけっこう多くて、でも歌もダンスもクオリティーが高くて観ていてとても楽しく、普段の私なら「それはいいからさっさと話を進めてくれ」とちょっとは思いそうなところを全然そんなふうに感じませんでした。
で、ジョーを起点にして話が動き出し、バーン!って感じの引きで1幕が終わり(『SLRR』に足りなかったものはイロイロあるがコレもだよ)、2幕の「そうだったのかー!」からのもう一展開、そして主題歌「ヴェラキッカの一族」エンディングバージョンで盛り上がるフィナーレとラインナップ、キメてジャン!で暗転!!でもう「フウゥーッ!!!」ってなりましたよね。気持ち良くスタオベしましたし、最後に上手袖に引っ込むみやちゃんの優雅なお辞儀に痺れました。いやコレが刺さらないオタクはいないでしょう!?!?(巨大主語)
というわけで大変楽しく観たのでした。
お話は、突き詰めると、ノラを「初恋」と語るシオン(松下優也)の、そしてノラの異母弟で彼女に対して屈託や罪悪感があるカイ(古屋敬多)のドリーム、願望、理想、幻想のノラの物語…ということですよね。そこにこのシリーズの吸血種に特有の設定、「イニシアチブ」が絡む。実によくできていると思います。ホント偉そうな物言いで申し訳ないんですけれど、ぱっと見オタクならすぐ考えつきそうな設定だったり話だったりするとは思うんですけれど、これだけのクオリティのミュージカル、作品、ストーリーに仕立て上げることはなかなかできるものじゃないと思いました。その熱意と技量に感心するし、このシリーズの演目をブラッシュアップし続けレベルアップさせ磨き上げてきた成果なんじゃないかなと思いました。見習わせたい脚本・演出家にたくさんたくさん心当たりがあります…
美しい、元男役のみやちゃんの特性、魅力を引き出すため、という一方で、だからノラはあんな男言葉で話すんですね。それは唯一話し相手になってくれたシオンから学んだものなのでしょう。そしてだからノラはあんなに現れるたびに違う髪型、違う服装なわけです、それはみんながそれぞれに思い描いた幻想の姿だから…説得力があり、素晴らしい。
愛ってなんなのかとか、存在しないものを愛せるのかとか、それは幻想にすぎないものなのかとかは、哲学的なような形而上的なような感傷的なようなエモいような…な、永遠のテーマのひとつかな、と思います。この吸血種たちは不老不死ではないらしく、ごく人間臭い感情を持っているようでもありますしね。だから忘れてしまうことや忘れられてしまうことへの恐れも持っている…それで人間臭く足掻くさまが、観ている我々人間のオタク心にも刺さるんだと思います。また対象に一方的に愛を捧げることは、スター、アイドル、キャラクター、推しというようなものを愛することと似通った部分があり、そのあたりも我々にはぐさぐさ刺さるワケです。そして結論としては、そうした愛や夢に罪はない…というようなことに至り、「また同じ夢を見ましょう」と誘われて終わるんだから、そらファンは柔らかな繭に包まれて幸せな夢を見る繭期の野良ヴェラキッカになりますよ、ってなもんですよね。ホント、わかる!ってなりました。
イニシアチブに関する説明なんかも上手くて、ホントにノー知識で観ても大丈夫なところ、ちゃんと萌えどころがわかるところが本当に素晴らしいなと思いました。
ところでプログラムにシリーズの物語に関する年表があって、第一作を元年として前後1万4000年あまりのことが解説されていましたけれど、この単位って本当に「年」なんですかね? 365日の? てかこれ地球の話? シリーズに人間は全然出てこないの? この元年は人間の世界の西暦だと何年くらいのイメージなの? もちろん人間種と吸血種が共存している社会なんて実際にはなかったんだから、架空歴史ものでありなんちゃって地球なのかもしれませんけれど…あとアジア人とかの吸血種はいないのか?とかね。いや中の役者は日本人でしょうが役は西洋の白人っぽいじゃん? そういうのは今やちょっと気になりました。あとは純粋に、私はこの先の人類は文化の爛熟と種としての衰弱とであと数世紀も保たないんじゃないかと考えているので、「いちまんねん…」ってなっちゃったのでした。ま、人類が滅亡しても地球は肥大した太陽に飲まれる何十億年か後まではあるんだと思うので、そこが吸血種の楽園となってもいいのですが…あ、でも血を吸う相手がいなくなっちゃうのか? うーむもう少しシリーズを勉強しないと損な考察はできないのかもしれません、失礼いたしました。
でも人間のキャラクターが全然出てこないんだとなると、吸血種って血を吸うってだけで、そして人間より運動機能的に俊敏だとか思春期の不安定さが激しいとかはあるにせよ、日光に当たっても平気だしニンニクも十字架も苦手じゃないしコウモリに変身したりもしないようなら、ほぼ人間ですよね…人間との差異が問題になるようなエピソードはないのかな? 人間とも交配可能という設定だそうだけれど、人間種とは関わりを持つことを禁じられているとありますが、どういうことなんでしょう…では誰の血を吸うの?
あとイニシアチブを発動させる噛むという行為と吸血とは、イコールではないということなのかな? そのあたりはよくわかりませんでした。でもまあ、そういう禁忌やルールが多い設定でアレコレ物語を作ろうとしちゃうのがオタクというものですよね…そして永い時を生きる者の愛や苦悩を想像して年表作っちゃうの、わかりみしかありません。私も『ポーの一族』を読んで似た話やキャラを夢想して系図とか年表とか自作しましたよ…てか「人は二度死ぬという」は『トーマの心臓』のあまりにも有名な冒頭のフレーズですもんね。
末満さんという人は最も成功したオタクのひとり、ということなのだろうな、と思ったりしました。すべての創作者かくあれかし。機会があれば別の作品も観てみたいですが、私は配信がどうにも苦手なので、また再演や新作の上演があれば、かな…くわしい方の解説や語りを聞いてみたいです。ご教示、待っています!
公演は大阪まで行くんですね、無事の上演をお祈りしています!!
名門貴族ヴェラキッカ家のノラ(美弥るりか)は一族の仲間と養子たちに囲まれて暮らしていた。ヴェラキッカ家の吸血種たちは全員がノラに強烈なまでの愛情と執着を見せる。そこに新しい養子キャンディ(平野綾)が現れ、ノラを巡るマウントゲームが激化し、やがてヴェラキッカ家の秘密が暴かれていく…
作・演出/末満健一、音楽/和田俊輔。2009年初演の『TRUMP』から始まる、吸血種たちの叙事詩を描くミュージカル。全2幕。
2018年上演の『マリーゴールド』にえりたんとあゆっちが出演したんでしたっけ? それでひととき私のTLでは話題になっていた気がします。それ以前にもなんとなく名前は聞いていて、吸血鬼の話でオリジナル・ミュージカルでマニアックなファンが多いらしい…みたいなイメージはなんとなく持っていました。シリーズ最新作の主演にみやちゃんが決まって以降も再三話題は聞こえてきましたが、私は格別みやちゃんのファンだったわけでもないし、門外漢にはおよびでないものなのだろう、とスルーしていました。
が、今回の作品はシリーズ未履修でも問題ない、とかノー予習でも大丈夫、とかこの演出家の作品にしては珍しく観易く優しい(易しい?)という評判や、コレは全みやちゃんファンが観たかったヤツだ、とかこれこそみやちゃんの退団公演だイヤ真性お披露目公演だとかの評判も聞こえてきて、ほほう、と興味を持ったところに譲渡ツイートを見かけたので、もうすぐ千秋楽というタイミングでしたがシュッと行ってきました。よかったです!!!
ちなみにブリリア席ガチャは…後ろが中通路、という列のセンターブロック下手寄りだったのですが、前列は背が特別高いわけでもないごく普通のお若いお嬢さんでしたが、ゼロ番から下手半分くらいが全然見えませんでした。上手側半分と下手端だけが見える。すごく姿勢良く座ってやっとなんとか下手のセンター寄りに立つ役者の顔だけは見える、足もとなんかは全然見えない…という感じでした。このハコの1階前方の床の段差、他の劇場より確実に小さいですもんね。そんなところ上品ぶっても仕方ないやろ、と思います。ホント今すぐ工事し直してほしいよ、やたら足音が響く床の材質も含めて…でも音は良かったです。確かアルバムなんかも出しているくらい楽曲にもこだわりがあるシリーズ、という認識でいたのですが、そのとおりにみんなガンガン歌うし踊るし、だけどみんなちゃんと上手くて踊りながら歌っていても演奏が大音量でも歌詞がちゃんと聞こえて、非常に心地良かったです。音響(百合山真人)とかチューニングとかがすごくちゃんとしているんだろうなと感じました。
開演前にプログラムにざっとでも目を通して軽く予習したい…と思って開場すぐに入ったのに、客席の照明はすでにほの暗く、プログラムの印字の色が紺で(客席ではグレーに見えました)見出しは七色のグラデになっていて(35年か40年前にこういうインクで同人の便箋とか作ったよね…!?と震えました)、鳥目と老眼とコンタクトレンズによる遠視では全然読めなくて断念しました。なので本当にノー知識で観ました。でもまったく問題なかったです。
みやちゃんの卒業公演みたい、いやお披露目公演みたい、という評については、確かに私も『武蔵』はホントしょーもない脚本だったと思っていますし『クルンテープ』もサヨナラ仕様にはあまりなっていなかったと思うので、なるほどなとは思いました。ただ、トップスターのプレお披露目の別箱公演でも、こんな主役ありき、主役一本被りの、主役の主役による主役のためだけの演目なんて作ってもらえませんよ…!とは思いました。ショーやコンサートでもなかなかこうはいかないと思います。それは宝塚歌劇が他のスターや最下の組子にまでなんとか出番を作ろうとするせいもあるけれど、やはり在り方というか覚悟というか振りきり方が違うんだろうな、と思いました。なんせこれまでの経緯をスルーしていたので演出家がどこでみやちゃんを見初めたのかとかどういう意図でキャスティングしたのかみたいなことを全然知らないのですが、もともとノラの物語はうっすら構想していて、そこにどんぴしゃの役者が現れた…みたいな感じなのでしょうか。素晴らしい出会い、奇跡ですね。でも別にノラとその他大勢、みたいになっちゃっていないところがいい。養子たちはアンサンブルかもしれないけれど、メインキャスト8人にはちゃんとキャラクターとドラマがありました。これはロビン(宮川浩)が刺さる人もウィンター(西野誠)が刺さる人もあるいはマギー(斎藤瑞希)が刺さる人もいるでしょう! 配役もしっかりしていました。このクオリティは純粋にすごいと思います。
ただ逆に言うと、ファンの喜び具合が私には少し奇異に感じられました。私は彼女の卒業後の活動を全然追えていないのだけれど(私が観たいと思う作品に出ていないので)、それに不満があった、ということなのかな…? あるいは未だ男役姿みたいなものを求めているということなら、それはちょっと不幸なことなのでは…とも思ったりしました。また、ノラは確かに中性的というか性を超越したようなキャラクターで(私はなんせ未履修ゆえに吸血種にも性別ってあるのかいな、とか性交による生殖で繁殖してるんかいな、とか考えながら観ていたわけですが)、かつザッツ座長というか、それこそ登場人物全員の中心かつ頂点にいる存在のお役なのですが、ぶっちゃけて言うと要するに幻、幻想のキャラクターなわけで、もちろんその演技は意外に難しいとは思うのですが、ただただ美しく絶対的に在るだけの役とも言えるので、ある程度の美貌を持つ役者なら誰でもやれちゃうんじゃないの…?とちょっと思っちゃったんですね。みやちゃんじゃないとできない役、とまでは思わなかった。まあそれはどんな役でもそうなんだけどさ、戯曲が先にあって役者はそれを演じるだけだし、再演で交替することもあるわけですからね。イヤもちろん今回はみやちゃんあっての当て書きだったのかもしれないけれど、でもみやちゃんの役者としての資質、可能性はコレだけじゃない、こんなもんじゃないだろう!?とファンじゃないからこそ思ってしまいました。そういう意味では私はやはり芝居が好きで芝居が観たいんだと思います。だからもっとがっつり芝居するみやちゃんをどうせなら観たい、という欲が出ました。この作品を見るまでほぼノー興味だったんだから、逆に考えるとすごいことですね。
私が一番感じ入ったのは地下室の少女時代のノラのくだりでした。つまりちゃんと生きていたころのノラ、ということです。ラスト、それまでお衣装も鬘も取っ替え引っ替えしてきたノラがどんな姿で現れるんだろう?と思って、いざポスターの姿で出られたらなるほどやられた!とは思ったのですが、一方で私はあの地下室の姿で出てきてくれてもよかった、襤褸を着て伸び放題のぼうぼうの髪で、それでも、あるいはだからこそ美貌がいっそう際立ち、一番美しく見えた気すらしたあの真実の、生前のノラの姿でもよかった…!と思ったのですよ。みやちゃんの役者としての真骨頂はそこにあるのではないかと思いました。
もちろんそれはそれとして、ラインナップですら新しいお衣装を着て出てきちゃうスーパーモデルスターっぷりとか、最後の最後に「また同じ夢を見ましょう」みたいな殺し文句を言って締める千両役者っぷりとかにはギャー!と興奮させられたんですけれどね。まあでもそれくらいここまでファンが不憫だったということなのかな…かいちゃんに先駆けてユニセックスな感じで元気に活動しているのかなー、と遠目に眺めていたんですけれどねえ。てかホントこんだけ歌って踊れるんだからもっとなんでもできるだろう、と思っちゃうけどなー、事務所とかなんとかあるのかなー、芸能界コワイ。
さて、そんなわけで舞台は、これまた「1幕はショーで2幕は芝居」とも聞いていたのですがまさしくそんな感じの構成なのと、ヴェラキッカに新たに加わるキャンディというキャラクターが置かれていることもあって、彼女と一緒に世界に入っていけてとてもスムーズでした。あゆっちのジョー(愛加あゆ)がわりとすぐに、鮮やかにかつ躍動的に出てきてくれたのも心強かったです。ガンガン歌い踊るナンバーがけっこう多くて、でも歌もダンスもクオリティーが高くて観ていてとても楽しく、普段の私なら「それはいいからさっさと話を進めてくれ」とちょっとは思いそうなところを全然そんなふうに感じませんでした。
で、ジョーを起点にして話が動き出し、バーン!って感じの引きで1幕が終わり(『SLRR』に足りなかったものはイロイロあるがコレもだよ)、2幕の「そうだったのかー!」からのもう一展開、そして主題歌「ヴェラキッカの一族」エンディングバージョンで盛り上がるフィナーレとラインナップ、キメてジャン!で暗転!!でもう「フウゥーッ!!!」ってなりましたよね。気持ち良くスタオベしましたし、最後に上手袖に引っ込むみやちゃんの優雅なお辞儀に痺れました。いやコレが刺さらないオタクはいないでしょう!?!?(巨大主語)
というわけで大変楽しく観たのでした。
お話は、突き詰めると、ノラを「初恋」と語るシオン(松下優也)の、そしてノラの異母弟で彼女に対して屈託や罪悪感があるカイ(古屋敬多)のドリーム、願望、理想、幻想のノラの物語…ということですよね。そこにこのシリーズの吸血種に特有の設定、「イニシアチブ」が絡む。実によくできていると思います。ホント偉そうな物言いで申し訳ないんですけれど、ぱっと見オタクならすぐ考えつきそうな設定だったり話だったりするとは思うんですけれど、これだけのクオリティのミュージカル、作品、ストーリーに仕立て上げることはなかなかできるものじゃないと思いました。その熱意と技量に感心するし、このシリーズの演目をブラッシュアップし続けレベルアップさせ磨き上げてきた成果なんじゃないかなと思いました。見習わせたい脚本・演出家にたくさんたくさん心当たりがあります…
美しい、元男役のみやちゃんの特性、魅力を引き出すため、という一方で、だからノラはあんな男言葉で話すんですね。それは唯一話し相手になってくれたシオンから学んだものなのでしょう。そしてだからノラはあんなに現れるたびに違う髪型、違う服装なわけです、それはみんながそれぞれに思い描いた幻想の姿だから…説得力があり、素晴らしい。
愛ってなんなのかとか、存在しないものを愛せるのかとか、それは幻想にすぎないものなのかとかは、哲学的なような形而上的なような感傷的なようなエモいような…な、永遠のテーマのひとつかな、と思います。この吸血種たちは不老不死ではないらしく、ごく人間臭い感情を持っているようでもありますしね。だから忘れてしまうことや忘れられてしまうことへの恐れも持っている…それで人間臭く足掻くさまが、観ている我々人間のオタク心にも刺さるんだと思います。また対象に一方的に愛を捧げることは、スター、アイドル、キャラクター、推しというようなものを愛することと似通った部分があり、そのあたりも我々にはぐさぐさ刺さるワケです。そして結論としては、そうした愛や夢に罪はない…というようなことに至り、「また同じ夢を見ましょう」と誘われて終わるんだから、そらファンは柔らかな繭に包まれて幸せな夢を見る繭期の野良ヴェラキッカになりますよ、ってなもんですよね。ホント、わかる!ってなりました。
イニシアチブに関する説明なんかも上手くて、ホントにノー知識で観ても大丈夫なところ、ちゃんと萌えどころがわかるところが本当に素晴らしいなと思いました。
ところでプログラムにシリーズの物語に関する年表があって、第一作を元年として前後1万4000年あまりのことが解説されていましたけれど、この単位って本当に「年」なんですかね? 365日の? てかこれ地球の話? シリーズに人間は全然出てこないの? この元年は人間の世界の西暦だと何年くらいのイメージなの? もちろん人間種と吸血種が共存している社会なんて実際にはなかったんだから、架空歴史ものでありなんちゃって地球なのかもしれませんけれど…あとアジア人とかの吸血種はいないのか?とかね。いや中の役者は日本人でしょうが役は西洋の白人っぽいじゃん? そういうのは今やちょっと気になりました。あとは純粋に、私はこの先の人類は文化の爛熟と種としての衰弱とであと数世紀も保たないんじゃないかと考えているので、「いちまんねん…」ってなっちゃったのでした。ま、人類が滅亡しても地球は肥大した太陽に飲まれる何十億年か後まではあるんだと思うので、そこが吸血種の楽園となってもいいのですが…あ、でも血を吸う相手がいなくなっちゃうのか? うーむもう少しシリーズを勉強しないと損な考察はできないのかもしれません、失礼いたしました。
でも人間のキャラクターが全然出てこないんだとなると、吸血種って血を吸うってだけで、そして人間より運動機能的に俊敏だとか思春期の不安定さが激しいとかはあるにせよ、日光に当たっても平気だしニンニクも十字架も苦手じゃないしコウモリに変身したりもしないようなら、ほぼ人間ですよね…人間との差異が問題になるようなエピソードはないのかな? 人間とも交配可能という設定だそうだけれど、人間種とは関わりを持つことを禁じられているとありますが、どういうことなんでしょう…では誰の血を吸うの?
あとイニシアチブを発動させる噛むという行為と吸血とは、イコールではないということなのかな? そのあたりはよくわかりませんでした。でもまあ、そういう禁忌やルールが多い設定でアレコレ物語を作ろうとしちゃうのがオタクというものですよね…そして永い時を生きる者の愛や苦悩を想像して年表作っちゃうの、わかりみしかありません。私も『ポーの一族』を読んで似た話やキャラを夢想して系図とか年表とか自作しましたよ…てか「人は二度死ぬという」は『トーマの心臓』のあまりにも有名な冒頭のフレーズですもんね。
末満さんという人は最も成功したオタクのひとり、ということなのだろうな、と思ったりしました。すべての創作者かくあれかし。機会があれば別の作品も観てみたいですが、私は配信がどうにも苦手なので、また再演や新作の上演があれば、かな…くわしい方の解説や語りを聞いてみたいです。ご教示、待っています!
公演は大阪まで行くんですね、無事の上演をお祈りしています!!
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