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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『幕末純情伝』

2010年03月13日 | 観劇記/タイトルは行
 新橋演舞場、2008年8月15日ソワレ。

 徳川260年の太平の世が終わりを告げようとしている。未来への希望を胸に、京都へ急ぐ一群の男たち「新撰組」の隊士の中に、ひとりの女がいた。男として育てられ、ひたすらに剣の腕を磨いた女、沖田総司(石原さとみ)。その総司と赤い糸で結ばれた男、坂本龍馬(真琴つばさ)は、武士も町人もない時代を作ろうとした男だった…作・演出/つかこうへい。1989年初演。つか自身の演出では18年ぶりとなる舞台。

 つかこうへいの舞台を初めて観ました。
 多分『蒲田行進曲』は、その昔、映画版をテレビで観たかと思います。その宝塚歌劇版『銀ちゃんが行く』は公演を観ました。小説版も読んだかと思います。『幕末純情伝』も小説版は昔読んだはずです。
 それでしか語れませんが…

 この人の舞台がこれまでもこうだったというのなら、誰か「王様は裸だ」と言ってあげた方がいいのではないでしょうか。あるいは近年崩れてこうなってしまったんだとしたら、「老いたな」と言ってあげた方がいいのではないでしょうか。

 こんなにひどい、訳わからない舞台を観たのはおそらく初めてです。新橋演舞場が泣いています。大衆エンタメ演劇をやるのに適したすばらしい劇場だというのに。もっと小さい地下のわけわからないところで、無名のキャストでやるならともかく。
 役者も泣いていますよ、近藤勇の山崎銀之丞も、高杉晋作の吉沢悠も、とてもすばらしかったと思います。
 もちろん主演ふたりも。石原さとみは声量がなくてまだまだ芝居がテレビサイズだったけれど、演技としてはしっかりしていてたいしたものでした(ダンスはひどかったけどなー。あれにはやはり相当な専門の訓練が必要なものなんですね)。
 マミちゃんは意外に出番がなく、またしどころのない役でしたが、まあ健闘していたと言っていいでしょう。ひとり着たきり雀でしたが、フィナーレで赤と黒のドレスに着替えて出てきて踊って見せたところはサービスとして正しいし、よかったです。

 しかし、とにかくそういうことではないのです、問題は。作劇として体をなしていない。口立てだかなんだか知りませんが、キ●ガイのイメージの羅列を見せられても観客は誰も理解できませんよ。
 幕開けのシーンで、何故か島崎藤村が新鮮組隊士で沖縄戦を語っていてもいい、西郷隆盛が光る銀の変なロックスターみたいなジャンプスーツを着て登場してもかまわない。ちょっとくらい時空が歪んでいるのなんてかえって舞台の醍醐味です。そもそも史実をそのまま劇にするわけないくらいのことは観客だってわかっています。
 しかし、初めて主演ふたりが登場するシーンはなんなんですか? 「おまえ総司だろ」「ちがいますよ」って何? ここでの総司は別人に扮しているってこと? でもなんの説明も記号もありませんが? 何もなければ観客は、石原さとみが出てくればそれが総司だと思いますよ? ということは龍馬が訳わからないことを言っている人だということになりますがそれでいいんですかね?

 だいたい憲法第9条がなんだっていうの? 私は思想的にはバリバリの護憲派ですがしかし、その中身にまったく言及せずしてただただ9条9条言わせるってのには、むしろ逆の意図を感じますが、この作者の政治的スタンスってそうなんですか? これまた実は観たことないんですが井上ひさしもけっこう戦争は扱っていたはずですが…

 幕間に、前列の親子連れのうち父親がパンフレットを買ってきたときに、姉娘が「あらすじだけ読ませて、訳わかんないから」といっていたのが印象的でしたが、パンフレットのあらすじは舞台上のストーリー(というものがあるとすれば)とはまったく関係のない枠組のことしかかかれていないので、ちんぷんかんぷんのままだったことでしょう。
 ちなみに続く第ニ幕はさらになんだかわからないままに男色のエグいシーンもあり、両親と娘ふたりで観にくる舞台ではなかったのうとしみじみ思った私なのでした。

 一番腹が立ったのは、この作者のこのタイトルの作品は総司が女とされている、ということくらいは知っていた私でしたが、では何故龍馬にも女優をキャスティングしたの?
 いくら元宝塚歌劇の男役とはいえ、それでは女優を総司役にキャスティングした意味が薄れるではないか、と案じていたところ、なんとこれにもきちんと意味があって龍馬もまた女であったということが明かされ、これはちょっとスリリングなと期待したのですが、所詮男にフェミニズムを語られたくなんかないよというか、女ふたりが語る場面の意味のなさ加減がもう本当にひどいものでした。
 それはなんなの、男なんかもういらないということなの? でもそんなこと、男も女も思ってなんかいないんだよ?
 男はもしかしたら女なんかいらないと根っこのところでは思っている部分もあるかもしれません、ホモ・ソーシャルに生きたほうが楽なんだからさ。でも女は、そんな社会で生きていくためにも男は不可欠だと知っている。男がいらないなんて思ったことはないのです、ただ、いてもらいたい男がなかなかいないところが問題だとは思っていて、そこに永遠の問題はある。ともあれ女が女とくっついていたって何も生まれないことは女が一番よく知っているし男だってそうでしょう。

 なのに何故総司は龍馬に惚れるんですか? 女と知っていてなお? あんなふうに生きたかったとかなんとか言っていますが、龍馬の生き方は総司とまったく同じですが? なんなの、自己肯定なの? 気味悪いよ。そんなことに仮託しなくても女は図太く生きていきますよ?

 そして何故龍馬を斬るのかがまったくもってわかりません。それが時代に対してどういうことだったとしようとしているのかも見えないし、だから幕切れにフランス革命の勝利の女神の絵を模したものを降ろしてみせた意図も皆目わかりません。不愉快。一緒にすんなって感じ?

 みんな絶対キャストと音に聞こえたこのタイトルとにだまされてチケットを買ったんだと思いますが、正確にはどう評価されているのか、新聞評などを読むのが怖いような楽しみなような、です。
 もしかして高次の解釈とかがありえるのかもしれませんが、少なくとも私にはできませんでしたし、そんな自分を卑下する気も毛頭ありません。おしまい。
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