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53松源院、52富春院、51臨済寺 - 駿河百地蔵巡り 9回目

(松源院の地蔵堂)

(昨日のつづき)
麻機街道に、続いて第五十三番松源院がある。石造りの立像で子安地蔵だという。地蔵堂は庫裏の裏側で、墓地の手前にあるという情報であった。庫裏と言っても、住職の住居部分で、そのすぐ脇の通路をたどるが、よその御宅に無断で入るような抵抗感がある。立派な地蔵堂だったけれども、庫裏脇の通路が唯一の道で、墓地に行くにもそこを通るしかないのであるが、閉鎖的で、地蔵堂への参詣は拒まれているように感じだ。警備的に、昔のように大らかではおけないのかもしれないが残念であった。御詠歌を書いた板は正面上部に掲げられていたが、「駿河一国百地蔵尊」の板は見当たらなかった。


(富春院の地蔵堂)

続いて第五十二番富春院である。月2回、駿河古文書会に出席のため、その前を通る。地蔵堂は境内で場所を移動するため、しばらく工事中であるのが窺えた。その移転工事も終わったらしく、朱塗りの門を潜ると、本堂前の右手にこじんまりした地蔵堂があった。堂内には石の地蔵立像が安置されていた。「駿河一国百地蔵尊第五十二番」の板もしっかり張られていた。

この地蔵尊は「墨崎延命地蔵尊」と呼ばれている。今川義元が、ある時、陣中で熱病に掛かり、苦しむ夢枕に地蔵尊が現れた。そこで、地蔵尊を彫らせて祀ったところ、たちまち病気が癒えた。時代が下って、この地蔵は臨済寺近くの墨崎の地に風雨に晒されていた。それを、富春院に移して、地蔵堂に安置したという。

次に、街道から斜めに入って、第五十一番臨済寺へ向かった。途中の望月さんという御宅に、学生時代の四年間、下宿させてもらっていた。古い木造の家の二階だった。南と東側に縁側の付いた和室で、2階には自分一人であった。今はもう建て替えられているが、表札を見ると代替わりはしていなかった。お茶とミカンの農家だったけれども、学生の下宿部屋をいくつか持っていて、楽な生活だったのだろう。雨の日などは昼間から階下で麻雀牌の音がしていた。季節になると、前のお茶工場で遅くまで機械音が止まなかった。

あれから50年近く経った。年齢差がずいぶんあったと思っていたが、小学生の女の子もいて、まだ30代だったのだろう。そうだとすると、今はまだ80代ということになる。


(臨済寺)

臨済寺は僧の修行のお寺で、中へ入るのが難しいとは思っていたが、脇の門に「三日より九日迠、座禅専門期間に付き、関係者外の立入を堅く禁止します」と書いた札が掛っていた。春と秋に一般公開する日があるというから、外観の写真だけ撮って出直すことにした。(つづく)
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