goo blog サービス終了のお知らせ 

駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇雪組『心中・恋の大和路』

2022年08月10日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアター・ドラマシティ、2022年7月23日16時。
 日本青年館ホール、8月10日15時(大楽)。

 大坂の飛脚問屋・亀屋の忠兵衛(和希そら)は、大和の新口村より養子に入り、今では当主として差配を振るっている。しかし新町の遊郭・槌屋の梅川(夢白あや)と馴染みになってからというもの、梅川恋しさに槌屋に通い詰め、できることなら梅川を身請けしたいとまで考えるようになっていた。だが遊女の身請け金など、とても一介の商人が用意できる額ではない。だがある日、他の客が梅川の身請け金の手付金を納めてしまったことを知った忠兵衛は…
 原作/近松門左衛門、脚本/菅沼潤、演出/谷正純、作曲・編曲/吉﨑憲治。近松の代表的な世話もの『冥途の飛脚』を原作にしたミュージカル、1979年初演。全2幕。

 本当なら青年館でも観られる予定で、そのあとに感想をまとめるつもりだったのですが、チケットを持っていた回までの中止が発表されましたので、泣く泣く書いております…
 と書いたところ、その後中止期間が延長され、さらにその後東京公演再開と追加公演開催が発表され、でも友会抽選には外れ、でも当てた後輩が誘ってくれて、なんと大楽を観劇することができたのでした。これでバースデーれいまど観劇が吹っ飛んだ悲しさが多少は紛れました…
 全回のえりあゆ版を観たときの感想はこちら。他にOG公演や、汐風幸主演のときも観ています。

 例によっていい感じに細かいところを忘れて観たわけですが、まあもう開演アナウンスがヤバいワケです。そらなのに、そらのめっさええ声なのに、妙にはんなりしている。そのはかなさがもうヤバい、と絶望感を早くも漂わせ始めているのでした。
 そして『心中』といえばラストの雪山の舞台装置が有名かな、印象深いかなと思うのですが、私はこのプロローグ(正確には「第一場 街道」)の怖さがハンパなく思えて、この作品のむしろ白眉だなと感じました。抽象的で、象徴的な場面でもあります。そしてそらの歌はめっさええ声でめっさ上手く、しかしもう幽玄で力がなく、ヤバいワケです…
 あとはもう、どちらかというと単純な筋を追っていくだけの舞台なのですが、もうそのどうにもならない感じがホントしんどい筋立てなのでした。ま、2幕は演劇的にちょっとユーモラスだったり、おもしろいところもありますけれどね。
 しかしそら忠兵衛の幼さというかはんなりゆうるり無頓着な明るさ、弱さ、だらしなさ、頼りなさはちゃんと意味があって、それは夢白ちゃん梅川の幼さ、あどけなさ、いとけなさと綺麗に対応しているのでした。彼らがどんなふうに出会ってどんなふうに恋に落ち、今どんな恋をしているのかはほとんど描かれていません。だから観客にはわからないし、「それこそが本物の恋だよ! 貫けるよう応援するよ!!」みたいな気持ちにも実はなりにくい。その意味でも、ある種、ホントしょーもない話ではあると思います。
 ただ彼らはこのしんどい状況の中で、ただ寄り添い震え、どうすることもできずに抱きしめ合っているだけです。その幼さ、たわいなさは、もっと以前に、あるいは誰かが、周りが、なんとかしてあげられなかったの?とも思うのです。でもそういう部分も特に描かれることもなく、お話はただ転落へ、破滅へ向けてゴロゴロと転がっていく…そういう、恐ろしい舞台です。
 よくよく考えると、忠兵衛は養子だそうで、それは妙閑(千風カレン)が石女だったかはたまたその夫が種なしだったかのせいなんだろうけれど、なので妙閑がなさぬ仲の息子とどうもなじめず、折り合いが悪く、なんならいじめめいた折檻をしていたらしい…というのは、まあわからなくはないし仕方ない気もします。でも家業の跡を継がせるためにもらった子供なんだから、最低限の教育はしなきゃ駄目でしょう。そりゃ仕事自体は、伊兵衛(真那春人)始め優秀な番頭がつつがなくやっていくものだから、主人の役目は体面を保って店に座り、仲間との寄り合いに顔を出し、適当に釣り合う嫁をもらって跡継ぎをこさえることだけなんです。それさえやってくれればあとはどう遊ぼうと崩れようと実はなんとでもなる。なんなら店の金に手をつけてもかまわないわけで、番頭や手代たちに給金が払えなくなろうと店の儲けは主人のもので、自由にしていいっちゃいいのです。
 だが、客の金に手をつけることは許されない。それは店の金ではない、ただの預かり物で、運ぶことを依頼されている物で、他人の財産です。そのことだけは、たとえどんな折檻をして身体に言い聞かせることになろうと、教えておかなくちゃならなかった。それが商人の世界でしょう。
 でも忠兵衛は、グレたとかスネたとかいった悪いヒネ方はしなかった代わりに、何事についてもきちんと深く考えることをしない、ほややんとした若者に育ってしまったのでしょう。親友の八右衛門(凪七瑠海)にも、それはどうしても正せなかった。だから、そら可愛いかもしれないけどなんとなく出会っただけのただの遊女に入れ揚げ、のぼせ上がり、封印切りをしてしまった…それだけの、いたってアタマの悪い話なのでした。情熱が故の、とか真の恋のなんとかの、とかいった人生の真実みたいなことは別になくて、ただ愚かで幼いだけのお話なのでした。
 でも、しただけのことの責任は取らなくてはいけない。それで彼らは大和路を行き、雪山に入る。別にハナから心中を考えていたわけではないのではないかしらん、とは思います。といってなんとかなる、という希望を抱けていたとも思えません。そして具体的に展望についてはほぼ、ない。彼らはただ愚かで幼くて、深くものを考えられないままに行き当たりばったりに逃げていて、それでただ雪路に遭難しただけなのでしょう。永遠の愛がどうとか真実の恋がどうとか、そういうことではないんだと思います。でも、周りの人間はそう歌うしかない。それが、八右衛門や与平(諏訪さき)の絶唱に表れているんだと思います。そういう物語なんだと思います。
 別に泣けないわけではありませんでした。特にゆうちゃんさんが卑怯なまでに上手いので、孫右衛門(汝鳥伶)とのくだりなんかはそりゃ胸に迫ります。でもやはり全体としては愚かしい話だなと思うので、その愚かしさ、幼さをいじらしい、愛しいとも思うんだけれど、うーんなんかもっと違う生き方あったろう、命を大事にせんかい…とかどうしても言いたくなってしまうのでした。
 あとは、歴史的な事実として、いわゆる遊郭なるものが存在したことは確かなんだけれど、それは要するに人身売買、しかも特に若い女性、の場所でありシステムであり、買春の場でありシステムなのであって、そりゃストックホルム症候群ではない色恋もあったかもしれないしなきゃやってらんなかったのかもしれないけれど、でもやはり遊女と間夫の真実の恋とかなんとかいうフィクション、物語をいつまでもいつまでも再現して、アリだとしている場合じゃねーんじゃねーのかなー、とかどうしてもアタマの片隅で考えちゃうんですよね。こうした史実は変えられないし、検証も反省もしていかないといけないんだけれど、令和の世になってもまだ是正がきちんとできていないわけで、そんな中でフィクションとして消費し続けている場合なのか、という気がしてしまうのです。せめてそういう物語はもういっさい扱うのをやめる、だって嘘だから、醜悪な事実を隠蔽するためのただのおためごかしだから…という認識をしっかり持つことにする、そしてどんなに当たりそうでも儲けられそうでも紅涙を絞れそうでももうやらない、と強い覚悟を持つ、みたいなことがそろそろ求められているのではないかしらん…とか思ったのですよ。まして女性の女性による女性のための宝塚歌劇では、なおさら。それか、逆説的に、宝塚歌劇でなら、百歩譲って女性が演じているのでまだ容認できないこともないけれど、外部では、リアル男性が演じるのは、もうつらい、しんどい…となっているのではないかと思います。
 だから、名作かもしれないし財産かもしれないけれど、これを最後の再演とする、としてもいいかもしれませんよ? 実際、このテンポやこの演出、今のホントのヤングな観客にはどう映っているんかいな、とかちょっとヒヤヒヤしたりもしましたしね…いや生徒はホント緊密ないい芝居をしていたと思うんですけれど、でもホントもう、そもそも論として、という話です。買春ダメ絶対、ってちゃんと男性が本気で考えるようになって初めて、過去にこんなことがあってそこにこんな恋物語が咲くことがあってね…というフィクションが成立しうるのではないでしょうか。今、まだ、全然ダメでしょ。買春議員ひとり、自認させられないくらいのゆるさなんだしさ。パパ活ってなんだよ、パパとかおこがましいんだよヒヒオヤジが…

 さてしかしホント生徒に罪はなく、そらはそらホント上手いです。夢白ちゃんも、いい役作りだったと思います。
 一方、艶やかな大輪の花として大門から去るかもん太夫(妃華ゆきの)の押し出しも素晴らしい、さすが雪娘上級生! そしてりなくるが可愛かったので私は満足です。
 抑え役に回ったカチャも素敵でしたし、ラスト絶唱は沁みました。すわっちはちょっとキィキィしゃべっているように私には聞こえたけれど、やはり手堅かったですよね。
 ゆうちゃんさん、まりんさんはさすが。まなはるもホント上手い、二役もよかった。あと一禾くんが専科かな?みたいな出来で見事でした。2幕に娘役ちゃんたちが歌う場面がたくさんあるのもよかったです。

 この作品のカーテンコールは伝統的に主演ふたりがお辞儀して終わり、だけとされていましたが、今回の東京公演3回ではいずれも3回のカテコがあり、そのうちの2回目に全員が整列して、カレンちゃんとそらのご挨拶が入るようになりました。大楽はそのあとスタオベになったので、そらが下手袖から緞帳前に出てきてご挨拶してくれました。そのとき明かしてくれたのは、これが谷先生のご厚意というかご配慮で、こんな状況でもあるし、「みんな好きなだけ顔見せてこい!」みたいになったんだそうです。素敵なことですね。伝統や先例にこだわりすぎない、ありがたい措置だったと思います。ファンも嬉しかったことでしょう…
 また、『カルト・ワイン』での反省を汲んで、収録カメラも入っていたようで、大楽上演中にディレイ配信が発表されました。そのあと、スカステ放送や円盤化もあるのではないかしらん。3番手主演作まで円盤化するようにしたようですしね。
 東京まで収録チームを寄越すことや、ライブ配信、ライブ中継なんかは手間暇や経費に比べて収支は全然見合わないとも聞きますが、ファンの裾野を広げていることは確かだし、がんばって続けていってほしいと思います。舞台は生が一番、なのはもちろんなんだけれど、記録としても映像が残ることは本当に大事なことでしょう。なので『カルト~』が本当になんともなっていないなら、ゼヒとも再演を…でもチャボがいないかもしれないけど、ううぅ…

 次の集合日や、大劇場初日前にはひらめちゃんの後任も発表されて、雪組もまたひとつの時代の移り変わりを経験することになるのかもしれません。疫病の余波はまだまだ続くでしょうが、どうぞなるべくご安全に、健康第一で、その中でみんなが幸せでいられますように…私も自分にできることはしつつ、いつ罹って自宅療養する羽目になってもいいよう喉飴だのゼリーだのスポドリだのを蓄えつつ、日々萌えに悶えて免疫力を上げたいと思っています。みなさまもどうぞお気をつけて、良きお盆をお迎えください。











コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 八月納涼歌舞伎第一部『新選... | トップ | こまつ座『頭痛肩こり樋口一葉』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

観劇記/タイトルさ行」カテゴリの最新記事