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知的冒険 天正の瀬替えの真実(6)

(晩秋の城北公園)

駿河古文書会にて、静岡へ行く。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

「系図及前代秘密先祖由来郷里舊記」の途中から示す。

当家は元来北川氏と称し、北川次郎左衛門、先祖にして、この地、大井川河原地を開発し、屋敷を設け居住し、数代の後、相続は継続せざる時に当り、同村、●●氏治右衛門方の子を以って相続し、この屋敷地に居住したるものにて、祖先の墳墓、祖霊を祭り来るなり。然る上は、北川氏を称して当然なれども、氏は●●氏を用い来たる所なり。

徳川幕府の治世、民間は特許を得るに非ざれば、氏号を称するを得ず。故に氏を称する麁略流僻有り。民間、平民にして互いに氏を記したる者、潜行多し。

※ 氏号を称するを得ず - 名字帯刀は特別な許可が無ければ許されなかった。しかし、旧家では、公(おおやけ)に使用出来ないだけで、名字を持つ家も少なくなかった。
※ 麁略(そりゃく)- 粗略。物事の扱い方などが丁寧でないこと。ぞんざい。
※ 流僻(りゅうへき)- 流弊。以前から世間に行われている悪弊。
※ 潜行(せんこう)- 人目につかないように行くこと。


ここでは、出自について、横岡の北川氏の分かれで、牛尾へ開墾に入植した、と記している。入植年を勘案すれば、これは、明らかに祖先を大坂夏の陣の落ち武者とする系図とは矛盾する。おそらくは、瀬替えにより開拓地が出来て、周辺の農家の次男、三男たちが分かれて、牛尾に入植したというのが真実だと思う。

そして、この後の記述を見て、びっくりした。「駿遠の考古学と歴史」で、まさに問題となっていたことの、ズバリ答えが記されてあったからである。

一 牛尾村は、元、潮村なり。牛尾山山端より潮水出ずる上(故)に潮村と称したる由。
一 牛尾山は、元、駿河山と称し、大井川河東、河北なる、駿州志太郡神座村、相賀村、山脈連亘し来たる山脈、山頭にして、旧時、大井川河北の地たり。

※ 連亘(れんこう)- 連なりわたること。長く連なり続くこと。

ここまでは、「瀬替え」前の地形の、通常の説明である。「連亘」などという漢語は江戸時代の文書には見られない。明治、大正時代の文である。問題はこの先にあった。

元亀年間、甲州武将、武田氏出軍、駿河今川氏真を討ち敗(やぶ)り、駿河を攻め取り、遠州に出軍、榛原郡諏訪之原、本名、布引ヶ原に新城を設築するに至り、軍兵、進退の自由、また新田地開発の利を執り、相賀村の本に於いて、大井川河線を横遮する細亘山脈を切り貫き、河線の流條を直流せしめ、横岡村水神山より牛尾山に到る元河川地、一度(ひとたび)築堤、流水を遮断して、新河川に流通せしめたる所、洪水に逢うて忽ち新堤破壊し、これがため、新旧二河川流水の河條となり、大井川通路、二瀬越しとなる。
(つづく)
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