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40円光院 - 駿河百地蔵巡り 9回目

(第四十番円光寺)

(昨日のつづき)
臨済寺を後にして麻機街道をひたすら北へ進む。第四十番円光寺は、足久保口組の新光明寺と同じように、市の中心部から郊外へ引っ越したお寺である。麻機街道が左折して鯨ヶ池へ向かう麻機交差点を、反対の右へ折れて、北へ谷を少し入ったところにある。臨済寺からは5キロ少々であろうか。


(唐瀬分岐の地蔵尊)

麻機街道から唐瀬街道が分岐する三叉路の路傍に、地蔵尊の祠があった。2体の地蔵尊が安置され、尊顔が風化した古い地蔵尊の台石には、「天保十二庚申年 地蔵尊菩薩供養 施主 弘化四年未八月吉日 時ヶ谷、唐瀬」と刻まれた文字が読めた。天保十二年は1841年、弘化四年は1847年であるが、天保十二年は庚申ではなく、辛丑である。昔のことだから、間違いなのかどうか判らない。


(円光寺地蔵尊と不動尊)

円光寺に着いたのは11時過ぎであった。境内には地蔵像は無く、本堂を覗くと右手に極彩色の地蔵尊像が不動尊像と並んで祀られていた。これが第四十番の地蔵尊なのだろうか。「駿河一国百地蔵尊」の板はどこにも見当たらなかった。手前の保育園からは園児の元気な声が聞こえていた。帰りに見上げると、すぐ北側の上空を新東名の高架が通っていた。


(瑞雲寺地蔵堂)

帰りは東の山際を歩いて、麻機沼を横切って市街地へ戻ろうと決めていた。途中に瑞雲寺というお寺があったので立寄ってみた。小さな地蔵堂を見つけて、番外の地蔵に数えることにした。案内板によると、地蔵を収めた厨子の壁に由緒が記されていた。もともと当村に地蔵堂があったが、維新後焼けて、地蔵尊は瑞雲寺に移された。明治33年、和尚の発案で村内のおばあさんたちに毎月参籠念仏することを定めた。おばあさんたちは数夜村内を勧化して回り、金穀を得てこの厨子を造った。その厨子は小さなお堂の中に納まっていた。


(でむかえ地蔵)

さらに南へ住宅地を歩き、右手が農地に変わって、養護施設や子供病院の建物群が見えてきた。東の山が切れた辺りの道端に、「でむかえ地蔵」とネーミングされた新しい地蔵と、小さな地蔵堂が並んでいた。「でむかえ地蔵」は社会福祉法人の理事長の寄贈と刻まれ、そこが特別養護老人ホームの入口に当るようであった。地蔵堂の方は歴史があるようで、由来を刻んだ石碑があった。


(見通塚地蔵堂)

明和五年(1768)他町村に悪い熱病が発生蔓延したため、麻機村東では、峠の切り通しに、八月十五日に延命地蔵を祀り、熱病の侵入を防いだ。223年経って、平成になって、切り通し改修工事が行われ、お地蔵さんと道路まで7メートルの差が出来たので、ここ見通塚に地蔵堂を移したと記されていた。

この後、県立こども病院の前を通り、麻機遊水地へ向かった。(つづく)
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