駒子の備忘録

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『風と木の詩』再読

2021年04月30日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 萩尾望都『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)を発売日に買って読み、2016年刊行時に買って読んでいた竹宮惠子『少年の名はジルベール』を再読し、今年3月に出ていたことを知らなった竹宮惠子『扉は開くいくたびも-時代の証言者-』(中央公論新社)も買って読みました。
 この時代の少女漫画読者として(私は両先生の20歳ほど歳下なので、彼女たちが25歳のころ描いたものをその10年後に15歳で読んだ勘定です)、いわゆる「大泉サロン」のことはもちろん知っていて、でも個人的には、あくまでたまたまのエピソードにすぎないのではないか、とずっと思っていました。世間で言われているほどには当人たちがあまり言及しない気がするのは、それこそたまたま上京や引っ越しの都合で同居していた時期があり、そしてまたたまたま別れた、というだけのことであって、もちろんみんなの溜まり場になったりして切磋琢磨かつ和気藹々とした青春の1ページだったんだろうけれど、それだけのことでことさらなことではなかったのではないか、と思っていたのです。竹宮先生はともかく、萩尾先生の方はその後そもそも一切言及していない、ということに私は気づかなかったくらいでした。当時の作品の端の近況欄やエッセイ漫画にちょいちょい描かれていて、それが収録されたコミックスを私が未だに何度も再読しているからかもしれません。
 今回の刊行情報などから、何か「事件」があったということなのだな、とは察せられました。で、これまた個人的には、盗作騒ぎか、色恋のもつれか、パワハラ騒ぎだろうな、と思っていました。最後のものは、その後もこのあたりの漫画家さんはみんな同じ版元の似た界隈の漫画誌編集部で仕事をしていることを考えると、いかに当時口の悪い傲慢な男性編集が多かった業界でなんらかの問題はあったにせよ、今さら告発するようなことはないのかもしれないな、と思うようになりました。同様に、アシスタントさんだったり漫画家仲間だったりで男性の出入りも多少はあったように聞いていますが、恋愛だの惚れた腫れたのというのはちょっとイメージできなかったので(失礼…なのか?)、これもないなと思いました。
 で、事実は…お読みいただいたとおりのものだったようです。
『一度きりの~』はとてもモーさまっぽい文章で、『少年の名は~』はとてもケーコたんっぽい文章ですよね。おそらくゴーストライターを入れずに、当人たちがきちんと執筆したものなのではないでしょうか。とても性格というか、人となりが出ています。そして要するに、両者とも同じことを書いているな、と思いました。それぞれからすると、そうなるよね、という感じがした、ということです。
 ただ、竹宮先生の本の方には、『扉は~』もそうですが、萩尾先生に「なぜ、男子寄宿舎ものを描いたのか?」と尋ねたことはまったく書かれていません。ただつらくて距離を置くようにした、というだけになっています。忘れてしまったのか、なかったことにしたいから触れないことにしているのか、今は疑問が解消されているからもう言及しないことにしたのか、は、わかりません。
 私は『ポーの一族』も『トーマの心臓』も『風と木の詩』もリアルタイム読者ではなく、少し遅れてコミックスでまとめて読んだ世代ですが、当時も今も、モチーフは同じっちゃ同じだけれど全然違う作品だし、それぞれに傑作だとずっと思ってきました。それで言えばたとえば『地球へ…』と『スター・レッド』あたりも迫害されるESPみたいなモチーフは同じなんだけれど、それこそ彼女たちがインスパイアされたのだろう50年代アメリカ黄金期SFを私も読んで育ったので、当時の作品はそんなんばっかだったことを知っていますし、そこから触発されたののだろうからネタが似るというか同じなのは当然で、でもそれぞれ全然違う作品に仕上がっていて、だからこそその個性や才能が素晴らしいんじゃん、とずっと考えてきていたので、気になったことがありませんでした。
 寄宿舎という設定自体はむしろノンたんが提示したものなのでしょう。アイディアには著作権はないのだけれど、カブリが心情的に承服しかねる、というのは人の心の動きとしてはもちろん理解できます。ただ、そこからできあがったものが全然別物でそれぞれに傑作なんだから、いいじゃんねえ…とか、一読者一ファンとしては気楽に考えていたわけです。でももちろん作家側はそんな気楽なものではないのだろうし、当時は先生方も若くて、いろいろ悩みもがき苦しみながら執筆していただろうので(それは今もかもしれませんが)、気になる、気にする、気に障る、ということはあったのだろうな、とも思います。田舎から出てきて、やっと出会えた同好の士と仲良くやれていたつもりだっただけに、それはショックだったことでしょう、とも思います。
 ともあれ、なのでもうこれはこれで、ということで、以後外野が口を出したり触ったりすべきものではない、ということだなとは思います。
 ただ私が気になったのは、『一度きりの~』の書評というか感想などを読んでいくとたいてい、『少年の名は~』の方も読みたいが、竹宮作品をそもそも読んだことがないので…みたいなことが言われていることでした。確かに竹宮先生は直近20年は大学で漫画を教える仕事に就いていて、いわゆる第一線の漫画家さんとは言えないでしょう。一方で萩尾先生はずっと作品を発表し続けていて、近年は『ポーの一族』の新章スタートや舞台化なんかもあったりして話題にもなったので、若い、新しい読者が増える余地があったのでしょう。でも当時は竹宮先生の方が人気…とか評価が高い…というのもちょっと違うかもしれませんが、やはり『風と木の詩』のセンセーショナルさとか衝撃って大きくて、こういう話題のときに先に名前を挙げられがちだったと思うのです。なので、今はあまり読まれていないのか…と思うと、とても残念に感じました。まあ今や紙コミックスは文庫しか動いていないでしょうしね…電子化はされていると思うのですが、近作に合わせてキャンペーンが組まれたりするから、現役でないと露出されづらい、というのもあるのでしょう。私も未だ愛蔵しているのは『ファラオの墓』と『風と木の詩』『変奏曲』だけなのですが、一時は選集も持っていましたし、『地球へ…』も『私を月まで連れって!』も持っていました。『イズァローン伝説』も『天馬の血族』も読みました。
 そんなわけで久々に『風木』を読んでみました。多分小学校高学年のときに途中まで古本屋でまとめて買って、最後の数巻はリアルタイムで新刊で買っているんだと思います。手持ちのコミックスは8巻以前のカバーがPP貼りされていなくて、背とかが分解しそうに傷んでいるので、怖くて大事にしていてあまり触りたくないくらいなのでした。まあ暗記しているくらい読み込んでいて、すでに私の血肉になっていますしね。
 でも、今回久々に読んでみて、安心しました。やっぱり名作だと思えたので。
 モーさまが『ヴィレンツ物語』と言っている『変奏曲』は(なので本当に読んでいなくて、このタイトルでシリーズ化されコミックス化されていることも知らないのだと思います)、今読むとページ数の問題なのか漫画としてはかなり稚拙というか、構成が良くなくて読みづらく、またお話が中断されている形になっているのでもったいない出来の作品なのですが、『風木』は週刊連載ということもあってある程度ゆっくりたっぷり描けているのか、そういう窮屈さはまったくありません。
 そして、読めばわかります。寄宿舎が舞台というのは同じでも、『小鳥の巣』や『トーマの心臓』とは全然違う作品だ、ということが。描線の方向性も、イメージの描かれ方も、ポエムめいたネームの置かれ方も全然違う。愛や、神や、社会の描かれ方も違う、女性キャラクターの描かれ方も。あたりまえなんです、作家としての個性が全然違う。そしてふたりとも天才なんですから。
 愛蔵コミックスとして以前書いたものはこちら
 ちなみに『扉は~』は聞き書きなので文体は当人のものではないですが、幼少期から現在に至るまでの包括的な半生記としてとてもおもしろく読めました。そして両先生は、性格の違いもあるけれど、家庭環境も似て非なる…という感じだったんだろうな、とも改めて思いました。ともに戦後の昭和の、田舎の、堅めの家庭の育ちで、女の子が大学なんて、とか東京で働くなんて、漫画なんて、と言われて育ったようですが、抑圧具合がだいぶ違う印象を受けました。それが『紅にほふ』を描くか『残酷な神が支配する』を描くか、にも表れていたと思います。
 竹宮先生は2020年4月に大学を退職したとのことですが、まだまだお元気そうだしデジタルにもチャレンジしていて好奇心旺盛、血気盛んといった感じですし、こういう人が政府のクールジャパンの仕事とかをするといいのではないかしらん、とも思ったりしました。お話を描きたい感じはなさそうかな、とも思ったので…でもわかりませんね、まだまだお若いですものね。
 とりあえず選集を復刊させたりは、できないものかなあ…ホント、読まれなくなってしまうのはもったいないです。人の死のひとつに忘れられることがあるのだとすれば、作品が読まれなくなることは作家の死のひとつなのでしょうから。

 というわけで、『風木』ですが、改めて、BL漫画では全然ないな、と思いましたね。
 当時まだそういう言葉ががなかったから、というのももちろんあります。でもなんか、精神性というか、在り方、スタンスがそもそも全然違う気がしました。
 この作品のあとに出てきたBL作品って、今はまたちょっと違うものもあるかもしれませんが、でも基本的には女子の女子による女子のためのもので、その女子ってのは要するにシスヘテロ女性のことであって、だけど描き手にも読者にも自分の女性性にある種の忌避感があったりして、それで男女のセックスの代替として男性キャラクター同士の性愛描写がされる…のがほとんどなのではないか、と私は思っています。それは体位とか体勢とか身体の描かれ方に表れている。だから読むと濡れる。そういうふうに愛されたい、という思いが反映されていて、それに感じるからです。
 でもこの作品は違う。そしてあえて言おう、やはり少年愛漫画である、と。BLのようにほとんど様式化される以前のものだから、というのもあるかもしれませんが、絡み方とか、身体の描き方とかが、そういう狙いで描かれたものではないと感じるのです。何より、みんなほとんど子供みたいな身体なんですよね…だから痛々しさの方が勝つ気がする。その意味でも萌えない。
 でも、そういう時期の人間、つまりそういう「少年」を描く作品なのです。そしてこういうふうに育てられてしまったジルベールに、こういう人間であるセルジュが出会って、惹かれてしまったときに、性愛は開かれざるをえない扉だったのでした。だから当然、意味のある描写です。
 人間には心も、頭脳も、魂もあるけれど、同時に身体もあって、それから逃れることはできなくて、恋をすれば胸が高鳴るけれどお腹は空くし喧嘩すれば血も流すし、そして社会に出れば働いて稼がないと食べていけない。そういう人間の真実を描いている作品です。漫画を評価するときに「文学的」みたいな言葉を使うのってどうなのよ、とは思いますが、『トーマ』の文学性とはまた違ったそれを、この作品にも感じます。だってひどい話だもん。全然女子供の甘くロマンチックなラブストーリーなんかじゃない。とてもシビアなお話です。青春の蹉跌、なんて言葉ではすまされない展開、結末を辿るお話です。でもだからこそ真実です。そして確かにそこに愛はあり、ジルベールは生きていたのです。
 ものすごくよくできたお話だと思います。一晩でできたようなことを竹宮先生は言っていましたが、それはどこまでのことだったのでしょうね。最後はけっこう巻いて描いたみたいなことも言っていましたが、そんなこともないかなあ。とても綺麗に完結していると思います。その後の構想もあるようなことも言っていましたが、セルジュのその後なんてそれはもう別のお話だから、これはこのままでいいのでは…と私は思います。『変奏曲』とは違うのですから。強いて言えば、私はロスマリネとジュールは好きだったので、掘るなら彼らのその後あたりとか? オーギュのその後とかもどーでもいいよね(笑)。
 やはり時代を画す名作、金字塔だと思います。今はあまり読まれていない、というのはいかにも惜しい。未だ決して古びていない作品だと思いますし、『ポー』が読みにくかったという層にもこの作品は漫画としてはいたって読みやすいものだと思います。児童虐待描写がしんどい、というのはあるかもしれませんが…古典として、教養として、そして今なお解決されてない問題を描いた作品として、読み継がれていってほしいなと思います。なので私もことあるごとに言及していこうかな、と改めて思ったのでした。





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