平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
はまつゝ羅抄 安倍紀行 21 中野村海野家、田代
藤泰さんは翌日、海野家を訪れている。海野家は幕末まで、井川を支配した郷士であった。駿河古文書会で読んでいる海野弥兵衛の日記は後代の海野家の当主の日記である。安倍紀行の解読を続ける。
・中野村の望月氏、藤兵衛許に一夜を乞いて宿る。翌廿三日、望月氏と同伴して、海野氏の宅へ訪ねて、かの家の由緒など聞きて戻りける。かの家の先祖は、滋野朝臣の末にて、信濃国の住人、海野小太郎幸氏の末胤なり。海野弥兵衛(法名枩雲元和三年閏六月三日没)本定と云う人、安部大蔵の聟となりて、この郷に家督して、居住しけるに及べり。この人はじめ、武田信玄入道に仕え、天正の頃、判形のもの家蔵せり。武田氏亡びて後、神君に奉仕しける。その時の記録、或は本多佐渡守正信、その外井出志摩守、村上三右衛門、安部摂津守信盛等の書翰あり。今にこの里の郷士なり。
(赤石温泉白樺荘)
井川郷の総鎮守といわれた諏訪明神(諏訪神社)に行こうとしたが、ふもとの鳥居より登り道になった参道がどこまで続くのか見当も付かず、参拝は諦めた。時間が出来たので、新装なった赤石温泉白樺荘で立ち寄りの温泉に入ってみた。昔、無料だったころを覚えているが、今は立派な施設になって、料金も500円掛かった。平日で、さすがにこんな奥まで来る人は少ないと見えて、男湯には3、4人しか客がいなかった。泉質は単純硫黄泉、そのぬるぬる感が何とも言えない。近くであれば毎日でも来たいところであるが、我が家からは最短距離でも2時間半ほどかゝる山奥である。
帰りに受付のおばちゃんに、田代の諏訪神社へは車で上れるかと聞いたところ、登り道を詳しく教えていただいた。林道を登って、神社前まで車で入れた。井川郷の総鎮守というだけあって、山奥にも関わらず、立派な神社であった。
・田代の里、中野よりは二里川上なり。産土神は諏訪明神、この社は井川郷の総鎮守なり。毎歳七月廿六日神祭にて、井川近郷の里人賽して、賑々しきことなり。また大井神社あり。八幡の社あり。こは祭神、海野七郎三郎が霊なりと云う。
その霊神の説を聞くに、むかし天正の頃にや、海野七郎太郎、七郎三郎とて、兄弟の武士あり。兄七郎太郎は岩崎に居住し、弟七郎三郎はこの里にあり。七郎三郎、殊に、武勇絶倫し、大剛の力士なりし。この兄弟如何なる故にや、武田氏の不審を蒙りて、潜に召し捕らんとせし時、七郎三郎は万夫不当の力士なれば、まず田代の百姓等に命じ、謀策を以って召し捕るべきの触れあり。
ここに百姓など命令を承りて、この里より十二里許りの奥、大谷田の中段に、肉ひらといえる霊羊(かもしか)を落し入るゝ穽(おとしあな)を造作しける。先にこの狩りのこと、七郎三郎に謀り、七郎諾しければ、ともにこの処にあり。百姓等穽出来しけり、広狭の程一覧あるべしと、中に七郎手槍を引きて、かの穴中に飛び入りけると、数十人の百姓等一同に、丸太の格子を落しかけて、いやが上に押しおさえて、大石を投げかけける。七郎、百姓等が我をたばかり、あざむくことこそ無念なれと憤怒し、牙を噛んで、穴中よりかの蓋格子を押し揚げるに、山刀抜き持ちて、七郎が手指を押し切りける。さすがの勇士なれども、穴中ほどこす術なくて、終に首をさずけゝる。
岩崎にありける兄七郎太郎は、江尻城の捕手、かの家に込み入るを、得たりやおうと討ち合い、まのあたり、一両輩大けさ(袈裟)に切り倒しけるが、運の尽くるにや、床板踏み折りて、足入りけるゝ処へ、大勢落ち合って、終に搦め捕って、三郎が首と同じく、江尻の城に引かれける。糺明の上、浜川原に引き出して首をはね、三郎が首と同じく、獄門に掛けて晒されける。
※ 糺明(きゅうめい)- 罪や不正を糾問し、真相を明らかにすること。
かの七郎三郎が霊、頻に郷民に察(崇)りをなしける故、終にその霊を神に齋(まつり)て、小社を建て、なだめけるといえり。福寿院とて、洞家の小院あり。則ち、七郎を開基として、毎年七月十四日、施餓鬼会修行して、これを供養すとかや。
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