駒子の備忘録

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福山康治『マドモアゼル・モーツァルト』

2021年05月08日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 限定版、河出書房新社九龍コミックス全1巻。

 音楽座のミュージカルを観たときの感想はこちら
 今度また再演されるというので、久々に読んでみました。
 そもそもは「コミックモーニング」に連載された青年漫画…ということもあるのかもしれませんが、どうにも不思議な作品です。なのでむしろ今度の舞台に期待したい。今上演するということでもあるし、ものすごくフェミニズム的におもしろくなる題材だと思うのです。
 この作品では、レオポルド・モーツァルトの下の子供でナンネル・モーツァルトの下の兄弟は、エリーザ・モーツァルトという女児だった、となっています。次女の音楽の才の気づいたレオポルドは、エリーザの髪を切って男装させ、ヴォルフガング・モーツァルトとして演奏させ、高名な音楽家への道を歩ませます。この子は天才だから。女では宮廷音楽家にはなれないから。ただのクラヴィーア教師にするには惜しいから。彼女の才を羽ばたかせることが神の意志だから…
 かくして、エリーザはもともとお茶目というには度が過ぎるほどやんちゃなおてんばでしたが、「男の子」になってますます野放図になり、けれど音楽の才能はますます花開き、社交界でももてはやされて…と話が進むのはいいんだけれど、エリーザ自身がこの状態というか境遇をどう考えているのか、はあまり語られません。思えば内心を描く、というのは少女漫画に特有のものなのかもしれません。脱線しますが、男性が今話題のセルフケアに無頓着だとか自意識に無自覚なのって、そういう少年漫画、青年漫画を読んで育つからなのでは…とか思ったりもします。
 モーツァルトが群がる女性ファンたちに次々キスなどしてあげてバサバサ捌いていくところなんかは、性自認が男性で性指向は異性愛で、なので男装して女性の相手をすることを苦にしていないトランスジェンダーだからなのである…というようにも、見える。でも、たとえ生まれながらにはそうではなくても、ごく小さいころに異性装を押しつけられて育つと、当人ですら無自覚に誤解したままに育つ…ということもあるのかもしれない…いやそもそもそうした性規範とかは社会から押しつけられがちで当の本人も誤解しがちなもので…とかとか、いろいろ考えちゃうじゃないですか。でも、特に説明とか解説とかがない。
 コンスタンツェと結婚するはめになるくだりも、エリーザ自身は何をどう考えどういう意図で承知したのか、全然描かれません。自分の「夫」に豊かな乳房があるのを見たコンスタンツェは、驚き動揺し騙されたと泣きわめきます。でも、もちろん恥ずかしいとか経済的な事情とかモーツァルト夫人としてちやほやされる立場を手放したくないとかいろいろあってそう簡単に離婚だなどと言い出せないのかもしれませんが、コンスタンツェのそうした胸の内も具体的には描かれません。うーん、なんだかなあ…
 エリーザはサリエリを「お父さん」と呼んで懐くんだけれど、これも本当はどういう意味なのか、が描かれない。本当は、とか意味、とかはない、ということなのかもしれませんが…でもそれじゃ読者は不安になるんですよ、このお話をどう理解・解釈していいかわからないからです。少なくとも私は不満です。
 父親が死ぬとエリーザは男装をやめ、ヴォルフィの従妹と名乗ってドレスを着てオペラに出かけます。でも本当はずっとそうしたかったのだ…みたいなことも別に描かれない。そしてまたヴォルフィとしてプラハに移り、音楽活動を続ける。そうこうするうちに、病んで、死ぬ。それで終わる、ただそれだけの物語なのです。
 性別越境の物語にもかかわらず、著者には特にフェミニズム的な視点はないように見えます。深読みすれば、性別を偽らなければ自分の才を花開かせ生きられなかった悲劇の天才エリーザ・モーツァルトは、今なおさまざまに抑圧され拘束され搾取されて「ありのままで」いられない不幸な現代女性たちの生き様に十分通じます。でも多分、そんなふうに描く意図はこの著者には、ない。このエリーザは「ありのままで」と歌わないし、偽りの男装をやめるために戦ったりもしない。内心の葛藤すらないように見える。そういう時代ではなかった、のかもしれないけれど、そう感じてもいないようのを不自然に感じるのは、私が現代に生きている女性読者だからなのでしょうか?
 それとも、「モーツァルトは実は女性だった」という設定は、どう解釈しようとも滅茶苦茶で支離滅裂に見えるモーツァルトの生涯の史実を、たとえばこういう事情があったのだとすれば納得できる…とするためのギミックにすぎなかったであって、そこでの主人公の想いとかそういうものはどうでもよくて特に描くに値しないものだと著者は捉えていた…ということなのでしょうか? …まあ、でも、ありえるかな…作家であれなんであれ、男性って本当は女性の内心になんか、もっといえば女性になんか興味ないもんな、と思うからです。根本的な、ミソジニー以前の無関心があるもんね。なのに当の女性が他に興味を持つことは嫌がるんだよな、だからなら女は女だけの国を作りますねとか言うとあんなにも激高して猛反対するんだよな。なんなんだろうないったい…
 またまた脱線しました。
 今やるなら、「モーツァルトは実は女性だった」という設定を使って、もっと別の物語が紡げると思うのです。それはこの作品とはまったく別物になってしまうでしょうが。
 たとえばコンスタンツェとも、ナンネルとも、ユリっぽくすることもシスターフッドの物語にすることもできる。正体を承知で、世間を欺き共闘する偽の夫婦で親友で恋人、みたいな関係って、素敵では? けれどコンスタンツェがひょんなことからよその男と恋に落ちてしまうのかもしれない、あるいは単に関係を持ってしまうのかもしれない、それで妊娠し出産するのかもしれない、それを夫婦の子供として育てることになる、そのときエリーザは…とか、さ。あるいは男性に恋をし男性と性行為をして妊娠し出産するのはエリーザかもしれない。体調不良でごまかして夫婦で引っ込んでコンスタンツェが出産した子だと偽るんだけど…とか、さ。姉に対して、父に対して、サリエリに対して、ベートーヴェンに対して、エリーザは何を思いどう対峙したか…この作品とは違う、別のドラマ、ストーリーがありえるんじゃないのかなあ。
 でも、いかにアイディアには著作権はないとはいえ、「モーツァルトは実は女性だった」という設定で別の物語を描いたら、それはこの作品のパクリだとさすがに言われることでしょう。難しいなあ、もったいないなあ…
 ただ、この作品の舞台化、として、もうちょっとニュアンスの違う作品に仕立てちゃうことは、できるかもしれません。していいのかはまた別にして。原作者が許諾したのならいいのかもしれないし。そのあたりを、今度の舞台にはつい期待してしまうのでした。演出家は、私はちょっと当たり外れがある人だと思っているので、そこはやや不安なのですが…
 でも、みりおはそりゃうまくやることでしょう。
 本当は、宝塚歌劇を卒業した元男役がいつまでも男性の役だの男装の役だのばかりやることには私は反対です。男役は現役だけのもの、宝塚歌劇だけのものだと思っているからです。もちろん演劇って自由で、人間でないものを演じることだってできるんだから性別が違う役を演じることくらいでうるさく言うなよ、と言われそうですが、でも外部の俳優さんになったんならまず女性の役をきちんとまっとうしてほしい、と私は思う。同じようなことやってるなら卒業した意味ないじゃん、と思うからです。何よりその人の新しい姿が観たいからです。それくらいその人の役者としての力量を買っているってことです、だから卒業しても観に行くんですから。
 実際、朝ドラもよかったし『コントが始まる』もすごくいいし(青のなんちゃらは脱落しました…)、主役じゃなくてもとても素敵だし、大きな可能性を持った役者さんだと思うのですよ。だからあまり狭い枠で仕事をしてほしくないのです。もともとどちらかと言えば中性的なタイプだったしそこを愛されているスターだったとも思うので、男役でなくなるとファンが減るのでは、ファンに幻滅されるのでは…という心配はしなくていいタイプだと思うんですよね。というか最近はむしろ、さっさと綺麗に女性化してくれた方が、ファンはむしろ喜ぶんじゃないかなあ。そもそも男役って女性であること含めて愛されている存在だし、美しさ、素敵さが二倍味わえるってことでファンは嬉しいと思うし、何よりその変わり身の鮮やかさ、艶やかさにも一般人は感心し感動するんだと思うんですよ。普通に女性として生きている一般人女性は意外にその女性性を肯定しづらいままに生きづらく過ごしてきているわけですが、そこに差し込む一条の希望の光たりえると思うんですよね、鮮やかに女性化する元男役の存在って。
 なので、みりおがエドガーばっかりやってるような未来にはならなさそうなことに、私はまずは安心したのでした。ブリリアなのは心配ですが、そしてそのころ公演が無事に行われているのかはなはだ心配ですが、信じて、楽しみに、待ちたいと思います。
 そしてまた、観たいと期待していたものが観られなくて勝手に暴れていたら、すみません…おつきあいいただけたら、嬉しいです…



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