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第6回古文書解読基礎講座「奥津川川普請願書」

(裏の畑のカボチャ-こんなカボチャは植えた覚えはない)

昨日の古文書解読基礎講座で解読した、もう一つの文書は「乍恐以書付奉願上候」という標題の川普請の願い書である。1854年東海地方を襲った安政大地震の影響で、興津川に水が出る度に被害が出ていた。この文書は戌年八月というから、地震後8年経った、文久2年(1862)に提出されたものと推測される。1862年は壬戌(みずのえいぬ)の年である。

土木工事が地元の手に負えないため、幕府直轄工事として実施して貰うことを願い上げる文書である。以下へ読み下したものを書き記す。

恐れながら書付を以って願い上げ奉り候。
御支配所、庵原郡八木間村、中宿町役人ども願い上げ奉り候は、奥津川通り御定式御普請これ無き儀、両村とも地久保の村方にて、水当り強き場所に付き、年々御手厚に御普請仰せ付けられ候ところ、震災後水引き変地仕り、本瀬一円に押し当り、御普請保ち兼ね候に付き、年々自普請立ち入り、大破相成らず候様、精々念入り候ところ、去月二十四日より二十五日まで稀れなる満水にて、御普請並び自普請申すに及ばず、御田地多分の流地に相成り、この上出水などこれ有り候わば、何ほど御田地亡所出来、かつまた御往還へも差し障り申すべくも計り難く、一同心痛仕り候に付き、取り放し極々肝要の場所へ急水刎ね、自普請目論見早速相仕立て申すべく候えども、数ヶ所の義に付き、とても自力及び難く候に付き、別紙個所訴えを以って急破御普請願い上げ奉り候あいだ、何卒御慈悲を以って右願の通り仰せ付けられ下し置かれ候様、願い上げ奉り候。以上。
  戌八月
                    庵原郡中宿町  百姓代  茂吉
                            組頭   庄兵衛
                            名主   与兵衛
                       八木間村 百姓代  喜左衛門
                            組頭   彦兵衛
                            名主   角左衛門
  紺屋町 御役所


※ 定式 - 定例
※ 御普請 - 幕府直轄の土木工事
※ 地久保 - 窪んだ土地
※ 震災 - 1854年に東海地方を襲ったM8.4の安政大地震。
※ 本瀬 - 川の流れの急な本流
※ 自普請 - 地方が行う土木工事  ⇔御普請
※ 去月 - 先月
※ 御往還 - 東海道(興津宿辺り)
※ 取り放し - 取り除き
※ 刎ねる - 切り落とす

指は痛みも消えて包帯のままマウスの操作が出来るようになった。もっとも、その指でキーボードを打つことはまだ出来ない。
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第6回古文書解読基礎講座「山方取締一条申渡」

(靜岡市立中央図書館のある城北公園)

夕方、古文書解読基礎講座で靜岡市立中央図書館に出向く。第6回の課題は山方文書である。「山方取締一条申渡」というタイトルで、内容は後に「入会権」と呼ばれる村の山への入山のきまりを申し合わせた規定である。鉛筆を持ったが思うようにすばやく字が書けない。しかも、かなりボリュームがあり、講師はすべてを解読する気満々で、進むスピードが早い。何とかポイントだけでも書いて置く。忘れないように、帰ってから出来るだけ早く整理して置かねばならない。

キーボードを叩くのも不自由で、整理に結局21日の午前4時まで掛かった。以下へ書き下したものを示す。

嘉永三戌年三月
山方取締り一条申渡
                        八木間村 小前連印

※ 山方 - 地方(じかた)文書にはその内容によって、「山方」「町方」「村方」「浜方」のそれぞれ文書がある。
※ 一条 - 箇条書きのひとくだり。
※ 小前 - 小前百姓。江戸時代、田畑や家屋敷は所有するが、特別な家格・権利を持たない本百姓。
※ 八木間村 - 興津川のほとりにあった。
※ 連印 - 「連印」の言葉だけで、連印はない。この文書が下書きのため。

一 広瀬山の儀、先年出入に及び、御裁許仰せ付けられ、山境(やまざかい)、急度御定めこれ有り候上は、当村の者、境(さかい)を踏み越え、右村山へ立入り草刈候いては相済まざる義にこれ有り候とて、油断致し少々たりとも境を踏み込み草刈り候儀、決して致すまじき旨、仰せ聞かされ、一同承知仕り候。万一仰せ聞かされ候儀、相背むき猥りに右山へ立ち入り草刈り候者これ有り候わば、何様難しく仰せ付けられ候とも、その節一言の儀、申上げまじく候。
※ 出入 - 江戸時代、民事訴訟のこと
※ 裁許 - 判決のこと
※ 仰せ付ける - お命じになる
※ 急度(きっと)- 厳しく
※ 仰せ聞かせる - 言ってお聞かせになる。
※ 何様(なにさま)- いかよう(に)、どのように

一 谷津村山の儀、右出入に及び、御裁許御絵図面下し置かれ、山境急度御定めに相成り候儀に付、右村山境踏み越え草木刈候儀、急度仰せ聞かされ、一同承知仕り候。右山境外、決して立ち入り草刈り申すまじく候。

一 濁沢山、奥津山、茂畑山、承見寺山、倉沢山、右他郷の山へ踏み込み、草、薪など決して刈取り申すまじく、もし相背き猥りに立ち入り刈取り候者これ有り候わば急度仰せ付けるべき旨、仰せ聞かされ、承知仕り候。この上度々申し合わせ不束(ふつつか)の義これ無きよう精々仕るべく候。かつまた他村の者、当村山内へ立ち入り草木伐り候者、見当り候わば、取り押え急度御届け申すべき旨、仰せ聞かされ、これまた承知仕り候。右の者見当り次第、たとえ懇意の者に候とも見逃さず、いささかも用捨なく、さっそく押し置き御届け申し上ぐべく候。

※ 不束(ふつつか)- 思慮や能力が足りず、行き届かない。
※ 躰(てい)- …のようなもの、…ふぜいなどの意を表す。

一 近来、村方持山境猥りに致し、他の地所を掠め取るべく工(たくみ)を以って、旧来の境を自分勝手に仕直し候者もこれ有る由、御耳に入り不埒(ふらち)の至りに付、以来急度相心得、境の目印たしか成らず了簡に及ばざる場これ有り候わば、申し合わせ双方立ち合いの上、境相立て目印付け申すべく候。たとえ有り来り候境に候とも壱人立ち境を付け、境木など植付け候いては疑いを受け候儀ニ付、壱人立ち境木植付け候儀、決して致すまじく、万一相背き、勝手ままの儀致し候わば、急度仰せ付けられるべく旨、仰せ渡され、承知仕り候。
※ 工(たくみ)- はかりごと、くわだて、たくらみ。
※ 不埒(ふらち)- 道理にはずれていて、けしからぬこと。ふとどき。
※ 了簡(りょうけん)- 考え。思慮。分別。

一 持主これ有り候山へ、子供たりとも猥りに踏み込み、立木はもちろん枝葉たりとも、いささかも盗み取り候儀、決して致しまじく候。万一等閑に相心得、右躰の者これ有り候わば、何様にも仰せ付けられるべく候。
※ 等閑(とうかん)- 物事を軽くみて、いいかげんに扱うこと。なおざり。

一 薩埵(さった)山の内、当村小前持林の儀、近年薩埵村小前の者立ち入り、立木を盗伐致し候者これ有り、迷惑仕り候あいだ、当村より急度掛け合い置き候上は、当村小前においても、急度相心得、正路に仕り、薩埵村持山へ決して立ち入り申すまじき義は勿論、たとえ当村持林に候とも、猥りに立ち入り、枝葉に候とも盗伐いたし候えば、兼て掛け合い置き候議定、当村より相崩し、右村より咎められ候いても、申し訳立ち難き義に付、くれぐれも堅く相慎しみ、もっとも以来両村にて度々吟味を致し候儀に付、等閑に相心得油断致さぬ様、急度相心得申すべし。万一この、仰せ聞かされ相背き、持主これ有り候山に踏み込み盗伐いたし候者これ有り候わば、御用捨なく急度仰せ付けられるべき旨、仰せ聞かされ、一同承知仕り候。
※ 正路 - 正直。
※ 議定(ぎてい) - 会議を開いて決定したこと。
※ 末 - 先
※ 用捨 - 用いることと、捨てること。取捨。

右年々再応、仰せ渡され候廉々逐一承伏仕る。なおまた向後急度相心得、銘々若者は勿論、家内中へ申し聞き猥りがましくこれ無き様、仕るべく候。万一相背く不埒の者これ有り候わば、何様にも厳しく仰せ立てらるべく候。そのため小前一同連印、御請書差上候所、よって件の如し。
※ 再応 - 再び。再度。
※ 廉々(かどかど)- それぞれの箇所。ふしぶし。
※ 逐一 - 何から何まで全部。ひとつひとつ。
※ 承伏 - 相手の言うことを承知してそれに従うこと。
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ムサシに噛まれた その2

(Ⅴサインするしかない その2)

噛まれて二日目、お昼前に外科医に行った。おじいさんの優しそうな医者は「痛みましたか」「少し痛んで痛み止めを2度飲みました」「飲むと何時間かは痛みが引くでしょう、痛みは一日一日引いて楽になります」切り取ったガーゼの出血の痕を見て、「一日目だからこんなものでしょう」ガーゼをはがすとき、最初にあてがったネットが間に残って、血で固まったガーゼを引き剥がす痛みが無しに簡単にはがれる。患者の痛みを減らす工夫である。いつごろからこんな方法が取られているのだろう。考えてみれば、怪我をして医者に来るのは生まれて初めてのような気がする。昨日と違う看護師さんが、傷口に軟膏をつけて、ガーゼを巻きテープで止めた上に、さらにガーゼとテープでしっかりと止めた。昨日の看護師さんと違って、まるで梱包でもするかのように容赦がない。痛みに何度か顔をしかめた。昨日は怪我をしたばっかりで、看護師さんも気を使ってやさしくしてくれたのだろう。

さて、右手が使えなくて不自由なことを幾つかを書いてみよう。左手だけで水を受けて顔を洗うのは出来ないことはない。箸は右手でも持てないことはないが、力が入らない。左手で使ってみると意外と使える。女房も娘も箸使いがうまいものだという。

自分の箸の持ち方は正しい持ち方とは少し違い、親指で挟んだ箸の一本には中指の指先を当て、もう一本に薬指の指先を当てて、中指と薬指を開いたり閉じたりすると、箸も同じ動きをするように持つ。だから中指が無しではうまく使えない。ところが、左手に持ち替えて同じように持つと、意外と楽に箸が使えることに気付いた。ただし、人が食べる時は、食べ物を口に箸だけで運ぶのではなく、箸と口の連繋プレーで食べ物が口に入るわけで、口が左手の動きに慣れていないと、運ばれた食物をうまく口で受け止められないものである。この違和感がなくなるには少し時間が必要なようだ。

車の運転は支障が無いが、エンジンを掛けるときに力が必要で、左手の世話にならねばならない。右手は、それ以外はウィンカーを出すぐらいで、意外と暇なことに気付いた。トイレはウォシュレットで乾燥まですれば問題がない。風呂が問題で、濡れないように右手にビニール袋をかぶせて入る。行水くらいなら入れるが、頭や身体を洗うのはどうしよう。昨日今日はカラスの行水で頭は洗っていない。手ぬぐいが絞れないのには少し困った。結局、新しい乾いたタオルを出して身体を拭いた。鉛筆が使えるかどうかは、実はまだ鉛筆を握っていない。明日、靜岡で古文書の講座があるから、それで解るだろうと思っている。

こんな風に書いていると、自分が半身不随になったみたいである。まあ、そのときはこんな気楽な観察をしてはおれないだろうけれども。
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飼犬ムサシに指を噛まれた

(Ⅴサインするしかない)

お昼前、飼犬ムサシに指を噛まれた。

女房が腰を痛め、昨日、今日と朝の散歩を引受けた。夕方の散歩は掛川の娘がまーくんを連れてやってきて引受けてくれた。散歩をさせているという気安さから、つい油断をした。ムサシは夏の間、簾を立て掛けて日陰を作った犬走りに入って昼間を過ごす。いつもならすんなり座り込むのを躊躇しているムサシ。よく見ると犬走りの上にマメコガネが一匹お腹を見せてバタバタしていた。きつい性格の割りに気が小さいムサシは小さな虫でも怖がる。女房はマメコガネを掃きだすべく、庭箒を取りに行った。手で取ってやろうと思い手を伸ばした途端、ムサシが本気でがぶりと来た。痛い!というが、なかなか放さず、放す瞬間に足にもがぶり。激痛の右手中指と人差し指から血がだらだらと流れた。流血の惨事である。

ティッシュで指を巻いて、そのまま外科医まで女房に送ってもらった。幸い縫うほどの傷ではなかったが、中指に4箇所、人差し指に2箇所の噛み傷があった。足の方はズボンの上からで、内出血が見られるが、大ごとにはならなかった。ガーゼの取替えに何日か通院を宣告された。

ムサシに文句を言ってもらちがあかず、誰にも文句が言えなくて、じっと痛みに耐えるしかない。せめてブログの題材にして、鬱憤晴らしでもするしかない。

性格がきついと知っているから、いつもは必ずムサシの顔を見ながら対応をしていた。ムサシが怒る前には、必ず顔に皺がより、そのあと吠えたり噛み付いたりする。そのときは一歩引けばよい。だからいきなり噛み付かれることはないと自信があった。ところが今日はムサシはお尻を向けていた。だから顔つきが変わるのが見えなかった。そんな状態では手を出さないのがよい。そこに油断があったと反省している。

女房はもっと優しい柴犬も多いのに、ムサシはどうしてこんなにきついのかと嘆く。しかし、この何にも媚びないきつい性格が柴犬の特徴なのである。それがいやなら柴犬を飼わないことである。

今も、ズキン、ズキンと痛む。左手と右手親指でキーボードを叩いている。キーボードはそんなに不便ではない。ただ、マウスはもろに扱えない。右手の掌で転がし、親指でクリックして何とか使う。

パソコンは何とか使えるが、箸は持てるか、筆記用具はどうだろう。車に乗れるか、お風呂にはどんな風に入ろうか、トイレは‥‥‥。にわか身障者はいろいろな勉強をする。不自由がなくなるまで一週間掛かるか、十日掛かるか。

というわけで、怪我のため、乱文乱筆ご容赦願いたい。
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お盆休みの、まーくんとかなくん

(本日、裏の畑で収穫した小玉のスイカ-長さ17cm)

このお盆に、名古屋の娘一家が帰ってきて、我家で掛川の娘一家と合流して、大変賑やかであった。カントリーボーイのまーくん1年2ヶ月、シティボーイのかなくん6ヶ月、体重は何故か二人とも8kgの後半である。もちろんそれぞれ父君の実家も近いから、この5日間、二タ家族が出たり入ったりであった。

かなくんは、名古屋で見たときはデブった赤ん坊だとの印象から、朝青龍だなどと冗談を言ったが、寝返りが自由に出来るようになって、最近動きが活発になり、肉が少しずつ筋肉に変わりつつあるとの印象を受けた。着いたばかりのときには、腹ばいになってお腹を視点に左回り(右回りは出来ない)にぐるぐる回ることは出来ていた。前に行こうと腕を突っ張ると後へ下がってしまい、思うようにならないと騒いでいた。この5日間、まーくんと一緒に過ごし影響を受けたのか、帰るころには足を曲げて床を蹴り、前に進むことが出来るようになった。前に興味ある物を見つけると、いつの間にかずり這いし、手を伸ばして掴んでいる。ずり這い出来るようになって、至極満足そうであった。

歩くようになって2ヶ月経ったまーくんは、部屋から部屋へとひょこひょことと危なっかしく歩いていく。ドアの開け閉めの仕方を、大人のやり方をじっと見ていて、マスターしてしまった。目一杯手を伸ばしハンドルをつかんで、容易に開けてしまうようになった。しかも続けて勢いをつけてドアを閉める。面白がって繰り返す。手足の指を挟むという大人たちの心配をよそに、挟みそうなところには足を踏み込まない慎重さも備えている。頭の大きさの割りに、まだまだ手足は貧弱で、転ぶことも多い。敷居や柱と喧嘩すればコブを作るのはまーくんのおでこである。コブが出たり凹んだりと忙しい。ヘッドギアでも付けるかと冗談でなく思う。せめて厚めの鉢巻でも締めれば十分ガード出来る。

かなくんは帰って来てしばらくは、自分の顔を不思議なものを見るようにじっと見た。「かなくんが固まった」と父君が言うように、意味不明なおしゃべりも止めて、自分が動くと目線も追いかけて動く。この爺さんは何なのだろうと警戒しているのだろうか。しかし、ゴールデンウィークに来たときには、度々びっくりして、口が富士山を造って大泣きしたが、今回はこの世界に慣れてきたためか、富士山を造ることがほとんどなかった。

まーくんは、しばらく前からぺちゃくちゃとおしゃべりはするが、大人には意味が理解できる単語が一つも無かった。ここへ来て、ようやく一つ二つと意味を持つ単語が出来てきた。パパだとかワンワンだとか、それはきっと日に日に増えていくのだろう。

二人の赤ん坊の成長を見せて、二タ家族が潮が引くように帰って行った。我が家に五日ぶりに静寂が戻った。
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お盆休みが終わる日曜日

(庭のサルスベリの花につくマメコガネ-中央に小さく写る)

お盆休みが終って娘たちの家族がそれぞれの家へ帰っていく日、女房が腰を痛めた。代わって朝昼晩と食事を作った。

朝は子供たちに手伝わせて、豆腐と油揚げを入れた味噌汁を作らせ、目玉焼きを7個フライパンで一度に焼き、魚ソーセージ、薄切りハム、納豆、茹でシラスなどを皿に載せて7人分、何とか形にした。

昼は一人減って6人分、スパゲティ800gを茹でる。茹で上がる1分前にザク切りにしたキャベツを入れることも忘れない。4割をミートソース、6割をタラコで、いずれも出来合いのソースを絡めるだけである。湯を切ったスパゲティを、サラダオイルを敷いたフライパンで加熱しながらオイルを絡め、その上にそれぞれのソースを投入して絡めれば出来上がりである。今日はいつもよりソースを多めにしたら、皆んな美味しいと平らげてくれた。

午後、全線開通した東名高速道路で、名古屋のかなくん一家は帰って行った。

掛川の娘夫婦は冷凍ウナギをチンして鰻どんぶりを作って食べるというから娘に任せた。残り3人は、冷蔵庫に入れてある冷や飯を使ってチャーハンを作ることにした。

有り合せの材料も、集めてみると随分色々になった。タマネギ、ニンジン、シメジ、ツナ缶、コーン缶。タマネギ、ニンジン、シメジは細かく刻んで、先ずタマネギをサラダオイルを敷いたフライパンで良く炒める。時間を掛けるほど甘みが増す。次にニンジン、シメジの順に入れて炒めていく。最後にツナとコーンを汁をよく切って入れてツナをほぐしながら炒めて、最後に塩コショウで味をつける。具は一度別の器に取っておく。

冷や飯を、油を敷きなおしたフライパンに入れて、シャモジで刻むようにほぐしながらよく炒める。飯の塊りが細かくなったところで、醤油と塩コショウで味をつける。最後に別に取っておいた具を入れて混ぜれば出来上がりである。ピーマンかゴーヤなど緑のものを入れたらなおよかったと思う。

以上、全く我流だか、理に適っている部分や駄目な部分もあるだろう。しかし、皆んな美味しいと完食してくれたから良しとしよう。掛川の娘はどうしたらこんなふうに御飯がバラバラに出来るのかと聞く。フライパンの上でひたすら砕くと答えた。そのためにじゃまになるから、具は別にしておき、あとで加える。すぐ焦げ付いてしまうのはフライパンが悪いのだと娘がいう。

夕食を終えてまーくん一家も帰って行った。

人数が多いと食器洗いも大変である。食器洗い機がいっぱいになり、一食分を1回では洗えない。食器は食事後間を置かずに洗えば楽に洗える。汚れたままで入れればよいというが、何となくざっと洗って食器洗い機に入れる習慣になっている。そしてこのお盆休みにはずいぶんたくさんの食器を洗った。
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新東名大井川橋の臨時通行


(新東名牛尾山切通し)


(新東名大井川橋)

11日の地震で最後まで不通になっていた東名高速道路上りの袋井-焼津間が、明日の午前零時(間もなく)に復旧工事が終わり開通する。袋井-焼津間の国道1号線、バイパス、国道150号線など一日中大渋滞が続いていた。特に大井川の橋がネックになり、かつて“越すに越されぬ大井川”といわれた時代の再現となった。金谷では対岸の島田の町まで買い物に行くことすらたいへんな時間が掛かるという状態になった。

今朝、名古屋から戻っていた娘一家が島田の夫君の実家へ行こうとして、新東名(第二東名)の大井川橋が渡れるという看板を見たと情報をくれた。渋滞に巻き込まれる地元の車のために、NEXCO中日本が15日の9時~16時に限り、上りだけ工事中の新東名の大井川橋を渡らせてくれるという。

今日だけ特別というから、島田へ買い物に行くのに女房と新東名の大井川橋を通ってみた。五和バイパスから連絡路への看板が小さくてわかりにくいためか、車の数は少なかった。牛尾山の手前から登る道は急坂で砂利道や段差があるから十分に気を付けて20kmで走行するようにと、繰り返し何人かの係員の注意があって、高速道路上に登った。牛尾山を切通した道路はまだ未舗装だったが、大井川橋はコンクリート舗装がされていた。渡ったところですぐに降ろされて、ぐるりと回って降りたところが島田から川根へ通じる大井川の左岸の道路であった。仕上げがまだされていないが、道路としてはほとんど出来ているように思った。

今度の地震で幾つかのことが解った。その一つは土盛りをして造成した部分が多い東名高速道路の意外なもろさである。ニュースで漏れ聞くところでは、阪神大震災の教訓で新幹線については補強工事などしっかりと対策がなされたが、東名高速道路ではそれが遅れているという。それを露呈したのが今回の路肩の崩壊である。解ったことの二つ目は、たった1ケ所の崩壊で日本の東西を結ぶ幹線道路が大混乱になるということである。

今回、新東名が一部でも使用可能になっていたならば、そちらへ振り向けることで、渋滞はかなり解消できたと思う。新東名はかなり工事は進んでいるように思うが、素人目には部分的でも完成させておこうという意思が感じられない。例えば金谷-森間など、見学会で小型バスを通したのはもう何年か前である。せめて今回のような緊急使用が可能にしておきたい。東海地震が近いといわれている当地だからこそ、必要だと思う。

NEXCO中日本も新東名の必要性を大いにアピールしたいはずで、緊急時に新東名が威力を発揮することを国民に見せれば、新東名の完成に国民の理解が得られるはずである。今回の措置も、もっと早く決断して、東名の不通と間を置かずに橋の開放をしてくれれば、大きなPRになったと思う。法律などクリアする問題が多くて決断が遅れたのだろうが、NEXCO中日本もせっかく天から戴いたチャンスを逃したような気がする。しかし、たった一日だったが、画期的な処置だったと思う。
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第5回古文書解読基礎講座「洞慶院相続歎願書」

(解読中の古文書「洞慶院相続歎願書」)

昨日の古文書解読基礎講座の続きである。

二つ目の文書は「洞慶院相続歎願書」である。洞慶院は静岡市の西方、羽鳥にある古刹である。市内では梅の名所として知られて有名である。1502年大巌禅師によって、洞慶院の住職を、崇信寺、永明寺、智満寺の三寺で、一年任期の輪番で務める制度が始められた。長年その制度が実施されて来たが、ある住職が輪番に応じない事態が発生した。その住職が亡くなって元の輪番制に戻ったけれども、揉め事は明治まで引きずっていた。一方、明治になって廃仏毀釈の騒動もあり、輪番制の揉め事が再燃したのであろう。詳しいことは窺えないが、この文書にはそういう背景がある。この文書のあと、明治五年からは輪番制が廃止され、独住職の寺となった。

書き下し文を以下へ示す。

         
一 先般洞慶院相続方の義、書付を以って歎願申上候ところ、早速書面を御取りあげに相成り、各寺一同有り難き仕合せに存じ奉り候。右御取調中、恐れを顧みず再応を願い上げ奉り候義は、当月二十八日までに輪番住交代に相成り候えば、最早切迫に相成り、差しあたり独住の御許容を蒙りたく存じ奉り候。しかる上は、本寺大洞院始め、可睡斎へも盆前に届出でたく存じ懸りに御座候。なにとぞ格別の御仁恵を以って急速に願いの通り、仰せ付け為され下し置かれ候はば、有り難き仕合せに存じ奉り候。以上。
   明治四辛未年 七月 日        大谷村   大正寺 ㊞
                      原田村   永明寺 ㊞
                      梅ケ谷村  真珠院 ㊞
                      上長尾村  智満寺 ㊞
                      桂山村   長光寺 ㊞
郡方 御役所


※ 覚(おぼえ) - 「覚え書き」と同じ。忘れないように書き留めておく文書。
※ 存じ懸りに - 気がかり、気を揉んでいるといった意味か。
※ 仁恵 - 思いやりの心と、恵み。類語として「情け」。

この文書には古文書では多用される言い回しが幾つか出てくる。擬漢文特有の言い回しである。以下へ原文を抜き出し、書き下し文を示す。

難有仕合ニ奉存候   有り難き仕合せに存じ奉り候
不顧恐          恐れを顧みず
奉願上候         願い上げ奉り候
蒙御許容度奉存候   御許容を蒙りたく存じ奉り候  
懸存ニ          存じ懸りに
被為仰付         仰せ付け為され
被下置候        下し置かれ候

これらの言い回しは覚えておくと古文書の解読が大変楽になる。くずした文字が一文字ではわからなくても、言い回しで想像が出来るためである。

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第5回古文書解読基礎講座「舞童装束等仕直願添書」

(庭のツマグロヒョウモン〔メス〕)

東名の通行止めは今朝下り線だけ開通した。地盤が思いの外軟弱で、復旧工事が長引いている。町内の交通渋滞は続き、町を出るも入るもなかなか時間が掛かってしまう。夏休みでもなかなか外出するのは苦行である。お昼過ぎ、ドシンと余震があった。静岡中部では震度3というが、体感は震度2ぐらいであろうか。

昨夜、名古屋の娘一家が帰ってきて、掛川の娘一家も合流し夕食をした。といっても急のことだったので、カレーライスで済ませた。夜は台風9号で二日遅れの大井川花火大会で、女3人が子供を連れて、すぐそこまで車で花火見物に行った。不景気のせいであろう、花火は一時間余りで終わりになった。

夕方、第5回の古文書解読基礎講座で靜岡に出掛けた。会場の靜岡市立中央図書館で待つうちに大きな余震が来た。震度3くらいであろうか。

講師の挨拶も地震見舞いで始まった。今日のテーマは寺社文書である。その一つ、かつて駿府の浅間神社の領内に建穂寺というお寺があり、浅間神社祭礼に稚児舞を奉納していた。その装束や楽器、諸道具などが壊れたので仕直しを願う文書を寺社奉行に出した。浅間神社の惣社と浅間(あさま)の神主が、過去の仕直しの事例を述べて、その添書きとしている。

以下へ添書きの書き下した文を記す。

駿府浅間領の内、建穂(たきょう)寺一山惣代衆徒、この度書付を以って願い上げ奉り候儀に付、拙者ども添え書仕り申し上げ候事。

一 駿府、浅間、惣社両社、二月二十日会、御祭礼の舞い童べの装束、楽器、並びに諸道具の儀は、慶長年中、権現様御寄付成させられ、その後、寛永十七年、大猷院様御代、当社神宝、祭器を新たに御仕直し仰せ付けられ候。その節、右二十日会の舞い童べ装束、楽器等、一同に御造営御座候。その後 常憲院様御代、元禄十四巳年、寺社御奉行青山播磨守様御月番の節、拙者ども前両神を望み願い奉り候ところ、同年九月願いの通り、仰せ付けられ、御見分、御奉行として石井治太夫殿、仰せ付けられ、右神宝、装束等、御見分の上、残らず御修復仰せ付けられ、同十五年出来(しゅったい)仕り候事。

一 八年以前、卯年、建穂寺坊中、類焼の節、児童の輿五挺並び、学頭衆徒神事の節、着用の法衣等焼失仕り候に付、右の節、建穂寺拙者どもへ申し聞かせ願い上げ候に付、拙者ども儀も願い奉り候処、聞こし召し訳(約)させられ、右焼失の分残らず仰せ付けられ候。右、焼失これ無く相残り候分は、元禄十五午年、御仕直しの御道具にて五拾年来年々神事に相用い、装束、楽器、諸道具悉く破壊仕り候。これより当春、本多長門守様へ当社中諸道具残らず前々の如く願上げ置き候内に、右廿日会道具の儀も御座候えども、この度建穂寺拙者どもへ申し聞かせ願い奉り候に付、先規の通り御仕直し下し置かれ候様、拙者ども儀も建穂寺同意に願い奉り候。委細の儀は衆徒惣代別紙書付を以って願い上げ候。何分にも宜しき様、御執達下さるべく候様、願い奉り候。以上。
    宝暦四年戌三月        駿府惣社神主   惣社宮内㊞
                       同所浅間神主   新宮左近㊞
寺社御奉行所 御役人中様


※ 権現 - 徳川家康
※ 大猷(だいゆう)院 - 三代将軍徳川家光の院号
※ 常憲院 - 五代将軍徳川綱吉の院号
※ 先規 - 前からのしきたり。先例。
※ 執達 - 上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること
※ 稚児舞 - 浅間神社廿日会の稚児舞は静岡県無形民俗文化財に指定されている。
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江戸時代、番人の制度

(庭の蝉の抜け殻-遅い梅雨明け宣言がされた頃から蝉の鳴く声が繁くなった)

台風及び地震一過、真夏の天気が戻ってきた。午後1時半より、掛川市立中央図書館で古文書入門講座がある。お昼に一度会社から戻り掛川に出掛けた。今度の地震による東名高速道路牧之原の路肩崩壊で上下とも通行止の影響を受けて、国道1号線は新旧ともに大渋滞、脇道を縫うように走って、何とか5分前に会場に着いた。

掛川の古文書入門講座はゆっくりと進んでいる。今日も前回の復習に時間が取られて、余り先には進めなかった。理解をさせるにはこれくらいゆっくりの方が効果的かもしれない。

前回の「作法の趣き、箇条書きを以って申渡す條々」の解読の中で、「この文書は最後の部分が欠落しているため、誰が、何時、誰に宛てて出した文書なのか、肝心なことが分からない」と書いたが、講師も色々と調査をしたようで、ある程度のことは解ってきたと、今回補足説明があった。

ヒントは文面の中にあった。それは「支配下之番人」及び「組下之番人」という言葉である。江戸時代、村では行政組織や警察、消防などの組織が無かったため、村人たちは皆で費用をお米などで集めて、番人を雇った。番人は「番太郎」あるいは「番太」と呼ばれ、番小屋に住んで、火の番、防犯などの役割を負った。夜間の見回りをして、火の用心や、稲束や野菜などの泥棒などに備えたりした。

この番人の制度は全国的な組織として纏められていく。大井川を境に東は江戸浅草の弾左衛門が仕切り、大井川から西は京都の寺院が仕切っていた。

大庭家からは当文書の他に、天保四年六月に「廻状」というタイトルで、幾つかの村の番太を取り纏めていた「番太小頭」が、総元締の「京都悲田院」に宛てて、その配下に入りたき旨を記した願い状(控え)がある。そして天保四年七月に「願-聞届」という、京都悲田院年寄から番太小頭に宛てた、願いを聞き届けるという書状が残っている。

以上のことから、「作法の趣き、箇条書きを以って申渡す條々」という文書は、天保四年以降に「京都悲田院」の配下に入った掛川の番太小頭に宛てて、京都悲田院年寄が番太の管理の心得を記した文書と考えられる。

以下は自分の想像であるが、宛先などが省かれているのは、読み聞かせるために、書き写した文書かもしれない。また番太を組織化することは幕府の意向でもあり、また職業としての番太を派遣して貰うことも出来たのであろう。

今日は前回の復習と、文書の背景の解説で時間がかかって、新しい文書へは少ししか入れなかった。その解読分は次回以降にしよう。
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