駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

錦秋十月大歌舞伎夜の部『婦系図』『源氏物語』

2024年10月26日 | 観劇記/タイトルあ行
 歌舞伎座、2024年10月19日16時半。

 仁左玉、そして玉三郎六条に染五郎光源氏とあって完売した今月の夜の部ですが、お友達のピンチヒッターで急遽行けることになりましたありがたや。もしかしたら私が仁左衛門さんを生で観るのはこれが初めて…かもしれません。人間国宝カップル、堪能させていただきました。
『婦系図』は作/泉鏡花、演出/成瀬芳一。1907年の新聞小説で、翌年新富座で初演(脚本/柳川春葉)。新派の代表的作品だそうで、歌舞伎座では1981年以来の上演とのこと。今回は「本郷薬師縁日」「柳橋柏家」「湯島境内」の上演。
 柳橋で全盛の芸者・蔦吉(坂東玉三郎)は若きドイツ語学者の早瀬主税(片岡仁左衛門)と愛し合う仲となり、芸者を辞めて飯田橋の主税の家で一緒に暮らしている。しかしこれは主税の恩師である酒井俊蔵(坂東彌十郎)の許しを得ていないため、お蔦は世間を憚る身であった…
 というところからの、恩師の叱責に血を吐く思いで別れを承諾する男…という場面と、それだけで単独でも繰り返し上演されるという男女の別れの場面、という構成です。しかし「俺を棄てるか、女を棄てるか」と迫る恩師ってのはすごいな…この台詞は知りませんでしたが、「別れろ切れろは芸者のときに言う言葉、今の私にはいっそ死ねとおっしゃってください」ってのと「静岡って箱根より遠いんですか」は知っていて、わあこの作品のものだったのか!となりました。
 もともとの小説は、主税が恩師の娘の系図調べ(身上調査みたいなものかな? 実は生母が蔦吉の姉芸者で…という筋があるらしい)をしてきた縁談の相手方の乱脈ぶりを暴く…みたいな報復劇だそうですが、芝居は主税とお蔦の純愛を中心に脚色されているそうです。そして湯島境内の場面はそもそも原作にはないのだとか…おもしろいものですね。
 仁左衛門さんはちょっと声に張りがなく感じられたり、回によっては足下がおぼつかなげなときもあったそうですが、ちゃんとそれなりの歳の若造に見えるんだからそれはたいしたものだと思いました。そして初デートに浮かれるお蔦の玉三郎さんがもうホントきゃいきゃいしていて可愛いのなんのって! 普段日陰の身なんで、初めて自分の男と連れ立って出かける…ってシチュエーションにハイになっていて、ウザいギリギリのはしゃぎようで、いじらしくて…それが後半の涙、涙の展開に効いてくるのでした。素晴らしかった!
 歌舞伎の幕引きって「ここで終わるんかーい!」ってなものが多い、と私は個人的に考えているんですが、この場面に関してはこれしかないという感じで、絶妙でした。
 でも前後の話もちゃんと観たい、とも思いましたよ…この「婦」は「おんな」と読みます。「職業差別や男の立身出世を第一とする風潮が根強かった時代の悲劇」、まさしく…でした。

 後半は新作、なのかな? 脚本/竹芝潤一、監修/板東玉三郎、演出/今井豊茂による「六条御息所の巻」で六条御息所/玉三郎、光源氏/染五郎、左大臣/彌十郎、葵の上/時蔵。盆の上にいくつもの几帳が並び、盆が回ると左大臣邸から六条御息所の邸に場面が変わる、美しくもスタイリッシュなセット(美術/前田剛)がとても印象的でした。
 染五郎の光源氏はそら輝くばかりの美しさ、そしてそれを嵩にかかった傲慢さ…絶品でした。それに対して恨みがましい、賢しらで素直でない年上の女の玉三郎六条…重い、たまらん!
 しかしラストは解せませんでした。六条が葵を取り憑き殺し、高笑いして、光源氏が泣き濡れて床に突っ伏して終わるようなラストこそふさわしいと思うのだけれど…息子も無事産んで家庭円満、光源氏と葵と赤子でわっはっはと笑って終わるとか、『源氏物語』を舐めてんのか!?とかちょっと思っちゃいました、すみません。夜の部でくらい終わり方はどうか…とか配慮したのかもしれませんが、むしろ光源氏の愚かさに震えて我が身を反省し、帰宅して家人に優しくするまでがセットでしょう。もったいないというか、ぽかーん案件で残念でした。
 今回の夜の部は新派と新作なので歌舞伎材の大歌舞伎らしくない、とも言われているそうですね。この世界もいろいろあるんだなあ…昼の部の『俊寛』は観てみたかったです。
 若手と共演して芸を伸ばすことに熱心な玉三郎さんは、再来月は團子ちゃんと『天守物語』をやってくれるんですよね…! 楽しみすぎです、絶対観ます!!










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『A NUMBER』『WHAT IF IF ONL』

2024年09月14日 | 観劇記/タイトルあ行
 世田谷パブリックシアター、2024年9月11日18時。

 1幕は25分ほどの『WHAT~』。愛する人を失って苦しみの中にいる某氏(大東駿介)は、もしもせめてあのときああしていたら…と果てしなく続く自分への問いかけと叶わぬ願いを抱えている。そこへ起きなかった「未来」(浅野和之)が現れて…
 2幕は65分ほどの『A NUMBER』。ソルター(堤真一)の息子バーナード(瀬戸康史)は、自分にはコピー、つまりクローンがいるらしい、というショッキングな事実を知るが…
 作/キャリル・チャーチル、翻訳/広田敦郎、演出/ジョナサン・マンビィ、美術・衣裳/ポール・ウィルス。Bunkamuraの海外演劇シリーズ「DISCOVER WORLD THEATER」第14弾。
 途中まで観てやっと「あれ? 私コレ観たことあるな」と思った『A NUMBER』の、前回感想はこちら
 今回はチャーチルのふたり芝居(『WHAT~』にはもうひとり、子役も出ているけど)のダブルビル、みたいな企画だったのでしょうか。でもトータル110分の上演時間なら18時半か19時の開演でもよかったのでは…子役(この日はポピエルマレック健太朗)がカテコまでいるにしても時間は大丈夫だったのでは…とは、思わなくもありませんでした。
 舞台は、あちこちに立方体の箱が吊られていて、そのひとつひとつが部屋というか家というか物語、というイメージなんだと思います。中央の大きな箱の蓋が持ち上がると(ホールケーキの箱の蓋みたいな感じ?)某氏のダイニングキッチンだったり、ソルターのリビングだったりします。某氏の家には扉も窓も冷蔵庫もあってそこから過去や現在や未来が出入りするのですが、ソルターの家には窓も扉もないただの壁で、閉塞感があるのが怖かったです。
 ただ…『WHAT~』は、喪失感が癒やされていく話…なんだと思うのですが、短すぎるし、愛した相手を自殺で失った者の悲しみがそんなに簡単に癒やされるもの?と思ってしまい、正直ピンときませんでした。これを浅野和之がやる意味があったのだろうか、とかも…そもそも戯曲では某氏は若い女性を想定していた、ともありましたし…うぅーむ。偶然にも、作者もこれを書き上げた一年後にパートナーを亡くしたそうですが、私はそうした身内や親しい人を亡くした経験がこの歳までほぼないので、こういう喪失感が想像つきづらい、というのはあるのかもしれません。祖父母とは疎遠でしたし、近くて何度か遊びに行ったお友達のお母さんが交通事故で亡くなったくらい…? 今から親との別離を思ってどんよりしているていたらくですので…
 そして『A NUMBER』は、以前観たものの方がソルターが精神的マッチョで、全体として皮肉な、怖いお話になっていて、よかったような気がしました。今回の演出は、ソルターをもっと普通の、なんなら紳士的な、ちょっと気の弱いいい人…っぽく描いている気もしましたが、それは堤真一のキャラのせいなのかしらん? でもこの人だって高圧的な芝居をしようと思えばいくらでもできるわけでさ…やはりそういう演技プラン、演出ってことですよね? ラスト、映像でわらわらと現れるいろんな格好をしたいろんなバーナードに呆然とするソルター、という図は彼を哀れにも思わせました。でもソルターがどんなにしょんぼりしようと、マイケルはともかくB2のショックとかは癒やされないんだと思うので、そういう見せ方はちょっと違うんじゃないの?と私は思わなくもなかったのです。
 あとなんか翻訳も違和感があったかも。そもそも不完全な、だからこそリアルな文で書かれた脚本だそうで、現実の会話ってそういうものだとも思うんだけれど、それにしても繰り返しとかブツ切れ感とかが多すぎやしなかったかしらん、と感じてしまいました。プログラムにあった「戯曲の翻訳は『作家が伝えたい言葉』ではなく、『作家が舞台上で何かを起こすために書いた言葉』を翻訳する作業」だ、という言葉にはとても納得するんですけれど…うぅーむ。
 でも、芝居巧者ばかりのがっつり芝居がぎっちり楽しめる2時間、よかったです。子役がダブルキャストなので、3組の「ふたり」が置かれたスタイリッシュなポスターも印象的でした。タイトルの公式表記がすべて大文字なのか、小文字混じりなのかは統一していただきたかったと思いますが…
 福岡まで行くんですね、どうぞご安全に!









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『オーランド』

2024年07月13日 | 観劇記/タイトルあ行
 PARCO劇場、2024年7月12日13時。

 16世紀後半のイングランドに生を受けたオーランド(宮沢りえ)。エリザベス女王(河内大和)をも魅了する美貌を持ち、貴族でありながら樫の木の下で気ままに夢を見て、詩を書くことを好む青年だった。ある日、詩人のニック(山崎一)に詩を酷評され、ルーマニアのハリエット皇女(ウエンツ瑛士)からは激しいアプローチを受け、辟易したオーランドは逃げるように外交官としてトルコに渡る。そこで昏睡したオーランドは、7日後に目を覚まし、鏡の中に女性の姿を見て…
 原作/ヴァージニア・ウルフ、翻案/岩切正一郎、演出/栗山民也。全2幕。

 平日夜公演が一回しかないスケジュールで、平日昼割引の優待チケットで観ました。なんだかなあ…
 原作小説は未読。30歳まで男性だったオーランドは何故か突然女性になり、その後現代までずっと女性として生きて36歳…という設定?の、伝記を模した小説なんだそうです。ファンタジーというか…ウルフが実際に恋愛関係にあった10歳歳下の女性作家をモデルにしているそうで、男性同性愛のように犯罪視されてはいなくとも、むしろないもの、見えないものとしてタブー視されていた女性同性愛を描くための、ある種のギミック設定だったようです。当時から人気はあった作品だそうで、その後も映画や舞台にいろいろと翻案されている作品だそうですが、今やるならもっとおもしろい見立てができてもよかった気もするし、少なくともおっさんの手によるものではないものを観たかったかもな、とは思いました。宮沢りえが絶妙だっただけにね…
 というかよくわからない舞台だったのです。眠かったし…私に詩人の心がないせいだというなら、すみませんが。あと録音台詞がダサすぎて吐きそうでした…
 性別を越境するとか、時間を超えて生きるとかには、もっと魅力的な描き方があるのではないかしらん…あるいは葛藤とか悩みとか、もっといろいろあるんじゃないのかしらん。うーん、よくわからん…
 主演以外の役者はみんな何役もこなし、男女の役もコロスもやる達者さで、贅沢だったんですけどねえぇ…すみません、よくわかりませんでした。簡素なセットにスタイリッシュな照明(美術/二村周作、照明/おざわあつし)で、素敵でしたが…でも宮沢りえがアップになる映像(映像/上田大樹)はなんか嫌だったなー。性の転換を語るくだりでの映像でしたが、では何故同じく性を変えたボンスロップ(谷田歩)の映像はないの?みたいな…なんかみんな女体が好きすぎるだろう、と辟易しました。原作者はもちろんそうだったんだろうけれど、女性が同性の身体を好きなのとシスヘテロ男性が女体を好きなのとは違うじゃん。こういうのこそ役者もスタッフもオールフィメールでやればいいのに…性別がすべてではないけれど、こういうモチーフならそういうアプローチじゃないともう駄目じゃない?とか、いろいろ考えてしまいました。
 原作小説は、今の訳なら読みやすいのかな? 読んでみようかな…「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分一人の部屋を持たねばならない」という言葉は有名ですが、おそらく私はウルフを読んだことがない気がします。プログラムの四解説はそれぞれ方向性が違っていて、読みでがありました。










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『裏表太閤記』

2024年07月09日 | 観劇記/タイトルあ行
 歌舞伎座、2024年7月6日16時半(七月大歌舞伎夜の部)。

 大和国信貫山にある松永弾正(市川中車)の館を、織田信長(板東彦三郎)軍の使者である多岐川一益(松本錦吾)、服部弥兵衛(大谷廣太郎)が信長の御諚を告げに訪れる。弾正は主君や先の将軍を攻め滅ぼし、東大寺大仏殿を焼き討ちにする大罪を犯していたが…
 脚本/奈河彰輔、演出・振付/藤間勘十郎。1981年明治座初演、全3幕。

 三世市川猿之助(二世猿翁)は埋もれていた狂言の再創造に熱心で、これもそのひとつなんだとか。近松門左衛門の『本朝三国志』始め、上演の機会が少ない先行の「太閤記もの」の数々をつなぎ合わせて、初演は一日がかりの通し狂言として上演されたんだそうです。羽柴秀吉(松本幸四郎)の活躍の物語を表、明智光秀(尾上松也)たちの悲劇の物語を裏、とする趣向だそうです。
 大河ドラマや歴史小説なんかでこのあたりの史実はひととおり知っているつもりだし、宣伝ビジュアルはポップだし、通しだし、最近の新作だし(二百年物がざらにある世界では43年ぶりの再演なんて「最近」なのだということが、私にもわかってきました…)、私でもわかるはず、楽しめるはず…とチケットを取って出かけてきました。
 今回は夜の部のみでの上演なので、大幅なカットや補綴がされたそうですが…でも、あたりまえですが完全新作スーパー歌舞伎ではないので古典寄りでしたし、澤瀉屋が指向するスピード、ストーリー、スペクタクルの「3S」からするとちょっともの足りなかったかな…というのが、私の率直な感想です。ま、期待しすぎちゃったのかもしれませんが…これでもド古典よりはかなりスピーディーらしいんですけどね。
 でも光秀が松也で秀吉が幸四郎ったって、幸四郎さんは二役の鈴木喜多頭重成の方が出番が多いくらいだし(イヤこの人はさらに孫悟空もやるんですけどね…)、光秀の妹・お通(尾上右近)が信忠(板東巳之助)に縁づいていて…ってドラマもあるのになんか中途半端で、「通し」感がないな、と感じてしまったんですよね。せっかくの裏表の趣向が生きていないというか。
 いろんな作品からの名場面ピックアップ・ダイジェストになっているので、くわしい人は前後も補完して観られるのでしょうが、私は素人だからピックアップの仕方が良くないように感じられるわけです。話がつながってないじゃん、通ってないじゃん…と思ってしまう。ひとつひとつの場面はちゃんとドラマがあって、おもしろく観たんですけどね。「馬盥」とか、歌舞伎ってホントこーいうの上手いよな、とか思ったので。あと歌舞伎あるあるすぎる生首ネタとかね。
 でもさー、みのさまが素敵だったし、むずがる赤ん坊に薙刀キラキラさせてあやすお通、ってのがめっちゃ素敵だったので、こーいうキャラたちを生かさんでどーする、って気がしちゃったんですよね。彼らと鈴木親子のドラマは重ならないんだしさ。もっとちゃんと関わり合いつつ綺麗に流れるお話は作れるでしょ、と思ってしまった…
 本水チャンバラとか、楽しくていいんですけどね。ホント、歌舞伎の本質って別に高尚な芸術とかじゃなくて、お客を驚かせてナンボ、喜ばせてナンボなんだよね、というのも最近やっとわかるようになってきました。だから猿だから、というだけで夢オチで『孫悟空』がぶっこめる。そして大詰ラストは大坂城大広間で五人の華やかな三番叟フィナーレでオチる。わかるし楽しいし艶やかでうっかり満足しちゃうんだけれど、そもそも私が観たかったものとは違ったな…とは感じてしまったのでした。
 弟橘姫ネタはたまたまだったのかしらん? メインのお役が鈴木孫市(市川染五郎)だった染五郎くんはますます素敵でした。












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モダンスイマーズ『雨とベンツと国道と私』

2024年06月30日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京芸術劇場シアターイースト、2024年6月26日19時。

 コロナの影響で心身ともに病んでいた五味栞(山中志歩)は、知人の才谷敦子(小林さやか)の提案で、彼女の自主映画製作を手伝うため群馬へと誘われる。そこには、かつて五味が参加していた撮影現場で罵声や怒号を日常的に役者やスタッフに放っていた監督・坂根真一(小椋毅)の姿があった。しかし彼は名前を変え、別人のように温厚な振る舞いで監督をしていて…
 作・演出/蓬莱竜太。劇団結成25周年の新作、全1幕。

 前作『だからビリーは東京で』は観ていて、すごくよかったので今回も気になっていたのですが、仕事が忙しくて見送ろうかな…と日和っていたところ、友達にすごくよかった!と勧められたので急遽駆け込んできました。口コミで後半日程は完売したそうですね、良きことです。
 真ん中に背もたれのない椅子が置かれているだけの、ほぼ何もない舞台。よく見ると両脇に椅子の列があって、その後出てきた役者たちは、舞台中央で芝居をしていないときはそこに座っていたり、次の場面に出るために着替えをしたり小道具の準備をしたりします。真ん中の空間にはときどき机が出る他はほぼ物が増えないのですが、照明などの効果もあって、ほぼ自在に撮影現場や映画館や車内になるのでした。演劇の魔法がまさしくそこにありました。
 冒頭、栞が出てきて、ややたどたどしい口調で「私の話をします」みたいなことを語り始めます。彼女は本当に栞そのものにしか見えないのだけれど、きっと中の女優さんの素顔はもっと全然違うんだろうな、とか思いました。なんというか、それくらい、怖いくらい、みんなそれっぽかったのです。これは前回の観劇でも感じたことですが…役者はまさしく千の顔を持つ。ここにも演劇の魔法があるのでした。
 さて、なので栞が語り始め、壁に彼女の名前が大写しになるので、彼女が物語の主人公なのであり、タイトルの「私」というのは彼女のことなのかな、と思わせられます。しかしその後、彼女に手伝いを頼んだ敦子もまた彼女の話を語り始めて、彼女の名前も壁に出ますし、その映画の監督をしている坂根の名前も壁に出ます。彼は貰い物のベンツに乗っていました。敦子はかつて、夫とともに国道を散歩していました。栞は雨の中、確かに初恋を感じていました。「雨とベンツと国道」とはこの三人を指しているのであり、では「私」はといえば、つまりは観客ひとりひとりのことなのでしょう。みんな、何かを失ったり、何かに傷ついたりしながら、今なお続くコロナ渦中の現在を生きている人間だからです。これは私たちの物語なのでした。
 私はおそらく未だにコロナに罹患したことがなく、なんとか心身ともに健康でいられて、栞のような創作現場にいたこともあり、似たようなパワハラ、セクハラに遭ったり目撃したりしてきたけれど、彼女のようにここまでひどく追いつめられたことは幸いにしてありません。芝居を観ていて、坂根監督の言う極端な二元論に私は脳内で反論できます。「真剣だからこそちょっとくらいキツいことを言われても耐えてがんばっていいものを作る方がいいのか、みんなで仲良く気を遣い合って優しくぬるま湯に浸かって中途半端なものしか作れない方がいいのか」みたいな、しょうもない二択です。私はその二択の立て方自体が間違っている、と言えます。みんなが健康で安全で安心して打ち込めて、それでいいものができる、という道が必ずある、と言えます。というかあることを知っている、信じている、と言ってもいい。
 でもそういう経験や信念がないと、あるいは経験がなくても信念や理想を信じられるようなある種の図太さがないと、生真面目に受け止めすぎて追い込まれてしまう人がいる…というのも、すごくわかります。配られたブログラムには「一部、恫喝や暴力の表現があります」とごく小さくアナウンスされていますが、観ていてダメな人はこれは全然ダメでしょう、とヒヤヒヤしました。抽象化され様式化されていたけれど、それでもリアルでシビアで、トラウマが蘇っちゃう人は多いんじゃないかな、と思ったのです。別に撮影現場でなくても、どこでもこうしたことは蔓延している、それこそコロナ以上に…と改めて思わされました。誰もが身に覚えがある、そういう意味でもまごうかたなき現代劇です。
 こうしたハラスメントの顕在化とか、コンプライアンス遵守の徹底が叫ばれ出したのは、たまたまコロナ禍と軌を一にしていただけであって、感染症との直接の関係性はないのでしょう。ただ、栞はコロナに感染したこともあって、心身ともにダウンしてしまった…
 栞に対しての坂根、が置かれているだけでなく、彼らとは直接関係がないような、あるいは彼らと三角形を描くようにやや離れて、敦子の物語が置かれているのがまたとても深いですよね。彼女はコロナで夫(古山憲太郎)を亡くしました。喘息の既往症があったものの、基本的には健康な壮年の男性が、あっという間に感染して、家族の見舞いも受けられずにあっけなく死んだのです。忘れていたけれど、今でも目を背けがちだけれど、コロナってそういう病気です。報道されていないだけで、今でも人はバンバン死んでいます。田舎暮らしを始めたり、野菜作りを始めたり、子供を持つか真剣に悩んだり、人生のプランがいろいろあった敦子は、配偶者の突然の死というある種の運命の暴力によって、立ち止まらせられ、呆然とさせられ、それで再出発のために自主映画の製作を始めたのでした。それで坂根に監督を依頼し、手伝いに栞を呼んだ…
 私は映画にはくわしくないけれど、映画は監督のものだ、とはよく言われますよね。でも物語の根幹は脚本にあるだろう、ということもよくわかります。しょーもない脚本はどうやっても素敵には撮れない。敦子は素人です。けれど夫の物語を書かないではいられなかった。再出発したかった坂根は名前を変えてでも、しょーもない脚本でも、もう一度映画が作りたかった。でも…やはりカタストロフは訪れてしまうのでした。
 前作で役者としてデビュー?した凛太郎(名村辰)が、ほぼ演技の経験のがないようながらも敦子の夫を演じる役者として登場しているところが、ミソです。そして彼は暴言や暴力というものにほぼ絶対的に否定的な人間でした。演技はアレでも良識はちゃんとしているのです。もちろん彼には彼の物語があるのだけれど、今回はそこはピックアップされていません。
 同様に助監督の山口(津村知与支)にも彼の物語があって、彼が圭(生越千晴)に好かれていると思い込むところとか、ホント男子あるあるで笑っちゃったんですけれど、彼だって栞と同じくらいトラウマになっていいくらいに坂根に痛めつけられているはずなのに、彼は呼ばれたらまた行っちゃうんですよね…でも暴言の録音はしている。このホモソーシャルの害悪、マジでヤバい…そういうこともあぶり出される物語です。
 ユーモアは確かにある舞台で、客席からもよく笑いが沸いていましたが、それはパワハラやセクハラを容認しての笑いではなかったと私は感じました。だから私は嫌な感じは受けませんでした。問題がちゃんとわかっていて、でもこういうしょーもなさってホントある、とついしょーもなく笑っちゃう感じで沸いた笑いに思えました。でもこのあたりは、もしかしたら回によって、観客によって違ったかもしれませんね。そこは笑っていいところではない!ってところで無神経な観客から無邪気な笑いが起きて、別の観客の繊細なハートが傷つくような回もあったのかもしれません。
 ゴールも、解決策も、正解もない作品だったと思います。ラストの栞の叫びは、確かに当人が言うとおり、ハラスメントの一種だったのかもしれません。真剣なら許される、とか正しければ許される、ということはない。怒号はそれだけで暴力であり犯罪です。でも、栞の意図が、真意が、真剣さが、誠実さが、欲していることが、求めていることが凛太郎に伝わっているなら、彼は特に傷つくことなく、とりあえず素直に走り出せて、もしかしていい絵が撮れているのかもしれません。脚本がしょうもなくても、映画としては駄作でも、敦子はそれで救われるのかもしれません。坂根は今度こそ少しだけ変われて、再出発できるのかもしれません。凛太郎は役者として一歩前進できるのかもしれません。山口はどうだろう…そして圭は、今はどこかで元気になっていて、幸せに暮らしてくれているといいな、と祈らないではいられません。でもみんなが回復し乗り越え元気で幸福でいられている、なんてそれこそ幻想なのでしょう。だから彼女のその後の姿はこの物語には出てこない。そういうほの暗さもある舞台でした。まさしく現代劇、だと思いました。
 人は何故物語るのでしょう。物語を必要とし、創作しないではいられないのでしょう。物語ることでしか得られないものとはなんなのでしょう。大事なのは、命であり、その生き様、人生です。物語の、創作の力を借りて、それが少しでも明るく輝くとか、楽になるとか、幸福に近づけるとかがあると、いいんだろうな、など考えました。「人は本当に変われるのか」、進化し、前進し、滅亡から逃れられることができるのか…そういうことを考え続けていこうとする、舞台だったように思いました。










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