平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
事実証談 神霊部(下) 63~65 伊勢大神宮、森本村八幡社
久しぶりの雨、乾燥していた空気が一気に湿り、季節が早春に戻った感じである。午後、駿河古文書会に出席する。三島在住の会員の手になる「竹村尚規の道中記・日記を読む」という本を購入した。竹村尚規は寛政の頃の遠州浜松の歌人、国学者で、このブログで解読した「盛りの花の日記」の著者である。一つ楽しみが増えた。
第63話
○城東郡笠原庄、新七という者、寛政年中(1789~1801)、鹿肉を喰い、日をへずして伊勢参宮に出で立ちしに、その日の朝、火鉢にいさゝか火のありしが、故なくその火鉢破(われ)し故、家族大いにあやしみしに、かの者は道中にて病起こり、伊勢に行き着かずして死せりといえり。
第64話
○駿河国阿部郡に甚三郎という者有りて、常に酒を好み大酒しけるに、ある時、甚(いた)く酔い怒りのゝしり、伊勢大神宮の御祓いを押し折りたりしかば、そのまゝ全身かゞまり付きしを、種々物すれども、しるしなく、三日ばかり経て、氏神の神主に頼みて、祈願なさせたりければ、忽ちに直りしと、同国の神職の物語にて、たしかに聞き得しかど、その年月はつまびらかならず。
※ 御祓い(おはらい)- 伊勢神宮からの大麻(神符)。また、それを入れる箱。
第65話
○豊田郡森本村、大橋紋太郎という者の娘、隣郷長森村(東海道見付駅と天龍川の間なる村なり)に分家して聟をとりたるに、寛政十一年(1799)四月、男子をもうけたり。
その小児、五月十日頃より、急驚風の如くもなり、また慢驚風の如くにもなり、昼夜六、七度づゝ熱気往来有りて、煩いける故、医薬手を尽し、神仏に祈願する事、三十日に余れども、しるしなかりけるに、
※ 急驚風(きゅうきょうふう)- 漢方で、小児の急性髄膜炎のこと。
※ 慢驚風(まんきょうふう)- 漢方で、驚風の症状が緩慢なもの。
本家の主、紋太郎はこれを歎きて、森本村の氏神、天神社、八幡社に日参して祈願せしに、七日に満つる日、八幡社の神前に平伏して有りし程、身のけもたつばかり、ぞっとして、何となく畏く覚えて、さては我が祈願を納受まし/\給いしならんと思い、急ぎかの分家にゆきて、今日より小児の病快氣すべしと言いけるを、家族いかなる故にかとあやしみ問うに、しか/\゛の事を語り、かの小児を抱き取り見るに、例よりも熟(うま)く睡りて、悩みもやゝ穏なる躰に見えければ、よろこびつゝ有けり。
さてその日九つ時頃、その家と西隣の家との境なる竹垣を押し分けて、狐一疋、飛び出しけるを、往還の馬士見付けて、あれ/\昼狐の出でたりというにより、隣家の者まで駈け出て見るに、また一疋、かの所より飛び出でたるを、口々に呼び立てれば、向いなる小路に逃げ入りて、行方しらずなりし。
※ 馬士(まご)- 馬に荷を引かせて運ぶことを職業とする者。馬方。馬子。
さて紋太郎も立ち出で、かの狐の出でし所を見るに、その家の境なる垣を押し分け出でたる跡あり。怪しと思いて、なお家の廻りを見るに、かの小児の寝たる一間の床下なる、犬防ぎ板一枚はなれて、物の通いしさまなる故、いよ/\怪しみ、その床下を改め見るに、塵もなくかき払い、久しく狐の住しと見えしかば、全く狐の所為(しわざ)にて、小児を悩ませし物なるべし。神の幸いを得て退きしこそ、ありがたけれと思い、かの犬防板を打ちかため、境の垣をも結い直せしかば、それより小児の病、速やかに全快せしと、紋太郎の物語りなり。
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