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「江戸繁昌記 ニ篇」 3 混堂(ゆや)1

(沈む太陽が丸く見える)

意識しない内に日本列島の東を北へ、台風がいくつか抜けた。大きな台風ではなく、上陸に至らなかったからだが、日本中がリオへ向いているから、ニュースも扱いが小さい。

今日の夕暮れ、太陽は昨日と同じようだが、雲が少しあって、雲を通しての太陽は丸く見える。微妙な違いを写し撮りたくて、デジカメを向けた。

孫たちが、掛川のまーくんの家と行き来に、車を出したので、都合三往復する。一往復に40~50分掛かる。

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。

    混堂
※ 混堂(こんどう)-「ゆや」とルビあり。風呂屋。浴場。
暁天なお昏(くら)し。早く鴉声に和して、戸を連打し去る。喇々喇々(バタバタ)唖々唖々(カアカア)、喇々(バタバタ)唖々(カアカア)、喇唖(バタカア)喇唖(バタカア)。
※ 鴉声(あせい)- カラスの鳴き声。

朝湯に一番で浸かろうと、気に早い大家さんがやって来て、湯屋の戸を連打する。

高声、急に呼んで曰う。天、明けたり。須(すべから)く起きつべし。伴頭(湯屋の番頭)(はや)く開けろ。伴頭、伴頭、(び)を失するか。伴頭、すでに死せるか。呆伴、屎伴。衆雑嘈、戸未だ発(ひら)かず。
※ 寐(び)を失するか - 「ねぼうしたか」とルビあり。
※ 呆伴、屎伴 -「べらぼう伴」、「くそ伴」、とルビあり。
※ 雑嘈(ざつそう)- ざわざわと騒々しいこと。


一人、一人を揖して曰う、大家爺早起、今日好い天気。曰う、諾(はい)、昨日の葬送、道路殊に遠し。一同疲困す。帰るに臨みて、偶々(たまたま)君等を失す。家に至るまで影無し。想うに、また深川地方に向いて去る。
※ 揖す(ゆうす)- 会釈する。
※ 大家爺 -「おおやさん」とルビあり。
※ 早起 -「おはよう」とルビあり。
※ 疲困(ひこん)- 疲労困憊。
※ 深川地方 - 江戸時代には、深川では辰巳芸者が活躍し、深川八幡宮・永代寺の門前町は岡場所であった。


曰う、何ぞ然らん。霊巌寺の側、外族の在る有り。久しく音信無し。恰(あたか)も好し。少しく迂を取りて、彼方に走る。如何(いかん)ぞ、然らん。決して然らずや。
※ 霊巌寺(れいがんじ)- 東京都江東区にある浄土宗の寺院。
※ 外族(がいぞく)- 母または妻の親族。外戚。
※ 迂を取る(うをとる)- 遠回りする。


曰う、陳ぶることを休めよ。我、吾が黒眼を以って、已(すで)洞見し了せり。伊勢久(伊勢舗久兵衛)、また老人気を欠く年紀に愧(はじ)ず、弱冠を誘引す。真に好からぬ事、真に好からぬ事。
※ 洞見(どうけん)- 事物の本質などを見抜くこと。洞察。
※ 老人気を欠く -「おとなげねい」とルビあり。
※ 年紀(ねんき)-年齢。
※ 弱冠(れい)- 男子二十歳のこと。ここでは「若い者」位の意。
※ 真に好からぬ事 -「よくないこった」とルビあり。


昨日の新鬼の如き、明大人都俗有為の者を呼んで、明大人と謂う)、現今の家財へ並一生の聚(あつま)る所、千金、地面も已に三所を領せり。然れども平生の為る所、吝嗇と謂うには非ず。真に明大人、君もまた将にならんと、早々地を為せ。
※ 新鬼(しんき)-「ほとけ」とルビあり。
※ 明大人(めいていじん)- 文中に注あり。「都俗、有為の者を呼んで、明大人と謂う」
※ 都俗(とぞく)- 都会の風俗・習慣。みやこぶり。
※ 有為(ゆうい)- 能力があること。役に立つこと。
※ 壮(そう)- 意気が盛んで勇ましいこと。
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「江戸繁昌記 ニ篇」 2 序2

(猛暑を戻した太陽が沈む)

去ったと思った猛暑が戻って来た。夕方の散歩に、猛暑の太陽が沈んで行った。

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。

好みて文を為(す)るも、未だ隻言のこれを、道に合すること能わざるなり。則ち、何の而(しこうして)か、また儒と称し、なおこれを售(う)りて、生を愉しむ者は、口を糊すること無きを以って、故爾(ゆえに)も、豈にその素志たれや。
※ 隻言(せきげん)- ちょっとしたわずかな言葉。ひとこと。
※ 口を糊する(くちをのりする)- やっと暮らしをたてる。
※ 素志(そし)- 平素から抱いている志。以前からもっている希望。


客歳病窓の暇(ひま)、繁昌記を記し、数本一噱、これを朋友に頒(わか)つ。早くすでに、人間(じんかん)伝播せんとは、意はなかりき。
※ 客歳(かくさい)- 去年。昨年。
※ 一噱(いっきゃく)- 一笑。一つの笑いぐさにすること。
※ 朋友(ほうゆう)- ともだち。友人。
※ 伝播(でんぱ)- 伝わり広まること。広く伝わること。


友人来たり、告げて曰う。世、人を責むるに已むこと無き。且つ、子(し)が儒に非ざるを知らざるやなり。咸(みな)言う。これ豈に儒人の口気ならんと。然れども、居士なる者は、飄然たる一浪人、固(もと)より儒者には非ざるなり。師表なる者に非ず。矜式なる者に非ずして、且つその世に求め無き。
※ 口気(こうき)- ものの言い方。くちぶり。
※ 飄然(ひょうぜん)- 世事を気にせず、のんきなさま。
※ 師表(しひょう)- 世の人の模範・手本となること。
※ 矜式(きょうしょく)- つつしんで手本にすること。


世、子(し)を呼びて牛と為さんも、また可なり。馬と為すも、また可なり。犬と為さんも可なり。曷(いずくん)ぞ、それ数々せん。且つ、経史百家、世、聰明に有り。子のには非ざるなり。
※ 経史(けいし)- 経書と史書。「経書」は、中国、儒教の基本的古典。
※ 聰明(そうめい)- 理解力・判断力がすぐれていること。かしこいこと。
※ 分(ぶん)- 立場や身分。


弟々その、これを続け、後にこれを覧る者、開府来の繁昌に因って、開闢来の太平を見、開闢来の文を読んで、開闢来の人を知らん。また可ならずや。居士、哂(わら)いて曰う。、これを記して二編と為す。
※ 弟々(だいだい)- 第々。(一編、二編と続けることを示すか)
※ 不亦可乎 - また可ならずや。「結構なことだと思う。」の意。
※ 諾(だく)- よろしいと承知する。
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「江戸繁昌記 ニ篇」 1 序1

(「江戸繁昌記 二編」本文)

今朝早く、錦織とナダルの銅メダルを競った一戦を見ていて、終ったのが4時半頃だったか、一日、寝不足であった。ナダルの驚異的な粘りで試合が長くなってしまったからだ。しかし、50年ぶりというテニスのメダルに、これは大変なことだと思った。

さて、次に読む本として、「江戸繁昌記 二編」を選んだ。著者は寺門静軒である。初編は一年前の8月12日から10月26日まで、72回に渡って、当ブログにその読み下したものを掲載した。江戸の下世話な話も、漢文で表すと、何とも魅力的な読み物になるものかと、その時初めて知ったのであるが、2ヶ月半に渡って、未経験な漢文との格闘は大変であった。ずいぶん誤読も多かったのではないかと思うが、その後読み返すこともしていない。

今回はその経験があるので、少しは楽かと思うが、自分では解る言葉でも、ブログに載せる上では、それを読む人のことを考えて、注を付ける必要があるので、作業はあまり変わらない。それでは、さっそく、読み始めることにする。

   江戸繁昌記 ニ篇      静軒居士著

今の太平、開闢以来、未だこれ有らざるなり。江戸の繁昌は、開府以還、未だこれ有らざるなり。太平の時運、繁昌の気数、天、才を尽くし、地、傑し出す。
※ 以還(いかん)- 以降。
※ 時運(じうん)- 時のめぐり合わせ。時の運。
※ 気数(きすう)- 運命。


すなわち、民の聡明、儒人と称して、国の師表と為る。民の矜式斗筲の者と概する。聖経、その徴を析(と)き、賢伝その妙を提げて、諸子百家、異を校し、偽りを正し、事これを記し、言これを纂(あつ)む。備(そなわ)れりと謂うべし。何ぞ、その儒人の盛んなるか。
※ 儒人(じゅじん)- 儒者。
※ 師表(しひょう)- 世の人の模範・手本となること。
※ 矜式(きょうしょく)- つつしんで手本にすること。
※ 斗筲(とそう)の者 - 度量のせまい人。つまらない人物。小人物。
※ 聖経(せいきょう)- 聖人の述作した書物。
※ 賢伝(けんでん)- 聖経に基づいて賢人の書き伝えた書物。


居士が誕生、幸いに文運盛昌の時に遭い、幼くて書を読む事を知り、長じて文を為(す)ることを識る。但し恨む。生資昏愚、好みて書を読むも、未だ一行のこれを、身に修むること能わざるなり。
※ 居士(こじ)- 仕官せず野にある男子の読書人。ここでは、自分のこと。
※ 生資(せいし)- 生まれ備わった資質。
※ 昏愚(あんぐ)- 暗愚。物事の是非を判断する力がなく、愚かなこと。
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「家忠日記 六」を読む 35

(流れが戻った大代川)

昨夜から少し雨が降り、大代川に流れが戻った。雨の降りそうな空に、気温が一気に下がり、酷暑の続く西日本よりも、8~10度ほど低い。まるで避暑地にいるような天気である。午前中、女房の在所に墓参り。といっても車で5分も走れば着く。

「家忠日記 六」の解読を続ける。今日で「家忠日記 六」も読み終える。残るは「家忠日記 七」一冊であるが、家忠日記もいささか飽きた。気分を変えて、他のものを読もうと思う。「家忠日記 七」は、しばらく間を置いてから読もう。

 天正廿年(1592)辰六月
六日 甲午 雨降り。鵜殿八郎三郎、煩い大事に候由、申し来り候。
      また堀川より、早々越し候て見舞い候への由候。
七日 乙未 鵜殿八郎三郎、夕、死去候由、申し来り候。
      初ぶり、八日市場候。
※ 鵜殿八郎三郎 - 家忠妹、おさちの夫。
八日 丙申 八郎三郎弔いて、堀川へ越し候。村雨降る。
九日 丁酉 雨降り。
十日 戊戌 雨降り。

十一日己亥 朝、雨降る。子供部屋作る。
      鵜八郎三、形見、金貝(あぶみ)、杉たての袴、越し候。
※ 金貝(かながい)-金、銀、錫、鉛など金属薄片を漆面にはりつけた蒔絵。ここでは鐙。
十二日庚子 会下へ参り候。雨降り。三里やい火(灸)候。
      鵜八郎三、跡職の儀に、内記江戸へ遣し候。
※ 三里(さんり)- 足三里。膝の皿の下のくぼみから指4本分下の向うずねの外側。灸のツボで、胃腸障害、足の障害、歯痛などに効き、夏バテ防止などにも効果がある。
十三日辛丑 雨降り。土用に入る。上総知行より、年貢越し候。
十四日壬寅 初さゝげ、修理孫左衛門。
十五日癸卯 教伝にて、持ち寄り連歌候。十郎左衛門。
      発句             家忠
      山遠く 見てさえ涼し 滝津波

十六日甲辰 会下へ参り候。竹谷松平久弥助、死去候由候。
      初‥‥喜平所より越し候。江戸より内記帰り候。下殿跡職の儀‥‥
十七日乙巳 
十八日丙午 教伝所にて、持寄連歌候。半左衛門。
      夕立。
      発句             家忠
      空に近き 秋や川上 飛びほたか
十九日丁未 外屋敷に竹植えさせ候。
廿日 戊申 中間、矢作領にて人をかどへ売り候を、張りに掛け候。

廿一日己酉 教伝にて、持ち寄り連歌候。九七。
      発句             定広
      また宵の 月が明け行く 夏の空
廿二日庚戌 会下へ参り候。下鵜殿八郎三郎衆、知行分け候。
      十三郎煩い候由、申し来り候。
廿三日辛亥 十三郎煩い見舞に、六左衛門越し候。
      下衆知行分け済み候て帰り候。
廿四日壬子 教傳、十三郎見舞に越し候。
廿五日癸丑 当社(やしろ)にて、連歌候。神領田壱反付け候。
      発句
      神や植えし 清く涼しき 庭の松  正作
      夕たつ風になびく しらゆう    家忠
※ しらゆう(白木綿)- 白色のもめん。

廿六日甲寅 
廿七日乙卯 
廿八日丙辰 ‥‥ 渡り候。
廿九日丁巳 十三郎煩い能く候由、六左衛門帰り候。
      江戸より来月五日に普請始め候て、越し候えの由、文参り候。
晦日 戊午 家中女房衆、振る舞い候。


以上で、「家忠日記 六」終り。
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「家忠日記 六」を読む 34

(かなや会館のセイヨウアサガオ)

午後、かなや会館に行き、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席した。今日のテーマは「島田山王前遺跡と浅羽十二所遺跡 ー 中世前期の寺院と居館をめぐって ー」全国が庄園支配であった中世、地方の支配の様子は、資料が少なくてほとんどわかっていないのが現状であるが、現在にも残る字名が大きなヒントになる。字名が地図に落されている資料があると、色々なことが分ってくる。そんな趣旨の話であった。また、遺跡名の「山王前」は天台宗と関わりが深いことを示し、「十二所」は熊野権現との関わりを示している。いずれも字名で付けられた遺跡名だが、それだけで解ってくることもある。

「家忠日記 六」の解読を続ける。

 天正廿年(1592)辰五月
六日 乙丑 雨降り。
七日 丙寅 雨降り。玄佐死去成られ候。
※ 玄佐(げんざ)- 松平康定(勘解由左衛門)。家忠の大叔父。
八日 丁卯 
九日 戊辰 
十日 己巳 夜、南風、雨。

十一日庚午 祈祷候。当所薬師坊主、会下へ参り候。留守中に作り候家葺き候。
十二日辛未 雨降り。
十三日壬申 雨降り。
十四日癸酉 
十五日甲戌 雨降り。

十六日乙亥 雨降り。
十七日丙子 朝まで雨降る。
十八日丁丑 雨降り。持ち寄り連歌、教伝所にて候。
      発句              家忠
      五月雨は 雲重なりて 空もなし
十九日戊寅 
廿日 己卯 雨降り。

廿一日庚辰 東堂様、時儀にて越され、会下参り候えば、振る舞い候。
      上総(かずさ)はつ殿より音信候。
廿二日辛巳 晩に夕立、神鳴り。
廿三日壬午 
廿四日癸未 雨降り。
廿五日甲申 雨降り。持ち寄り連歌候。教伝所にて。
      発句           正佐
      橋に番 越し合わするや 梅の雨

廿六日乙酉 江戸へ酒(井)平右衛門越し候。
廿七日丙戌 雨降り。知行振り分け候。
廿八日丁亥 雨降り。
廿九日戊子 


 天正廿年(1592)辰六月
 六月大
一日 己丑 会下へ参り候。平右衛門江戸より帰り候。
      高麗国絵図越し候。大方納め候由候。
※ 高麗国絵図 - 朝鮮に攻め渡ろうとする秀吉。随軍している家康。それと関係のある絵図なのであろうか。
二日 庚寅 
三日 辛卯 教伝所、持ち寄り連歌候。与五左衛門。
      発句              家忠
      夏の夜は ただ三日月の 入る差かな
四日 壬辰 
五日 癸巳 雨降り。飯沼、松平外記所より、鮑、海草越され候。
      新二郎、廿五日に教伝だん忌候。
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「家忠日記 六」を読む 33

(散歩道のススキの穂)

今日は暑さも一休みなのか、曇って、やや凌ぎやすい。散歩道で薄の穂が出ているのを見つけた。酷暑の中でも秋が確実に近づいている。

リオ五輪では、連日の日本人選手のメダルラッシュに、テレビにくぎ付けで、古文書解読もさぼり勝ちで、ブログの継続も苦しくなっている。出来るだけテレビを消して、パソコンに向かうようにはしているが。

「家忠日記 六」の解読を続ける。

 天正廿年(1592)辰四月
 四月小
一日 辛卯 夜、雨降る。
二日 壬辰 御二方様より、普請場へ御鷹ほがい給り候。
※ ほがい(寿がい)- 祝い。
三日 癸巳 上総(かずさ)知行分にて、身(親)類衆へ渡し候。
四日 甲午 雨降り。屋敷家建て候。
五日 乙未 雨降り。宰相様、白鳥の御振る舞い成され候。

六日 丙申 
七日 丁酉 殿様、京都を、筑紫へ、去る十七日に御出馬候由候。
      伊達、南部、景勝、佐竹、御に付き候由候。
※ 景勝(けいしょう)- 上杉景勝。
※ 手(て)- 支配下にあって思い通りに使える人や軍勢。

八日 戊戌 朝より雨降る。原田さ佐右衛門所に、夢想の連歌にて越し候。
九日 己亥 大雨、北風。
十日 庚子 雨降り。

十一日辛丑 雨降り。
十二日壬寅 朝雨降る。御二方様に、今度唐入り御陣、御祈念の連歌にて越し候。
十三日癸卯 夜より雨降る。
十四日甲辰 雨降り。形原衆ふる舞い候。
十五日乙巳 雨降り。

十六日丙午 平岩主計所にふる舞いにて越し候。夕飯、酒宮内所に候。
十七日丁未 
十八日戊申 跡部大炊助伯父、民部所に連歌にて越し候。正月の連歌延びて。
      発句            家忠
      花々の 中にも桜の 立ち枝かな
      上代より、玄佐煩い候由、申し来り候。
十九日己酉 雨降り。
廿日 庚戌 

廿一日辛亥 
廿二日壬子 雨降り。戸田左門所にふる舞いにて越し候。
廿三日癸丑 
廿四日甲寅 晩より雨降る。
廿五日乙卯 夜、雨降る。新二郎煩い帰られ候。
      玄佐煩いもよくも候いて、九七帰り候。

廿六日丙辰 龍花院に、夕飯のふる舞い候。
廿七日丁巳 
廿八日戊午 
廿九日己未 水野藤次所に、ふる舞いにて越し候。


 天正廿年(1592)辰五月
 五月小
一日 庚申 雨降り。跡部大炊助所に、連歌にて越し候。
二日 辛酉 雨降り。新二郎煩い、以外候由、申し来り候。
※ 以外(いがい)- 意外。考えていた状態と非常に違っていること。
三日 壬戌 普請出来候。但し、奉行衆、天気上がり次第、普請場受取り
      越し候へ候由、申し候。三浦右衛門八、残し候て帰り候。
      舟橋近所にて、新二郎昨日二日に果て候由、申し来り候。
      舟橋に留り候。
※ 舟橋(ふなばし)- 現、千葉県船橋市。
※ 新二郎 - 松平新次郎。家忠の弟。

四日 癸亥 上代まで越し候。
五日 甲子 西郷左衛門助、新二郎弔い候て、御越し候。
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「家忠日記 六」を読む 32、 若狭小浜の小旅 3




(上/若狭湾方面、下/越前海岸方面)

(若狭小浜の小旅のつづき)
鵜の瀬から、若狭湾を一望に出来る久須夜ヶ岳(標高619メートル)に車で登った。酷暑の町中よりは、3~4度気温が低いことを期待したが、広い駐車場を兼ねた展望台は、風も感じられず、暑かった。南側からは小浜湾が見え、北側からは越前の海岸線が遠くまで延びて展望できるつもりだったが、天気は良いけれど、湿度が高いのか、すっきりとは見渡すことが出来なかった。若者たちがやってきて、空と海の境が分らないと話している。若狭湾が日本海に広がる辺りに見えるはずの水平線が、空に溶け込んでしまったように、全く確認出来なかった。

帰りに「箸のふるさと館」で、若狭塗りの夫婦箸を、次兄夫婦とお揃いで土産に購入した。「8月4日は箸の日」というポスターを見付け、二日前だと話題にしていると、店員さんが当日は箸がすべて半額だったと話す。そして、突然気付いて、慌てて壁に張られた50%引きの表示をはがした。二日前のイベントの、はがし忘れを見付けたらしく、頻りに弁解していた。

お互いに高齢になって、何時まで夏の墓参帰郷が出来るだろうか。今年から、伊勢の長兄は墓参帰郷を取りやめにしたという。

「家忠日記 六」の解読を続ける。

 天正廿年(1592)辰三月
六日 丙寅 
七日 丁卯 
八日 戊辰 
九日 己巳 夜、雨降る。江戸より内記、右衛門は帰り候。
      知行相残り五千石、上総にて四千石余、上代近所にて八百石余、
      合せて五千石渡し候。
※ 上代(かみだい)- 現、千葉県佐倉市上代。
十日 庚午 

十一日辛未 小見川より吉田佐太郎、見舞のため越し候。大豆十表、持たせ候。
十二日壬申 茶あぶり候。
十三日癸酉 上総知行へ人を遣し候。
十四日甲戌 
十五日乙亥 雨降り。祈祷連歌候。
      発句          玄佐
      緑添う 松の木の間や 山桜

十六日丙子 江戸天野清兵(普請奉行)、山本帯刀所より来る。
      廿日に、江戸普請に参るべく候由、申し来り候。
十七日丁丑 夜、雨降る。
十八日戊寅 雨降り。江戸へ人を遣し候。普請小屋分など聞きに。
十九日己卯 
廿日 庚辰 江戸普請に佐倉まで越し候。鶴岡宗左衛門所に留り候。
      落ち付き振る舞い候。樽代百疋、女房永楽二十疋出し候。

廿一日辛巳 雨降り。江戸へ参着候。伝馬町、佐久間所に居り候。
廿二日壬午 宰相様へ出仕申し候。
廿三日癸未 城に御振る舞い候。我ら屋敷普請させ候。
廿四日甲申 酒井宮内大輔、天野清兵衛所へ越し候。
廿五日乙酉 雨降り。跡部大炊助所へふる舞いにて越し候。

廿六日丙戌 夜、浅草筋に火事出来候。
廿七日丁亥 本田佐渡所にふる舞い候。精進にて参らず候。
      品川、家毀(こぼ)しに遣し候。
廿八日戊子 
廿九日己丑 御普請、御隠居御城、堀当て候。
晦日 庚寅 
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「家忠日記 六」を読む 31、 若狭小浜の小旅 2

(酷暑のこの日、鵜の瀬には多くの家族連れが川遊びに興じていた。)

午後、掛川古文書講座へ出席した。夕方、孫たちが我が家に集り、定番のパスタを食べて、花火を見に行った。故あって、夏休みで静岡に来ている名古屋のかなくんも、まーくんたちの家へ泊っていて、時々顔を見せる。

(若狭小浜の小旅のつづき)
明通寺を後にして、山を越した一つ向うの谷の、「鵜の瀬」に行った。鵜の瀬では、毎年3月2日に、「お水送り」の神事が行われる。ここから送られた御神水が着いた先が、奈良東大寺二月堂の若狭井で、そこから汲み上げた「閼伽水」を本尊にお供えする儀式が、春を告げる、東大寺二月堂のお水取りである。勇壮な火祭りとして有名であるが、どうやら「お水送り」の行事も火祭りのようである。松本清張に語らせば、これもゾロアスター教の影響の色濃い、火と水の行事ということになる。

「お水送り」と「お水取り」の行事には、東大寺大仏開眼前の二月堂で行われた修二会(しゅにえ)にまつわる面白い伝説があるが、それはさて置き、東大寺の初代別当で、開祖と云われる良弁僧正は、若狭小浜のこの地の生まれであった。お水取り行事を始めた弟子の実忠が、師の良弁ゆかりの若狭小浜のこの地と、若狭井が繋がっていて、「閼伽水」がはるばる至るという、壮大なロマンをでっち上げたのだろうと思う。

「閼伽水」も鵜の瀬で流せば、確実に若狭湾へ流れて行き、奈良の若狭井に涌き出すことは考えられないけれども、「お水送り」と「お水取り」の行事も1200年も続けば、作り話も真実になる。それは、高野山の奥の院に今もなお、弘法大師が生きておられ、僧が1200年にわたって届け続ける食事を摂られているのと、同じ根の話である。(つづく)

「家忠日記 六」の解読を続ける。

 天正廿年(1592)辰三月
 三月大
一日 辛酉 
二日 壬戌 
三日 癸亥 晩より雨降る。伊勢の御師帰り候。葦毛の馬を取らせ候。
四日 甲子 雨降り。江戸へ遣し候者、帰り候。
      知行、残る三千石は、この元にて渡し候わん由、申し来り候。
五日 乙丑 つきや建て候。晩より夜かけ雨降る。

    上総知行分
腰当の郷             吉田の郷
  一 三百二石五斗三升三合     一 九拾五石四斗四升
※ 腰当(こしあて)- 現、千葉県茂原市腰当。
※ 吉田(よしだ)- 現、千葉県匝瑳市八日市場の一部。


鳥喰の郷             戸田の郷
  一 六百丗三石六斗九升一合    一 弐百六拾石七斗六升
※ 鳥喰(とりはみ)- 現、千葉県山武郡横芝光町の一部。
※ 戸田(とだ)- 現、千葉県山武市戸田。


宮内郷、東金近所なり       吉倉の郷
  一 壱弐七石五斗九升弐合     一 百廿四石四斗五升九合
※ 東金(とうがね)- 現、千葉県東金市東金。
※ 吉倉(よしくら)- 現、千葉県八街市吉倉。


平川の郷             と善の郷
  一 百八拾八石七合        一 四百五拾三石九升五合
※ 平川(ひらかわ)- 現、千葉市緑区平川町。

柿餅               さけほりしの郷
  一 丗五石四斗一升二合      一 丗七石五斗三升七合
※ 柿餅(かきもち)- 現、大網白里市柿餅。

埴谷の郷             北塚の郷
  一 千弐百七拾弐石一斗三升八合  一 百六拾八石三斗三升弐合
※ 埴谷(はんや)- 現、千葉県山武市埴谷。
※ 北塚(きたづか)- 現、千葉県茂原市北塚。


丹尾の郷             清名幸谷
  一 八拾五石八斗九升       一 弐百丗八石三斗壱升三合
※ 丹尾(たんのお)- 現、千葉県東金市丹尾。
※ 清名幸谷(せいなこうや)- 上総国山辺郡清名幸谷村。現、千葉県東金市。


仏島の郷
  一 百七拾五石七斗八升七合
※ 仏島(ほとけしま)- 現、千葉県大網白里市仏島。
    以上、拾五郷
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「家忠日記 五」を読む 30、 若狭小浜の小旅 1




(小浜の明通寺、国宝の、本堂と三重塔)

帰郷二日目の6日、次兄夫婦と若狭に行った。どこへ行きたいかと聞かれ、前回舞鶴まで行ったから、今回はさらに足を伸ばして、若狭の小浜へ行くことにした。高速道路網が少しずつ伸びて、若狭へも車でそれ程無理なく、日帰り出来るようになった。小浜へは昼頃に着き、昼食のあと、そこで頂いたパンフを見て、小浜に数ある古刹の中から、三重塔があるという理由だけで、明通寺というお寺を選んで出掛けた。

真言宗御室派の明通寺は坂上田村麻呂の創建と云われ、本堂と三重塔は国宝に指定されている。もっとも本堂、三重塔ともに、鎌倉時代中期の建築で、創建当時の堂宇は何も残っていないと、本堂で青年僧が案内してくれた。また、本尊は薬師如来の座像で、脇侍には通常、日光、月光菩薩像が立つところ、ここでは、厳めしげな、深沙大将、降三世明王が守っている。この組み合わせは珍しいものだという。

内陣は自由に拝観下さいと、案内を終えた。内陣を終えて出てくると、青年僧は縁へ出て、スマホに一心に見入っていた。今時の僧らしいと思う一方、剃髪もしていないから、まだ得度したわけではないのだろうと思った。あるいは、ちょっと変わったバイトなのかもしれない。(つづく)

「家忠日記 六」の解読を続ける。

 天正廿年(1592)辰二月
十六日丁未 小笠原三九、ふる舞い候。
十七日戊申 富長三右衛門所にふる舞い候。
      夜、、三九所へ越し候。馬をくれられ候。
※ 投(とう)- 投宿。宿屋に泊まること。宿をとること。
十八日己酉 
十九日庚戌 晩より雨降る。忍の城渡して、新郷より舟にて出で候。
      富長三右衛門に刀出し候。名倉喜八へ長刀出し候。
廿日 辛亥 夜、雨降る。矢作まで越し候。
※ 矢作(やはぎ)- 現、千葉県香取市本矢作。

廿一日壬子 かないとまで越し候。
廿二日癸丑 雷、雹(ひょう)降り候。上代まで着き候。
      小海川にて、吉田佐太郎ふる舞いにて、馬をくれ候。佐太に刀を出し候。
廿三日甲寅 
廿四日乙卯 夜より雨降る。小見川より鱸小吉、舟方を切り候。
※ 小見川(おみかわ)- 現、千葉県香取市小見川。(小海川)小見川藩があった。
廿五日丙辰 雨降り。

廿六日丁巳 雨降り。
廿七日戊午 雨降り。伊勢御師(おし)、弥五郎越し候。
      小見川宿、おいゝ尉越し候て、葦毛の馬をくれ候。
※ 葦毛(あしげ)- 馬の毛色のひとつ。一般に灰色の馬のこと。
廿八日己未 雨降り。
廿九日庚申 雨降り。
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「家忠日記 六」を読む 29

(合併して大きくなった、故郷、豊岡市の市役所)

城崎町、竹野町、日高町、出石町、但東町の5町が旧、豊岡市と合併して、新、豊岡市が出来た。その市役所は豊岡市の市役所のあった場所に建設されたが、子供の頃に親しんだ旧市役所が前側に残されているのは、我々にとって何とも嬉しいことである。

8月4日の書き込みで、故郷の父が昔、ケシの花を育てていた話を書いた。故郷の次兄が、その書き込みに反応して、コメントを書いてくれた。それに気付かずにいたが、帰郷した折りに本人より話があった。帰ってから確かめると、以下のようなコメントであった。

けしの花で思い出したのですが、昭和30年ころであったと思う。確かに畑にけしの花が、観賞用に植えられていて、その中に、鬼げし(栽培禁止)の品種が含まれていて、畑の隣が病院だったので、保健所に通報されて、保健所から、すぐに抜いて持ってくるようにとの指示があった。

4~5本だったので、すぐに根から抜いて、保健所に持っていった記憶がある。以来、けしの花は作っていないが、最近になって懐かしくて、ポピーを咲かせてみたいなあと思っている。


自分はまだ小学生、次兄は中学生か高校生だっただろうか。記憶と云うのはあまりに朧げで、間違っていることも多い。

ところで、先日、10月開催の、高校の同窓会の通知が来ていた。卒業から半世紀経つが、遠隔地の事もあり、今まで何度もあった同窓会には一度も出席していない。今度は、古希記念といい、場所も城崎温泉で、甥っ子が板場に勤めていることもあり、出て見ようかと迷っている。半世紀の空白に、どれくらいの記憶が残っているだろうか。浦島太郎状態になってしまうのも辛いしなぁ。

「家忠日記 六」の解読を続ける。

 天正廿年(1592)辰二月
 二月小
一日 壬辰 下総知行へ、忍より修理を越し候。
      下総知行へも、原田内記を越し候。
二日 癸巳 家康様、唐入りにかぬ川(神奈川)まで御出馬候。
      御送りに日比谷まで参り候。
三日 甲午 知行残り五千石の事に、小田原まで酒井平右衛門越し候。
      雨降り。忍へ日掛けに帰り候。
四日 乙未 会下へ参り候。
五日 丙申 

六日 丁酉 
七日 戊戌 雨降り。
八日 己亥 知行より喜三帰り候。
九日 庚子 内方、やいとう(灸)する。
十日 辛丑 会下へ参り候。

十一日壬寅 彼岸に入る。
十二日癸卯 
十三日甲辰 
十四日乙巳 江戸より、小笠原三九越され候。
十五日丙午 
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