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五和地区一巡り - 新超散歩 1(後)

(熊野神社のクスノキ)

(昨日の続き)
さっそく宝蔵寺梵鐘の銘文を解読してみた。曲面に鋳出した文字を写真に撮ったものの解読で、判読しがたくて推測して補ったものが3、4文字ある。固有名詞だと推測し難く、もし間違っていたら御容赦願いたい。読み下して示す。

静岡県榛原郡金谷町牛尾、万寿山宝蔵寺は、美濃国龍泰寺、長霊正鎮大和尚の法子、雄慧道定大和尚の開創せる処なり。開基家、鈴木彦右衛門、菩提追福のため寄進の初代梵鐘は、黒船渡来時代、掛川城主太田侯により、国防に供し、昭和五年本堂再建の際、再鋳せるは、大東亜戦に供出せり。開祖来錫三百年を迎うるに当リ、先に管長高橋禅師書の名号有リ。また今持、井上義衍老師の鐘銘と墨蹟の労を得、有縁の清浄力を以って和平の龍音を四海十方に響通せんことを念ずるものなり。
 昭和五十三年献再々鋳 当山二十六世 現住 霊林貞明代 別住 明環光純記


心鎮まる音を響かせる梵鐘が、戦いの道具になるために供出されるのは、何とも痛ましいことであるが、宝蔵寺の梵鐘は2度も供出の憂き目に遭っている。最初は黒船渡来時という。当時、260年の平和ボケした江戸時代ながら、すわ国難と全国に緊張が走ったことが、この事実は示していて興味深い。先の戦時の供出は知っていたが、黒船時にも供出があったことは初めて知った。

本堂左脇から登ってすぐに、熊野神社があり、我がクスノキは、杖に支えられることもなく、あの台風に傷つくこともなく立っていた。まずは一安心する。


(新東名の大井川架橋-正しくは何と銘々されたのか知らない)

牛尾山の端まで茶畑を分けて進み、工事が最終段階に入った新(第2)東名の大井川架橋を見に行った。内陸の橋でこれだけ壮大な規模の橋も少ないと思う。牛尾山はまだ知られていないが、大井川架橋の絶好のビューポイントである。

新東名を下に見る茶畑用の小橋を渡り、再度茶畑に分け入って、横岡方面に下る山道を探した。昔は草刈場になっていて、草を刈る権利をくじ引きで決めたというほど重宝にされた牛尾山の草刈場も、ほとんど人の手が入らず、使われない山道が草むらの中に消えて、探し出すまでに少々時間が掛かった。そこは山歩きで道探しの経験を活かし、足探りで草むらを下っていく。

何とか降りたところは予想通り一豊堤の上であった。ようやく西の山の端に傾いた夕陽の中、ときどき草むらに足を取られながら、一豊堤を歩いた。一豊堤のついては、このブログでも書いた。


(横岡八幡宮の風で折れた大木)

一豊堤から横岡の集落に出たら、すぐに山道を登り、横岡古墳の脇を通って横岡八幡宮へ進んだ。八幡宮の森も風の被害が気になっていた。自分の心配は巨木たちの安否である。北側縁の大木が二本、幹がへし折られるように折れていた。幸いにも被害はそれだけのようで、森の中に幾本かある巨木も被害がなさそうであった。週末の秋祭りの舞台などの準備がされていた。

最後は少し大回りして距離を稼いで、薄暗くなったころ我が家に帰った。家の前の道路で、向こうから散歩から帰ってきたムサシがやって来て、姿を見つけてリードを引っ張り駆けて来た。歩数12,377歩。距離で7~8キロといったところか。時間で2時間少々の超散歩であった。
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