シアタートラム、2019年2月27日18時半。
資産家の恵三郎(鶴見辰吾)は己の財産を管理することを一番に考え、一家の主としては妻・律子(中嶋朋子)を自分の人形のように扱い、子供たちには一定の距離を置きながら家族を厳しく支配しようとしている。病に伏している娘の郁子(岡本玲)は、母・律子が父の呪縛から逃れて自由に生きるために父親の殺害を企んでいると思い、愛する兄・勇(林遣都)に母を殺させようとする。この家に同居する恵三郎の従妹の信子(栗田桃子)は、郁子を献身的に看病しつつも、冷静に家族四人の動向を見つめる…
作/三島由紀夫、演出/小川絵梨子、美術/香坂奈奈、照明/松本大介、音楽/阿部海太郎。1960年文学座初演。全2幕。
フランスでこんなような事件が実際にあったと聞き、またアイスキュロスの『オレスティア』三部作や千夜一夜物語の墓穴の中の兄妹の物語などを踏まえて、日本に移し、生活上のリアリズムはすべて除去して書いたもの、だそうです。
天才か、三島。イヤ天才なんだけどさ。
いやぁ、怖かったすごかったおもしろかった、脳味噌フル回転で心ぐわんぐわん揺さぶられました。お耽美ではなく難しい話でもないです。ただ芳醇で詩的な台詞に飲み込まれ、上手い人しかいない役者陣の的確な演技に押し流され、抽象的なようで変幻自在な装置が作り出す時空間に酔い、圧倒され揺さぶられまくりました。どうなるんだどうするんだどうオチるんだ、とワクワクしながら見守ってしまいました。
結論から言うと、私はラストはちょっと明るすぎるな、と感じました。私が暗く重い話が好きだから、というのはあるけれど、もっと虚無と絶望に満ち満ちたふうに仕上げてもよかったんじゃないのかしらん。子供たちが去られた親たちに未来などない、もう何も産み出せず、熱帯樹の陰で朽ちていくことしか残されていない。もしかしたらそれで新たな関係性をこの夫婦は作り上げるのかもしれないけれど、そしてそれはそれで幸せになりえるのかもしれないけれど、だったらなんかもっと病んだ、膿んだ、どろりとしたものに仕立ててもよかったと思うのです。
同様に、自転車で海へ去って行った子供たちの方にも未来はない。郁子の命は遠からず尽きるでしょうし、そうしたら勇は家に戻らざるをえないのかもしれない。そんな彼を、夫を殺してひとりになった律子が迎えるのかもしれない。男と女がいる限り、その物語は終わらないのかもしれない…
そういう恐ろしさをもっと暗示して終わってもいいんじゃないのかなー、と思ったりしたのでした。なんかわりと明るくあっさり終わったように私には思えたので…
しかし夫婦に一男一女といういたって一般的な家庭のはずが、全然家族になっていないこの家はどうなんだ。男に金とはまさに豚に真珠で、恵三郎に財産があったのがすべての諸悪の根源かなと思いました。金持ちのくせして吝嗇ってのがまた害悪ですよね、まあそうでないと蓄財できないんだろうけどさあ。経済的に縛ることで家族を支配していい気になっている家長の男…いやぁしんどいわ。死ねばいい、とまでは言わないけれど、そりゃ家族が殺したくなるのもわかりますよ。貧しいながらも楽しい我が家に育った一男一女の片割れとしては、自分の境遇のありがたさに安堵するのでした。
うちとは全然違う、異常な家庭。家族ではなく二組の男と女になってしまっている家。でもあるあるというか、ある種のリアリティはちゃんと感じられるのです。それが怖い。「官能のリアリズムと精神のリアリズム」があるからです。こんな人間と台詞と物語を描き出してししまう三島が怖い。すごい。天才。またここに戻る…
『サド侯爵夫人』も大好きですが、これもまた機会があれば演出や役者違いでまた観てみたい戯曲だな、と思いました。あと、読んでみたい。
ところでこれは勇が主人公の話なのかなあ。単に林遣都が配役されているからそういうクレジットになっているだけかなあ。一幕も二幕も郁子のモノローグから始まるのだし、病に伏した彼女が育てた妄想(とは限らないところがまた恐ろしいのではありますが)が物語を突き動かすので、むしろ主役は彼女なのかもしれません。
ただ、冒頭、岡本玲の語りはあまり上手くないなと思い、林遣都が加わって兄妹が語り出しても妙に早口で覚えていることを忘れないうちにしゃべってししまおうとしているようで、でも栗田桃子が出て中嶋朋子が出て俄然舞台がおちついたしみんながその役にしか見なくなりましたよね。こんなふうにしゃべる人間は実際には存在ししないんだけれど、台詞がちゃんと彼ら彼女らの思っていること、口に出している言葉に思えるんですよね。本当にすごい…
日本では上演機会があまり多くないらしく、むしろフランスでよく上演されているそうです。それもまたわかる気がするし、おもしろい。プログラムもとても素敵でした。いい舞台、いい観劇でした。
資産家の恵三郎(鶴見辰吾)は己の財産を管理することを一番に考え、一家の主としては妻・律子(中嶋朋子)を自分の人形のように扱い、子供たちには一定の距離を置きながら家族を厳しく支配しようとしている。病に伏している娘の郁子(岡本玲)は、母・律子が父の呪縛から逃れて自由に生きるために父親の殺害を企んでいると思い、愛する兄・勇(林遣都)に母を殺させようとする。この家に同居する恵三郎の従妹の信子(栗田桃子)は、郁子を献身的に看病しつつも、冷静に家族四人の動向を見つめる…
作/三島由紀夫、演出/小川絵梨子、美術/香坂奈奈、照明/松本大介、音楽/阿部海太郎。1960年文学座初演。全2幕。
フランスでこんなような事件が実際にあったと聞き、またアイスキュロスの『オレスティア』三部作や千夜一夜物語の墓穴の中の兄妹の物語などを踏まえて、日本に移し、生活上のリアリズムはすべて除去して書いたもの、だそうです。
天才か、三島。イヤ天才なんだけどさ。
いやぁ、怖かったすごかったおもしろかった、脳味噌フル回転で心ぐわんぐわん揺さぶられました。お耽美ではなく難しい話でもないです。ただ芳醇で詩的な台詞に飲み込まれ、上手い人しかいない役者陣の的確な演技に押し流され、抽象的なようで変幻自在な装置が作り出す時空間に酔い、圧倒され揺さぶられまくりました。どうなるんだどうするんだどうオチるんだ、とワクワクしながら見守ってしまいました。
結論から言うと、私はラストはちょっと明るすぎるな、と感じました。私が暗く重い話が好きだから、というのはあるけれど、もっと虚無と絶望に満ち満ちたふうに仕上げてもよかったんじゃないのかしらん。子供たちが去られた親たちに未来などない、もう何も産み出せず、熱帯樹の陰で朽ちていくことしか残されていない。もしかしたらそれで新たな関係性をこの夫婦は作り上げるのかもしれないけれど、そしてそれはそれで幸せになりえるのかもしれないけれど、だったらなんかもっと病んだ、膿んだ、どろりとしたものに仕立ててもよかったと思うのです。
同様に、自転車で海へ去って行った子供たちの方にも未来はない。郁子の命は遠からず尽きるでしょうし、そうしたら勇は家に戻らざるをえないのかもしれない。そんな彼を、夫を殺してひとりになった律子が迎えるのかもしれない。男と女がいる限り、その物語は終わらないのかもしれない…
そういう恐ろしさをもっと暗示して終わってもいいんじゃないのかなー、と思ったりしたのでした。なんかわりと明るくあっさり終わったように私には思えたので…
しかし夫婦に一男一女といういたって一般的な家庭のはずが、全然家族になっていないこの家はどうなんだ。男に金とはまさに豚に真珠で、恵三郎に財産があったのがすべての諸悪の根源かなと思いました。金持ちのくせして吝嗇ってのがまた害悪ですよね、まあそうでないと蓄財できないんだろうけどさあ。経済的に縛ることで家族を支配していい気になっている家長の男…いやぁしんどいわ。死ねばいい、とまでは言わないけれど、そりゃ家族が殺したくなるのもわかりますよ。貧しいながらも楽しい我が家に育った一男一女の片割れとしては、自分の境遇のありがたさに安堵するのでした。
うちとは全然違う、異常な家庭。家族ではなく二組の男と女になってしまっている家。でもあるあるというか、ある種のリアリティはちゃんと感じられるのです。それが怖い。「官能のリアリズムと精神のリアリズム」があるからです。こんな人間と台詞と物語を描き出してししまう三島が怖い。すごい。天才。またここに戻る…
『サド侯爵夫人』も大好きですが、これもまた機会があれば演出や役者違いでまた観てみたい戯曲だな、と思いました。あと、読んでみたい。
ところでこれは勇が主人公の話なのかなあ。単に林遣都が配役されているからそういうクレジットになっているだけかなあ。一幕も二幕も郁子のモノローグから始まるのだし、病に伏した彼女が育てた妄想(とは限らないところがまた恐ろしいのではありますが)が物語を突き動かすので、むしろ主役は彼女なのかもしれません。
ただ、冒頭、岡本玲の語りはあまり上手くないなと思い、林遣都が加わって兄妹が語り出しても妙に早口で覚えていることを忘れないうちにしゃべってししまおうとしているようで、でも栗田桃子が出て中嶋朋子が出て俄然舞台がおちついたしみんながその役にしか見なくなりましたよね。こんなふうにしゃべる人間は実際には存在ししないんだけれど、台詞がちゃんと彼ら彼女らの思っていること、口に出している言葉に思えるんですよね。本当にすごい…
日本では上演機会があまり多くないらしく、むしろフランスでよく上演されているそうです。それもまたわかる気がするし、おもしろい。プログラムもとても素敵でした。いい舞台、いい観劇でした。
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