平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
‟直虎”文学散歩(3) - 掛川文学鑑賞講座
朝一番で、当班が地区の宮掃除の当番に当り、出向いた。秋のお祭りの終わった後で、もっぱら、落ちた枯れ葉の掃除をした。落葉樹ではないけれども、照葉樹もけっこう葉を落す。新陳代謝しなければならないから当然なのだが、竹ぼうきで玉砂利の上を掃きながら、そうなんだと改めて思う。
一昨日、駿河古文書会で通った、城北公園では、風が吹くわけでもないのに、ケヤキの枯れ葉が、雪でも降るように、下を歩く身体に降り注いでいたのを思い出す。もちろん地面は枯れ葉で敷き詰められていた。すでに掃除の作業車が入っていたが、これを掃くのは大変だろうと同情した。
宮掃除は一時間は掛かると思い、皆さんより少し早めに仕舞わなければと考えていたが、存外に早く終わってしまった。そのあと、予定の駿河古文書会の見学会に、静岡へ出掛けた。会場の社会福祉会館には、10時の集合より随分早く着いた。(見学会の話は後日)
‟直虎”文学散歩の続きである。
井伊谷城跡から下る。登りと違って下りは楽である。会員のY氏と元気よく下った。途中の分かれ道で来た道とは別の、二宮神社へ通じる道を下った。講師の和久田氏より、分かれ道を下り、二宮神社へ訪れることを勧められていたので、行ってみた。
(二宮神社)
下った所に二宮神社はあった。かつては、井伊郷の荘司、三宅氏の始祖多道間守(たじまもり)を祭神とし、三宅神社と呼ばれていた。井伊城を拠点に、中部、関東の諸国に活躍した、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が当地で亡くなったあと、その尊霊をこの三宅神社に合祀し、以後、この二柱を祭神として、二宮神社と呼ばれるようになったと、神社の由緒にあった。
地元の方に尋ねながら、集合場所の図書館に戻る途中、「井殿の塚」に寄った。玉垣に囲まれた狭い矩形の地に、タブノキの大樹と、小さな2基の宝篋印塔が立っていた。「井殿の塚」は、直虎の祖父21代直宗の弟、直満(直政の祖父)と直義を供養したもので、井伊氏居館の一画にあったという。直満、直義兄弟は、井伊家の家老、小野和泉守の讒言により、謀反の疑いをかけられ、駿府で今川義元によって殺害された。井伊氏一族の苦難の歴史、その始まりの事件であった。
(共保出生の井戸の橘)
この後、龍潭寺へ移動、最初に井伊氏初代共保出生の井戸を訪れた。訪れるのは3度目だろうか。そばに橘(ミカン)の木があり、キンカンより少し大きいくらいの、小さい実をたくさん付けていた。訳知りの会員が、この実は江戸時代には収穫して、彦根城の家臣たちに、縁起物として配られたと説明があった。もっとも橘の根元にはライオンズクラブ植樹との表示杭があり、もちろんこれがその橘というわけではない。(つづく)
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「江戸繁昌記 ニ篇」 71 墨水桜花3
午後「古文書に親しむ」講座がある。今日は見学会の日で、駿河古文書会のOさんから、講師ぶりを見学したいと言われ、金谷駅まで迎えに行った。予定分を読むこなすために、少しスピードを上げ過ぎたことを反省する。まるで父兄参観会のようで、緊張していたのか、いつものペースではなかった。
終了後、家へ寄ってもらい、いっぷくの後、息子の運転で、Oさんを静岡へ送って行く。夜、ライトアップしていると聞いた、梅ヶ島の赤水の滝を、息子が見に行くのに、便乗したアイデアであったが、Oさんを途中で下してしまうことになり、Oさんにはかえってご迷惑だったかと思う。赤水の滝には、奥のわりに人出があった。紅葉に彩られた幻想的な夜の滝を堪能した。
「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。‟直虎”文学散歩の続きは明日以降に。
数里の長堤、桜花弥望、淡々濃々、雲暗く雪凝(こお)る。偶々(たまたま)西南を顧(かえりみ)れば、則ち、或は訝(いぶ)かる風伯(カゼノカミ)、好事、富岳千斤の雪を吹き、落し来るかと。
※ 弥望(みぼう)- 見渡す限り。
※ 好事(こうず)- 珍しい変わった物事を好むこと。物好き。
東橋より木母寺に至る。この間、遊人識るが如し。ただ見る、筆蹟師匠(テナライシショウ)の群弟子を率るを。童男童女、一連数百。
※ 東橋(あずまばし)- 吾妻橋。隅田川に架かる橋。
※ 木母寺(もくぼじ)- 墨田区堤通にある天台宗の梅柳山墨田院木母寺は、謡曲隅田川で名高い梅若丸の故事に基づく寺院。
※ 遊人(ゆうじん)- 物見遊山に出る人。遊客。
徐福、仙薬を東海に求め、人間、復た鬼子母神を見る。一人撃析、ここに以って行を啓(ひら)く。行粧一色、皆な剪花を戴く。誠斎、句有り、一人々々は挿む、一枝の花と。豈に七百年前、預してこの間の風光を写すとなん。
※ 徐福(じょふく)- 中国秦代、始皇帝の命をうけ、東海上の三神山(蓬萊山・方丈・瀛州)へ不老不死の仙薬を求めに出たという伝説上の人物。日本でも熊野など、諸地に伝説が残る。
※ 鬼子母神(きしぼじん)- 仏教の守護神。釈尊在世の頃、王舎城に出現して、民衆の子供を奪い食ったが、釈尊に教導され、王舎城の守護神となった。墨田区駒形の鬼子母神(駒形山法華寺)を示す。
※ 一人撃析(ひとりげきたく)-「撃析(売買)」は、集団競争売買のこと。「一人撃析」は、「叩き売り」のことか?
※ 行粧(ぎょうそう)- 外出や旅のときの服装。
※ 誠斎(せいさい)- 楊万里。南宋時代の中国の学者・詩人。誠斎先生と呼ばれた。
※ 預して(よして)- あらかじめ。前もって。かねて。
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‟直虎”文学散歩(2) - 掛川文学鑑賞講座
午後、駿河古文書会に出席する。
‟直虎”文学散歩の話を続ける。
直親の墓の見学の後、気賀関所に寄った。関所自体、江戸時代に設けられたものであり、ここで直虎の関連する何を見ればよいのか不明だったが、時間がたくさん取ってあったから、隣の図書館に見るべき展示が何かあったのかもしれない。しかし、あいにく図書館は図書整理か何かで休館であった。気賀関所は何度か来たことがあるが、70歳以上は無料であった。年を取ることの利点をここにも見た。
(渭伊神社の天生杉)
続いて、渭伊神社に向かう。引佐町井伊谷字天白に位置する。往昔より渭伊二十七郷の大産神であった。井伊家の産神としても尊崇されていた。昔は龍潭寺境内にあったというが、南北の兵乱の時、この地に移された。本殿前には御神木「天生杉」が、枯れて倒れた古杉をつっかい棒のようにして立っていた。樹齢は300年位であろうか。
渭伊神社の背後の小山には、天白磐座(いわくら)遺跡があった。こんな巨大な岩々がこの地にどうして存在するのか。古代の人々が神の依代とした気持が、現代でもなお感じられる磐座であった。発掘調査では古墳時代から平安時代まで、連綿と続いた祭祀場であったことが、遺物によって解明されたという。渭伊神社がこの地に遷されたのも納得される。
天白磐座遺跡のあと、井伊谷城跡に向かう。バスを図書館のそばに止め、15分ほどの山登りである。久し振りの山登りに、かなりきつい。途中設けられた2ヶ所の休憩処で休み、息を整えながら行く。2度目の休憩で、この講座の講師の和久田氏と少し話した。お遍路で1500キロ歩いて、その時は毎日この位の山を幾つも越えて来たのだが、久し振りの山登りでけっこうつらいと話す。和久田氏には前に自分のお遍路の本を差し上げてあるのだが、そこへ話題が及ばなかった。忙しくて目を通している暇が無かったのだろうと、少しがっかりした。
(井伊谷城跡)
皆んなあちこちで昼食をとる。自分も和久田氏と同じベンチで持参おにぎりを食べた。井伊谷城跡は前に来た時と何も変わらず、何も無かった。ただ、展望デッキが出来、案内板が新しくなっていた。
参加者の一人が和久田氏に質問をしていた。日常は下の居館に住んでいて、戦時は三岳城を本城としていたとすれば、この井伊谷城はどんな時に使われたのだろうか。少しニュアンスは違うが、そんな質問だったのだろう。なかなか答えにくい問題で、明確な答えは無かった。おそらく、日常、井伊谷城と下の居館は併用されていたのであろう。例えば、プライベートは居館で、公式の時は井伊谷城でというように。まあ、来年の大河ドラマでどう描かれるのか、注目してみよう。(つづく)
読書:「夜行」森見登美彦著
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‟直虎”文学散歩(1) - 掛川文学鑑賞講座
朝から、掛川文学鑑賞講座の“直虎”文学散歩に参加した。駅まで息子の出勤の車に同乗したので、駅からゆっくり歩いて来たけれども、8時30分集合の所、8時前には集合場所の三の丸広場に着いてしまった。さすがに誰も姿がない。お天気が良いので何とも気分は良い。紅葉を入れた掛川城などを、デジカメで撮ったりして、時間をつぶした。参加者が集まり出したのが8時15分ごろで、市のバスも図書館の担当も集った。そして30人の参加者を乗せて、予定通り8時40分に出発した。
最初に訪れたのは、浜松市祝田の鉢前神社である。ここには既視感があった。「遠州濱松軍記」をこのブログに解読掲載していた時、三方ヶ原の根洗松から細江方面に下る旧道、祝田坂を訪れていた。この祝田坂で、信玄と家康は三方ヶ原の戦いの火蓋を切った。その麓に蜂前神社があり、おそらく当時、戦いのただ中にあっただろう。その時、この神社にも訪れていた。
(祝田の鉢前神社)
三方ヶ原の戦いは、元亀3年(1573)のことで、それよりわずか20年足らず前の、弘治元年(1555)、直虎の許婚だったと伝わる、亀之丞(後の直親)が、身を隠していた信州から帰還し、井伊家の領地だったこの地、刑部郷に住み、桶狭間で主君・今川義元と同時に戦死した直盛のあと、井伊家の家督を継いだ。奥山因幡守の娘を娶り、後に徳川四天王に数えられる井伊直政が生まれている。
それから、直親は10年足らず後の、永禄5年(1563)、家老小野但馬守の讒言を、弁明に向かう途中の掛川で、今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて討ち死にした。享年28。その時、20人の一行であったが、全員殺され、直親の身だけが当地に運ばれて、家臣たち19人は現地で葬られた。それが、今に掛川に残る十九首塚(平将門の首塚と伝わる)だという新説が出ている。
この鉢前神社には、還俗して直親の跡、家督を継いだ直虎に対して、今川氏真から迫られた徳政令(拒み続けるも、2年後実施)に関係する直虎が出した書状がその花押とともに残っており、現存する直虎唯一の花押とされている。(この書状は先週の「駿遠の考古学と歴史」講座でも話があったが、鉢前神社の所蔵とは認識していなかった。)
(井伊直親の墓)
鉢前神社を後にして、それほど離れていない、井伊直親の墓に行った。直親の墓は、都田川の土手下にあった。直親の屋敷跡と墓地は都田川添いにあったが、川の改修で無くなり、墓のみ、この地に移されたという。その小さな墓は当時の井伊家の置かれた位置を示している。墓前の2基の石灯籠は、桜田門外の変時の大老・井伊直弼が、井伊家の御先祖の墓参に訪れた時に、寄進されたものという。(つづく)
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「江戸繁昌記 ニ篇」 70 墨水桜花2
午前中に、天竜に渋柿を買いに行った。「いっぷく処横川」で、小さいものしかなかったので、40個(864円)購入。帰りにJA遠州中央の天竜直売所で、それより少し大きめの物、29個(1000円)購入して帰った。
「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。
これ江都(江戸)の第一勝地、四時景を異(こと)にし、早晩(朝夕)観を改む。雨の淡粧、晴れの濃抹、その奇、その妙、吾が拙い筆墨の、得て状すべきに非ざるなり。伊勢物語に云う、江上に立ちて顧望すれば、則ち、ただ来路の遠を覚う。
※ 勝地(しょうち)- 景色のよい所。景勝の地。
※ 四時(しじ)- 春・夏・秋・冬をいう。四季。
※ 淡粧(たんしょう)- 薄い化粧。
※ 濃抹(のうまつ)- 濃い化粧。
※ 顧望(こぼう)- 振り向いて見ること。
※ 来路(らいろ)- 通って来た道。
篙師促す、日旦(まさ)に暮んとす。便(すなわ)ち、船に上りて、人の悲意の動かさざるはなし。会々(たまたま)水鳥の流れに浴するを見る。觜、踁(すね)、並びに紅なり。これを問えば曰う、都鳥これなりと。悲意の二字、索莫想うべし。
※ 篙師(こうし)- 船をこぐ人。船頭。
※ 悲意(ひい)- 悲しい気持ち。
※ 觜(はし)- くちばし。
※ 都鳥(みやこどり)- ユリカモメの別称。ここは「伊勢物語」の「九段東下り」の逸話を踏まえている。
※ 索莫(さくばく)- 心を慰めるものもなくさびしいさま。荒涼としたさま。
曠原、都と為るの後、堤を築きて桜を植え、漸く繁華を為す。今は、則ち上野を罩(こ)め、飛鳥を架(か)し、御殿山の如きは、遥かに諸(もろもろ)を下流に置く。
※ 曠原(こうげん)- 広々とした野原。
※ 飛鳥(あすか)- 飛鳥山。東京都北区南部にある台地。江戸時代からの桜の名所。
※ 御殿山(ごてんやま)- 現在の北品川四、五丁目の高台を、御殿山と呼ぶ。江戸時代、桜の名所であった。
隅田川堤の桜のにぎやかなさまは、他の桜の名所、上野や飛鳥山をしのぎ、御殿山などは遥かに越えていると述べている。
花時の雑踏、また復た江都の第一たり。若し、それ白小、已に孕み、新梅荘(ウメヤシキ)の梅、迹(あと)を掃くの春風暢和、薫暖人を困(こまら)す。
※ 白小(はくしょう)- しらうお。
※ 暢和(ちょうわ)- のんびりとなごむさま。
※ 薫暖(くんだん)- 心地よい暖かさ。
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「江戸繁昌記 ニ篇」 69 墨水桜花1
「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。今日より「墨水桜花」の項に入る。
墨水桜花
※ 墨水(ぼくすい)- 隅田川の異称。
江流一碧、西北より来て、截に総武を界し、直に海に走る。富士、雪を坤に抜き、筑波、玉を艮に挿む。千里空を隔てゝ、雪玉遥々(はるばる)相照らす。これこの間の大観なり。
※ 江流(こうりゅう)- 大きな川の流れ。
※ 一碧(いっぺき)- 空や水が、一面に青々としていること。
※ 截に(せつに)- 刃物で断つように。
※ 総武(そうぶ)- 総(上総と下総)と、武(武蔵)。
※ 坤(こん)- 地。大地。
※ 艮(うしとら)- 北東の方角。(鬼門)
一船、酒を載せて、月を観、涼を納(い)るゝに宜しきは固(もと)なり。雪に宜しきは、則ち平疇疎林、霜に宜しきは、則ち渚葦岸楓、寺宇叢祠は落葉の時に宜しく、風帆往来、漁舟出没、斜陽(夕陽)に、暁靄に宜し。綾瀬幽邃、虫の名(声)聴くに宜しき有り。
※ 平疇疎林(へいちゅうそりん)- 平らな畦道と疎らな林。
※ 渚葦岸楓(しょいがんふう)- 葦の水辺と岸の楓林。
※ 寺宇叢祠(じうそうし)- お寺の建物と草むらなどにあるほこら。
※ 風帆(ふうはん)- 風を受けてふくらんだ帆。
※ 暁靄(ぎょうあい)- 夜明け方のもや。
※ 綾瀬(あやせ)- あやなす瀬。様々の美しい色どりを示す瀬。
※ 幽邃(ゆうすい)- 景色などが奥深く静かなこと。また、そのさま。
読書:「四国お遍路まんだら ふたたび」自著
久し振りに自著を再読した。「名文を書くコツは、文を如何に短くするかということに尽きる。文は短ければ短いほど、読者の読む負担を減らせる。即ち名文たるゆえんである。」そんな話を誰に聞いたのか、何で読んだのか、なるほどと思ったことだけを覚えている。
誰でも長くだらだらとは書けるが、推敲して半分に削れと言われると、素人は困ってしまう。書いてしまうと思い入れが出来て、なかなか削れるものではない。それを日常茶飯に出来てしまうのがプロであると思う。それこそ、長々と書いたが、自分の本を読んでいて、無駄な文が多いと改めて感じた。読者に負担を掛けてしまうようでは、名文とは程遠い。
この頃、「~ふたたび」を読んで頂いた方に、読んだ感想を頂き、一冊目の「四国お遍路まんだら」も読んでみたいと、リクエストがあった。望外の喜びで、早速、送ろうと思っている。
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「江戸繁昌記 ニ篇」 68 箆頭舗26
昨日の公民館祭りで子供たちにくれた、爪楊枝に紙を巻いただけの手作りコマだけれども、バランスが良くて、幼い子供たちでも簡単に回すことが出来る優れものである。
「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。今日で「箆頭舗」の項を終える。
彼は則ち、編號紙尾(バンヅケノシマイ)に、所謂、この外。相撲多くこれ有るの人、那(なん)ぞ、牙に掛けるに足らん。かつ、彼が撰する所の事、極めて猥雑、文極めて軽薄、稗官者流の言、この如きや。
※ 稗官(はいかん)- 中国古代で、民間の風評を聞き集めて王に報告した小役人。転じて戯作者。
※ 者流(しゃりゅう)- 名詞に付いて、接尾語的に用い、その種類の者で あることを表す。その仲間の者。その連中。
郷党の自ら好する者も為さず。何んぞ況んや儒人をや。何んぞ況んや君子をや。大学何(なに)本、中庸何(なに)本、経説子史の言に非ずして、無用の文を以って、有用の材に災いす。豈に止(た)だ、聖人の罪人ならん。今の儒人の罪人なり。
※ 郷党(きょうとう)- その人のふるさと。また,ふるさとに住む人々。
※ 経説子史(けいせつしし)- 経書、教書の解説書、諸子の書、史書を示す。
猥雑の醜と為るを知らず。軽薄の恥ずべきを知らず。かの荷褌儒者に方(くら)ぶれば、更に一等を卑す。(丈人、我を悉(つく)す)聞く、彼は某の藩の浪士、筋力の労を以って、大福餅を売ることを能わず。口の糊すべき無きが故に、乃(すなわ)ち、儒に似るの業を售(う)る。
※ 荷褌儒者(ふんどしかつぎじゅしゃ)- 最下級の儒者。
※ 丈人(じょうじん)- 年寄りを敬っていう語。
似而非者(似て非なるもの)、儒中の南郭、その実は善く字を読むこと能わざるなり。況んや、考証、穿鑿(せんさく)をや。要にまた、解すべからざるの人。嗚呼(ああ)々々、噫嘻(ああ)々々、顧(おも)うに、豈に止(た)だ彼ならん。儒、彼が如し、また解せべからざる仏、彼が如し。また解せべからざる、真に解し難し、真に解し難し。天地濶(ひろ)しといえども、何ぞ一人の解すべき無きや。
※ 要に(ように)- 要するに。
猛(たけ)やかに、一小厮の走り来たるを看(み)る。叟を呼びて曰う、家爺(ダンナ)剃(そり)未(いま)だしや。昼膳、将に乾かんとす。速くに帰れ。叟顧みて曰う、帰去来兮(帰りなんいざ)、昼膳、將に乾かんとす。起ちて親方に向いて、曰う、餐して来たらん。次を退くること勿(なか)れ。(イレテヲイテクダセイ)親方随いて、これを目して曰う。叟、嘗(つね)に解すべからざる談(ワカラスハナシ)を為す。
※ 小厮(しょうし)- 未成年の男の召使。小僧。
以上でこの項終り
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「江戸繁昌記 ニ篇」 67 箆頭舗25
午前中、公民館祭りでミンクルに行く。「古文書に親しむ」講座で利用させて頂いているので、来館した子供たちを楽しませるコーナーを「初心者」「経験者」共同で出した。と言っても、準備はすべて「初心者」クラスの教授が準備して下さり、こちらはお手伝いである。中に棕櫚の葉で作ったバッタは製作を実演して、子供たちに上げようとしたが、リアル過ぎたのか、気持ち悪いと手を出す子供は少なかった。
近頃の子供たちは、虫が苦手な子供がずいぶん増えたと思う。60年前の自分たちは、夏は山野で昆虫採集が主たる仕事であった。殺生をたくさんしたけれども、虫は、蜂でも蛾でも皆んな友だちであった。
午後、女房の実家と娘の嫁ぎ先へ、渋柿を貰いに行った。今年は不作の年で、合せて10個ほどにしかならなかった。であれば、渋柿を求めて北遠の方へ行ってみようかと思う。
「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。
古人は鬦(たたかわ)すに、茶を以ってし、今人は器を以ってすと。真(まこと)に然り。今かつ、今の観所を以って、これを言えば、前人は器を鬦す。今人は利を鬦す。今茶人と称する者、多くは骨董家に類せり。かつ鬦すに滋味を以ってす。飲食の徒は、君子、これを鄙(いやし)む。哀し、かくの茗愚(チャバカ)、器を以って人に誇り、鄙を以って、韻と為す。
※ 滋味(じみ)- 物事に感じられる深い味わい。
※ 鄙(ひ)- 田舎じみて下品なこと。
※ 韻(いん)- おもむき。
親方促して曰う、叟、次に臨めり。快く髭を濡らせ。曰う、談、熟せり。請う、大夫の後(しり)えに従わん。親方曰う、敢て後えたるに非ず。馬の進まざるなり。(叟呼び、馬と為す。妙々入るを罵しるの報、昭々立つるに至る)叟曰う、親(シン)の字、隅に坐らせしむべからず。(スミニハヲカレヌ)何(いず)れの日にして学ぶ。即ち耶(親父)曰う、曽(かつ)てせず。曰う、学、未だ曰わずと雖ども、吾、必ずこれを学びたりと謂わん。
※ 妙々(みょうみょう)- きわめてすぐれているさま。
※ 昭々(しょうしょう)- すみずみまであきらかなさま。
※ 親(シン)の字 - 親方に呼び掛ける言葉。
親方曰う、去歳、偶々繁昌記なるものを見る。作者を静軒信士と曰う。彼、何如(いか)なる人ぞ。書はこれ甚(過激)の書ぞ。叟哂(わら)いて曰う、彼なりや、彼や。信士には非ざるなり。居士のみ。處士と謂うが、なお、仏家の居士には非ざるなり。
※ 處士(しょし)- 民間にあって仕官しない人。
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「築山殿と次郎法師」 - 駿遠の考古学と歴史
午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。会場のかなや会館には、南面にまだ西洋アサガオがいっぱい花を付けている。勢いが盛んで、多くの蔓が芝地を這いだして、どこまでも止まらない様子を見せていた。
今日の講座は、テーマが「築山殿と次郎法師-遠州忩劇と井伊谷徳政をめぐって-」いまは静岡県のどこの歴史講座、文学講座でも、井伊直虎を扱わない講座はない。もちろん、来年の大河ドラマで「おんな城主 直虎」が放映されるからである。16世紀の遠州、今川氏と井伊氏の確執の歴史の中で、その後半に次郎法師直虎が出て来る。この講座で自分が初めて知ったことを、いくつか以下へ示そう。
築山殿の出自に二つの説がある。今川氏の系図では、今川義元の妹が今川氏の重臣、関口義広に嫁ぎ、そこに生まれたのが、後に家康の正室となる築山殿であるとする。これが、かつては唯一の説であった。ところが井伊氏の系図によると、井伊家の当主であった井伊直平の娘が今川義元の側室になったが、それを義元の妹として、関口義広に嫁がせ、そこに生まれたのが、後の築山殿だとしている。これは、小和田先生が最初に出された説で、当初は異端の説として、全く問題にされなかった。
しかし、今、直虎を描くなら、後者の方がドラマチックだから、現在、いくつか出ている直虎の小説は、後者に立脚して書かれているものが多い。さて、大河ドラマでは、どちらの説で展開されるのだろう。
今川氏側の史料で、「三州錯乱」と「遠州忩劇」という言葉が使われている。今川氏は勢力範囲を最大時、駿河、遠江、三河の3国に広げていた。1560年の桶狭間の戦いに敗北してから、三河の武士(家康など)の、今川からの離脱のことを「三州錯乱」と呼んだ。また、遠江の武士(井伊、飯尾)との争いを「遠州忩劇」と呼んだ。
※ 忩劇(そうげき)- 非常にあわただしいこと。忙しくて落ち着かないこと。
直虎の井伊家当主として短い期間に、内政問題として、徳政令の問題があるが、これは今川氏真が直虎に突き付けた問題で、直虎は2年間拒否し続けたが、最後には徳政令を実施せざるをえなくなる。
徳政令は本百姓たちの窮状を救うというのが、今川氏真側の大義名分であったが、実際には、「徳政令拒否 - 直虎の権力基盤:銭主方・瀬戸方久」対「徳政令要求 - 氏真の権力基盤:本百姓、祝田祢宜・小野但馬守」の権力闘争であった。結果として井伊谷の小領主たちの分裂を招き、直虎は井伊谷の権力基盤を失うことになる。
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「江戸繁昌記 ニ篇」 66 箆頭舗24
午後、駿河古文書会で静岡へ行く。会場の静岡市立中央図書館のある城北公園でも、紅葉が始まっている。手前の黄色い木はヒトツバタゴ、紅葉した背の高い木はケヤキである。
「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。
応安中、鹿苑相国、茶を嗜(たしな)み、世、これにおいて、咸(み)な、これを尚(とうと)びて、東山相公、茶人珠光なる者をして、茶儀を講定せしむ。豊臣氏に及びて、千宗易、更にこれを修飾す。
※ 応安中(おうあんちゅう)- 1369年 ~ 1375年。南北朝時代の年号。
※ 鹿苑相国(ろくえんしょうこく)- 足利義満。室町幕府第3代将軍。
※ 東山相公(ひがしやまそうこう)- 足利義政。室町幕府第8代将軍。
※ 珠光(じゅこう)- 村田珠光。室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者と目されている人物。
※ 茶儀(ちゃぎ)- 茶の儀式。茶の作法。
※ 講定(こうてい)- 説き定める。
※ 千宗易(せんそうえき)- 千利休。戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。
爾時、賢将、英帥もまた、咸(み)な、この為、然り。丈室、人を屏(しりぞ)け、客を限るに、数を以ってす。蓋し、また密策を託して、調するの地と。以為らく、真に嗜(たしな)みてこれを楽しむには非ざるなり。
※ 爾時(じじ)- その時。
※ 賢将(けんしょう)- かしこく、すぐれた将軍。
※ 英帥(えいそつ)- 秀でた最高指揮官。
※ 丈室(じょうしつ)- 1丈四方の部屋。寺の住職の部屋。方丈。ここでは茶室のこと。
※ 密策(みっさく)- 秘密のはかりごと。
※ 以為(おもえ)らく - 思っていることには。考えるには。
物、玩(もてあそ)ぶは、志を失う。甚(いた)いかな。これを嗜(たしな)みて、溺るゝ者、或は身を以って器に換えざるに至る。この徒、往々、身死して後を絶つ。爾来、世のこれを好む者、皆な溺るゝ。焉(いずく)んぞ善いかな。
村瀬氏言う、膏梁の子、籍を以って、その拙(せつ)を掩(おお)い、千金一盒を買い、百金一瓶を贖う。互いに相衒誇す。その水を品し、芽を揀(えら)ぶに、則ち蔑如たりや。
※ 村瀬氏(むらせし)- 姓だけでは特定しにくいが、当時の年齢などから判断して、村瀬藤城(むらせとうじょう)と考える。江戸後期の儒者。美濃生。頼山陽に師事。史学・文章を能くした。嘉永6年(1853)歿、63才。
※ 膏梁(こうりょう)- 肥えた肉と美味な穀物。
※ 籍(せき)- 文書。(謂われ書き。鑑定書。)
※ 拙(せつ)- つたない。まずいこと。
※ 盒(ごう)- ふたつきの容器。
※ 衒誇(げんこ)- てらい誇る。ほこってすぐれているかのように見せかける。
※ 品す(ひんす)- 品定めする。
※ 蔑如(べつじょ)- さげすむこと。蔑視。
読書:「火竜の山 南アルプス山岳救助隊K-9」樋口明雄 著
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