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道徳欠如の中国社会の続き

(色付き始めた裏の畑のミカン
-少し酸味もあって、もう十分に美味しい)

夕方、駿河古文書会に出席した。課題は「東海道中膝栗毛」の初編であった。当初は「浮世道中膝栗毛」という題名で、箱根までの旅で終わりと記されていた。ところが大評判となり、続きをのぞまれて書き続けることになる。旅の恥は掻き捨てをそのままに、全編に洒落としくじり、艶笑話が綴られて、人気が出た理由がよくわかる。声を出して読んだ方が面白いと、誰か言ったが確かにその通りであった。江戸時代後期になって、寺子屋が普及し、識字率が向上し、一方比較的自由であった寺社詣でを口実にした旅のブームが起きはじめていた。その流れに乗った作品と、講師から案内があった。

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昨日の「道徳欠如の中国社会」の書き込みについて、「力餅」氏からコメントを頂いた。要旨は、新約聖書で「良きサマリア人の譬え」として出てくる話によく酷似しており、これは一中国の問題ではなく、もっと普遍的な問題として認識すべきであるというものであった。

自分で書いていて、大変大きな問題で、1000文字という限られた中で捉えるのは難しく、書き終わってからも、どうにも言葉足らずで、どれだけ伝わったか自信が無かった。だから、今日も同じテーマで、昨日の話を補ってみたいと思う。

自分が書きたかったのは、この事件を中国指導部の思惑のように、個人の道徳の問題として片付けてしまってよいのかという事であった。

路傍で困っている人があれば助けるのが、人としての道(道徳)なのだろう。ソマリア人の逸話のみならず、日本にも宗教的な類似した説話はたくさんある。お遍路の始まりといわれる衛門三郎の話も、その一つであろう。四国における「お接待」の慣わしも同じ根を持っている。ただ、中国で起こっていることは少し違うというのが、自分の感想である。

中国人が薄情な人ばかりなのかといえば、そんな事はなく、自分が付き合ってきた人々が、旅人の我々に対して示した気配りは、日本人のそれ以上であると思った。

20年ほど前、中国に行き始めたころ、町で交通事故があると、野次馬も含めて人だかりが出来て、いったい何があったのかとびっくりするほどであったのを思い出す。事故の当事者同士が大声で怒鳴りあい、それにそれぞれ応援する人々が加わり、場合に寄ってはつかみ合いになる光景も見た。それはそれで問題なのだが、決して他人に無関心ということではなかった。

そういう民衆の姿を見てきているから、あの事件の異常さを余計に感じた。高度成長前の中国人なら、こんな事故があったら、黒山の人だかりが出来ていただろう。その結果、適切な処置がとられていたかどうか、それはまた別問題であるが、少なくとも2度も車に轢かれるようなことは無かったはずである。

国の政策があれば、個人には対策があると、公言してはばからない人たちである。この20年に、一貫して取って来た国の政策に対して、個人の対策として、民衆はそのように無関心を装うようになってしまったのではないかと思った。中国の新しい指導部から、そのような反省に基く政策が出てくるのかどうか、注目している。
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