駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ジキル&ハイド』

2023年03月25日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京国際フォーラムホールC、2023年3月23日18時。

 1888年秋、ロンドン。医者のヘンリー・ジキル(この日は柿沢勇人)は「人間の善と悪とを分離する薬」の研究に身を捧げてきた。それは精神を病み、心をコントロールできなくなった父のため、ひいては科学の発展と人類の幸せにつながるという強い信念に突き動かされてのことである。しかし、婚約者エマ(この日は桜井玲香)の父ダンヴァース卿(栗原英雄)や親友のアターソン(この日は上川一哉)からは、神を冒涜する危険な理論だと忠告される。研究の最終段階である薬の人体実験の許可を得るため、ジキルはセント・ジュード病院の最高理事会に臨むが、理事会のメンバーである上流階級の面々によって要求は棄却されてしまい…
 原作/R.L.スティーブンソン、音楽/フランク・ワイルドホーン、脚本・詞/レスリー・ブリカッス、演出/山田和也、上演台本・詞/高平哲郎。2001年日本初演、八度目の上演。全二幕。

 なんと私はちゃんと日本初演を観ていて、そのときの感想はこちら。マルシアはこのときが初舞台だったんですね、そのルーシーがよかったことしか覚えていない…なのでその後何度も上演されているのは気づいていましたが、食指が動かん…と静観していました。鹿賀丈史のあとを継いで12年から主演している石丸幹二が今回でファイナル、そしてダブルキャストでカッキー登場、ルーシー(真彩希帆)にはきぃちゃん登場というので、久々に観てみる気になりました。
 というわけでもちろんお話は二重人格設定(?)部分以外はすっかり忘れています。というか今さらですが「時が来た」ってこんな位置にある曲だったんですね…! つまり「自分で人体実験するときがキター!」って歌だったのか、なのにこんなに晴れやかなのか、グランドフィナーレにふさわしいような曲だけど…!?とちょっと、だいぶおもしろくなってしまいました。でもカッキー初日にここはまさしくショーストップとなったそうですね。さすがダンシング塩タクター(指揮/この日は塩田明弘。カッキー初日担当は違っていたらすみません…)、粋な計らいで次の音楽をちゃんと待ったのでしょう。次の音楽がない場面だったらすみません…
 つまりこんな状態で観たので、一幕はだいぶ、退屈したとまでは言わないけれどかなり冗長に感じました。私は芝居が観たいタイプなんだなー、としみじみ思いました。なのでワイルドホーン・オペラとは相性が悪いのかもしれません。大曲揃いで話がなかなか進まないので、私はちょっとイライラさせられちゃうのでした。
 オペラは、もちろん新作も作られていますが多くは古典で、ストーリーもごく単純で少なくともファンはみんな知っていて、だからキャストの歌唱の技量を楽しみに観に行くようなところがあるじゃないですか。歌舞伎の古典の鑑賞のされ方に近い。だから歌詞が二番も三番も繰り返しで話が全然進まない歌でも、朗々と歌い上げるのを何分でもそりゃ聴きますよ。でもミュージカルはそうじゃなくない? スティーブンソンの小説『ジキハイ』自体は古典だと言ってもいいと思うんですよ、でもこのミュージカルは初演からたかだか30年くらいしか経っていないものでしょう?(プログラムに初演に関する記載がありませんでしたが) ルーシーもエマ(この日は桜井玲香)もこのミュージカルのオリジナルという、ジキハイの設定を使った全然別の物語です。だったらもっと初見のお客さん相手にストーリーを見せる構成にしないと、飽きられちゃうんじゃないの?と感じたのでした。今流行りのタイパ云々なんていう気はないけれど、セットチェンジや誰かの着替えの時間を捻出するためというならまだわからなくもないけれど、そういう事情もないのに同じことを何番も繰り返して歌わなくてもいいよこの曲のことはもうわかったよ次に行こう、とちょいちょい思いました。全体で休憩込み3時間というのも今どき長いと思いますしね。もっとタイトにシャープにコンパクトに構成してくれていいのよ、なんなら同じ尺でも曲をカットして浮いた分を芝居に当ててくれてもいいくらいだよ、なんならこのストプレ版を観たいくらいだよ、と私なんかは考えるのでした。それくらい、やはり古典には力があって『ジキハイ』の物語って科学としてはトンデモでも、物語としてすごく強度があっておもしろいし、そこへ持ち込まれたルーシーとエマのダブルヒロインの存在もとても興味深かったので、そこをもっと見せてくれよ、と私は思ったのでした。
 カッキーは石丸さんとはだいぶ年齢も違うし、ジキル像もだいぶ違って作っていたのかなあ? どうなんでしょう、見比べた方にご教示いただきたいです(ちなみに石丸さんが『ハリポタ』と出演スケジュールが被っていて交互に出ている、というのはホント問題だと思います。ホリプロ側が褒めるようなツイートをしたことも醜悪です。そりゃ石丸さんはすごいよ、でも労働環境として劣悪だし本当はクオリティが担保できない事態なのでは? 主催側が容認すべきじゃないでしょう本来は…)。
 カッキーのジキルは若くて、「とても崇高な動機で始め」、「正しいと信じる道を突き進んだ」清廉潔白な若手研究者、というよりは、そりゃ生真面目だけどちょっと神経質で繊細すぎてイラチでなんなら傲慢に見えかねないところもある、世渡り下手な若僧って感じが上手く出ていて、そこが人間臭くていいなと私は思いました。彼は彼自身も含めて人間には善悪に二分される心があり、だから薬で分けて片方をなくすところまでできれば世界平和だ、と考えたわけです。名誉欲とか権勢欲とかはなかったかもしれないけれど、ハナから真っ白、というワケでもないごく普通の青年だった、というところがいいな、と思ったのです。
 でも、当時のブルジョワ以上の階層の男性が普通にする買春行為みたいなことには縁がないタイプで、だからパブ「どん底」みたいなところには初めて行ったし、娼婦のルーシーに対してもハナから見下すような口は利かず、ちゃんと「ハリスさん」と呼んだりする。私が呼称フェチだからというのもありますが、ルーシーもこれは新鮮に感じたろうしときめいたろうと思いますよ! そもそもこの脚本がレアですよ。敵娼の名前なんざ聞かない男がほとんどであろうことを考えたら、丁寧な口は利きつつも「ルーシー」と呼ぶことにするだけで十分というか普通なところを、おそらく原文は「ミス・ハリス」としているということでしょう? この丁寧さ、相手を尊重する優しさ(本来人間としてまったく当然なことなのだけれど、世の男性に望むべくもないこと)が彼の本質だったのでしょう。そこまで落差が出ていないけれど、薬を飲んだあと、ジキルでいるときの彼はより優しい人になっていたのでしょうね。それでルーシーは恋に落ちる。
 ルーシーは、きぃちゃんにそういう色気があまりないというのもありますが、今回は「媚が売れない」「誰よりも少女」な設定のようで、くわしい生い立ちは描かれていませんが幼いころから劣悪な環境で育った女性で、ポン引きみたいな娼婦たちの元締めみたいな男の暴力に常に怯えていて、売春はしていても性的にはまだ全然開花していない(だから自分でも楽しむという方向に走り媚を売り色気を醸す、という域に至っていない)女性のようでした。だからジキルにきちんと応対されても感じるのは恋というよりまずは人としての感動や感謝、信頼、父性への憧れみたいなものなわけです。けれどのちにハイドからもけっこう離れられなくなっちゃってる感じなのは、やはりセックスがよかったってことなんですかねキャー!とかも考えちゃいました私。すんません。そしてそんなん単なる男のドリームやろ、とも思うんですけれどね。エマとの婚前交渉なんてとんでもない時代だし、それで色町通いをしてないとなればジキルは童貞だとしてもおかしくないわけで、ハイドになったからって性豪になれるわけないのです。そもそも男の考えるセックスの上手さ、良さと女のそれって違うし。でももしルーシーがハイドとのセックスはいいと考えていたのだとしたら、それこそハイドがジキルでもある証、つまり相手を尊重し相手が嫌がらない相手の気持ちいいことをしてあげてお互いに良くなるセックスができていたからなんじゃないの?とか私はつい考えてしまうのでした。男はハイドのワルなセックスの良さにルーシーも屈服したのさ、みたいに考えるんだろうけれど、そんなことってないからさ。
 ハイドも要するにジキルのもうひとりの自分であり、人間には善悪両面があるものなのだ、というのがテーマというか結論みたいなこの物語において、ヒロインがふたり用意されているのはおもしろいことです。そして一見、一方は娼婦で一方は令嬢であり、よくある女を娼婦と聖母に二分するパターンにも見えます。けれどルーシーもエマも実はそんな典型的なパターン・キャラではない。ルーシーは境遇というか職業が娼婦でもあまりそういうキャラではないし、一方のエマも天使のような何も知らないお嬢様なんかではありません。これまた経緯が描かれていないのでジキルとどんなふうに出会ったかとかどんな交際をしてきたかとかお互いどこがどう好きでとかは全然わからないんだけれど、彼が病院でもやや浮き気味だったり、父親が娘婿として彼を完全に歓迎しているわけではないこともちゃんとわかっていて、その上で上手く取りなし周りと橋渡しできる聡明な、しっかりした女性です。白痴美人とかではない。その上でとてもチャーミング。このふたりの女性は善悪のシンボルでもないし、どっちが天使でどっちが悪魔とかでもない。たまたま置かれた環境が置屋か屋敷かの違いなだけで、人間としては同等、強いところも弱いところもあるしいいところも悪いところもある、ごく普通の人間、としているんだと思います。女性を過度に聖化したり型にはめ込んで満足していないところがいいですよね。この物語は人間を男女問わずそもそもそういうものだと捉えている。ただ、ジキルには、病気で豹変してしまった父親が、人が違ってしまって見えて、本当に悪魔に心を乗っ取られてしまったように見えて、この善悪が二分できたら、そして悪の部分だけを押さえ込めたら…と夢想してしまった、理想化肌の、ロマンティストだったということなのでしょう。話が長くなりましたが、カッキーからはそういうジキル像が立ち上がって見えました(芝居パートがこんなに少ない作品だというのに!)。それがとてもおもしろくて、よかったです。
 ジキルの周りの男はみんなワルばっかかというとそうでもなくて、親友で弁護士ジョン・アターソンという存在がいてくれるわけですが、これももう一方の石井一孝だとカッキーにはややお兄さんすぎたのではないでしょうか。なので今回の組み合わせで観られてよかったです。もうめっちゃいい人で、なんなのBのLなの?ってくらい世話焼きで、でもこれまた単なる善人ではなくてけっこう気が短いところもあってジキルとすぐ喧嘩になるし、そういうナチュラルさがすごくいいキャラクターでした。最後の最後は、『ファントム』でキャリエールに殺してくれと頼むエリックのような展開になり、そりゃエマにやらせるのはひどすぎるというのもあるのだけれど、まさしくBでLな展開になって終わったのでやはりたぎりました。もちろんジキルは最後はエマの腕の中で死ぬのですけれどね。その前にルーシーはハイドに殺されていて、これもまたかわいそうすぎる気はするんですけれど、これもまた道連れにしたいというハイドの、ひいてはジキルのわがままな愛だったのでしょう。ジキルとハイドは結局はひとりだから、ひとりしか連れて行けない。エマを残すならルーシーを連れていくしかなかったのです…
 と、ことほどさようにかなりドラマチックな物語なので、なんかわりとまっとうすぎて個性を感じられない演出家の手にかかっているせいもあるのかもしれませんが、なんかもっとぐっと手を入れた新演出版が観たい気もしますけれどね!となった観劇でした。楽しかったです。2階前方どセンター席はとても快適でした。
 まあしばらくはこの座組でいくのかなあ、でもジキルはホント出番の多い主役なのでダブルキャストは正解だと思います。甲斐翔真が観劇感激ツイートしていていつかやりたいとつぶやいていましたが、いいと思う! 次回このふたりならまた行きたい、今度は両方観たいです。そしてルーシーのダブルキャスト笹本玲奈はかつてはエマをやっていたというのもすごいけれど、そろそろ卒業して、ここもどんどん若いミュージカル女優さんがやっていくといいと思います。娘役OGもルーシーもエマも余裕でできるでしょうし、お若いうちにやってほしいなあ、これは若者の物語だと思うので。お姉様方はビーコンズフィールド侯爵夫人(塩田朋子)を務めればいいと思うの!
 ジキルの執事プール(佐藤誉)がめっちゃいい声でハッとなりました。ジキルをライバル視しているストライド(畠中洋)もとてもよかったです。セットがスタイリッシュで(美術/大田創)素敵で、照明(高見和義)もとてもよかったなー。プログラムの稽古場写真が楽屋日記調スナップ写真ばかりなのも可愛らしかったです(笑)。
 何よりカッキーが素晴らしく、きぃちゃんが素晴らしかったです。歌える芝居ができる、見た目も良きで素晴らしい! きぃちゃんとしてもお手のものなんかでは全然なくて、歌唱としてもすごくトライしている様子がプログラムでも語られていましたし、実際に舞台でも「現役時代には聴いたことないなこんな歌声!」ってのがあってもうシビれました。ミュージカル女優としてますますバンバン活躍していってほしいです。次は『ファントム』かな? 観られるのかな私…てかこれは『ドリガ』がよかったsaraちゃんを観たいんですよね、ますますいろいろ楽しみです!





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