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49天昌寺、47来迎院 - 駿河百地蔵巡り 9回目

(麻機遊水池)

(昨日のつづき)
麻機遊水池の真ん中を南北に渡る中道を行こうと思い、池の端の土手道を歩く。望遠カメラで水鳥を撮影していた青年がいたので、中道の様子を聞いた。行く道はたしかにあると話す。麻機遊水池はかつては麻機沼と呼んでいたと思う。少しづつ開発の手が及んで、かなり面積を縮めた。しかし、都市のすぐそばに、これだけの広い遊水地を持っている町は多くないと思う。かつてはどこの町にもあった湿地は、高度成長期に真っ先に埋め立てられてしまった。

仕事で中国の杭州に度々行ったが、あの乱開発の都市が目立つ中で、杭州市の西湖(シーフー)だけは、気持ちの良いウォーターフロントであった。麻機遊水池も、鳥たちの楽園に、あるいは市民の憩いの場に、もっと保存整備するべきだと思った。放って置くと遊水池が埋められることは無くても、周囲に様々な目障りな施設が出来て、鳥たちも、人々も、寄り付かなくなってしまう。

麻機遊水池の南側の高台で昼食のおにぎりを食べた。住宅地に戻るとすぐに唐瀬街道に出た。唐瀬街道を南へ下り、北街道に出る少し手前、市立高校の近くに、第四十九番天昌寺がある。「上足洗の厄除地蔵」として、靜岡では有名なようで、注意してみるとあちこちに宣伝の看板が出ていた。


(上足洗の厄除地蔵堂)

地蔵尊は秘仏とされ、厨子の中に納められている。この地蔵尊は足洗村の平見堂(ひらみどう)に祀られていたので「平見堂地蔵」と呼ばれていた。平見堂は、足洗村の有力者だった酒屋半左衛門の屋敷跡にあった。半左衛門は、慶安四年(1651)、由井正雪の乱に加担して処刑された人物である。平見堂は明治26年に取り壊され、地蔵尊は長源院に遷されたが、上足洗の村民の要望で、大正5年、改めて天昌寺に遷座された。


(厄除水かけ地蔵尊)

地蔵堂は鉄骨製の事務所のような安普請で、来年4月から建て直しがされると案内が書かれていた。境内には、別に「厄除水かけ地蔵尊」が小さな地蔵堂に祀られていた。秘仏よりもこちらの方が庶民的である。


(来迎院十三仏堂)

北街道を進み、横内町で右手に少し入ったところに、第四十七番来迎院がある。山門を入った右手にお堂があった。戸締りを仕掛けていた男性が戸を開けて中を見せてくれた。ここは今日は控え室になっていたと話すが、何の控え室なのかは判らなかった。このお堂は十三仏堂と呼ばれ、安倍川のほとりにあった正念寺から移されたもので、由比正雪にまつわる物語が伝えられていると、石碑に刻まれていた。地蔵堂ではないが、表には「駿河一国百地蔵尊第四十七番」の板が張ってあった。

十三仏とは、初七日から三十三回忌までの13回の追善供養のために組合わせた仏のことで、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・弥陀・阿閦・大日・虚空蔵を指す。堂内には彩色された13体の仏の座像が並んでいた。その中には地蔵像もあったが、もう一体、左隅に同じように彩色された地蔵立像があった。百地蔵は立像の方かもしれない。(つづく)
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