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御領地替え時の借金返済 - 駿河古文書会

(色とりどりのセンニチコウ-超散歩1にて)

金曜日、駿河古文書会に出掛けた。8月に扱った「御触面書留帳」の続きである。大変に解読が難しい文書であった。クセのある文字、虫食いなど、講師も判断に窮した部分もあったようだ。

江戸城開城後、徳川幕府は70万石の一大名として靜岡藩に移封になった。しかし元々靜岡藩という藩があったわけではなく、領域には元々幾つかの藩があった。それぞれバタバタと御国替えの沙汰が出て、それはそれで大騒動になったものと思われる。以下の文書は靜岡市の東部から清水の北部を領地とした小島藩という小藩から出た廻状である。

  御領地替えに付、申し置き候証書の事
この度御領地替え仰せ出され、上下一同上総国へ引っ越し候ては、領中村々これまで高割出金、積金、その外、口々講事など儀、これ有り候に付、右済口の処、毎年掛りは面々十二月初旬出役致し、それぞれ取り計い申すべき間、いささか心配致されまじき事
※ 済口 - 事の終わるところ。終局点。結着。
一 大輪院殿御手元金預り金の義、当年より五ヶ年賦返済切りに致したき事
※「大輪院殿」は小島藩11代の内、9代の藩主の戒名の院号である。
村々貸付金の儀は、年々霜月晦日限り、取り集め置き、出役の者へ相渡し候様致したき事
 但し、割金書、前以って野崎延太郎より渡すべく候
※「村々貸付金」は村々が藩に貸したお金であろう。「割金書」の意味がわからない。講師はそう解読したが、割金ではなく「裏」という1文字と判読した。「裏書」ならば、貸付手形に裏書してお金に替えるのであろう。野崎延太郎は明治になって銀行を起すような人物で、小島藩を代行して返済をしたと理解できる。
暮出金並び銘々出金の分、当十二月相違なく返済申すべき事
※ 卯 - 辰年の前の年で卯年、つまり昨年。
一 当辰年分収納米先納の儀は、新領において、拂米拂代金を以って、相違なく相納むべき事
右の通り相違なく取り計い申すべく候間、この段、村々へ通達これ有るべき事
 慶應四辰年八月          稲葉左仲 印
                      渡部庄左衛門 印
                      稲葉左太夫 印
                      伊藤均平 印


小島藩の御領地替えの先は上総の国で、現在の千葉県中部である。国替えになると、小島藩の家臣たちは藩主に付いて上総の国へ引っ越すけれども、領民たちはそこへ残って新しい藩主を迎えることになる。小島藩は元々小藩で財政も困窮していて、借金賄いであった。当然領民からも様々な形で借金をしていたようだ。この文書はそれらの借金の返済の道筋を付けた文書と思われる。一見貸し借りが逆のように見えるところもあるが、言い回しを追えば藩の借金だったことが解る。このような借金の多くは、国替え時に踏み倒されたケースが多いらしい。このあと幕末の動乱に入り、このように約束した小島藩は約束が守れたのであろうか。

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