河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1367- エド・デ・ワールト ポール・ワトキンス ロイヤル・フランダース・フィル シューマン チェ

2012-06-21 19:53:22 | インポート

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2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2011-2012シーズン
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2012年6月18日(月)7:00pm 東京文化会館
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シューマン チェロ協奏曲
 チェロ、ポール・ワトキンス
(アンコール)
バッハ サラバンド
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マーラー 交響曲第5番
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エド・デ・ワールト 指揮
ロイヤル・フランダース・フィル
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席位置のおかげもあるかもしれないが、サントリーホールとは比べ物にならないほど質のいいチェロサウンドの響きがしっくりと終わって、後半のマーラー。
一言で言うと、弦のオケですね、ブラスとウィンドはこれから、機を待つことにしたい。
管の切れ味が今一つ、また全体的にしっくりと尾をひかない。一流どころであれば、切れ味鋭く、また一見背反的ではあるが、しっとりと艶やかな髪のように尾をひく様な余韻があるもの。ちょっとボテ系サウンドでした。管のメリハリが求められます。どっちにしても、今の日本のマーラークラヲタ連中が満足する響きまでには至らなかった。女性のホルンソロは頑張っておりましたが。このかたどなたでしょうか。都民劇場主催公演のプログラム冊子はチープなもので来日オーケストラのメンバー表もない。見開きの最初のページには古色蒼然たる團伊玖麿によるマーラー紹介みたいな文章が載っていて、明らかにあまりにも古すぎるこの文を見開きに使う意味のあたりを書いてればまだ懐かしがる向きもあれ、だまっていたら、なにがしかの書物に載せるものの差し替えミスか、みたいな妙なプログラム冊子ではあった。ということで誰が誰だかさっぱりわからない、それでもいいのではないか。という意見もありましょうがリストはあるに越したことは無い。イメージのふくらみが違いますしね。
オンステージで名前のわかった人は結局、チェリストのワトキンスと棒のワールトのみ。
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それでまずはGM5のタイミング。
Ⅰ:13分
Ⅱ:15分
Ⅲ:18分
Ⅳ:9分
Ⅴ:14分
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ワールトは現代棒振りとは異なりディテールに耽溺しない。最近の例で言うと例えば上岡のGM4のようにディテールへのこだわりの表現」の為のこだわり表現、みたいなことにはならない。こだわりのない演奏です。そうならざるをえない面が今のこのオーケストラにあったという側面もありますが。
一言、上岡に関していえば形式感への造形美学的深い理解がまず最初にあってそれから崩しにかかるならわかるが、そうなってはいないと思う。GM4では変形し過ぎて今どこにいるのかわからなくなるぐらいの個所もありましたし、物珍しさを聴けて良かったというならそれはそれで別に悪い話ではないが、とにもかくにも、今のままなら一流どころのオケを手中におさめることはできない。形式感の理解が必要と思います。まず普通の演奏で聴衆をうならせるのが先です。西洋音楽への理解に関して非常な疑問を持ちました。
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ところで、ワールト。
結構隙のある棒で、例えば折り目正しい演奏が演奏評価を決めるなんて思っていない。かといって、サウンド表現、響き、音色のバランス等に極度にこだわりがあるわけでもない。ですから濃厚な演奏では、もともとない。
70を越えて、顔つきはクナッパーツブッシュとスヴェトラーノフを混ぜ合わせたような雰囲気になってきましたけれど、音楽の表現はあくまで自然体であるかなと思います。若いときに振ったいわゆる現代音楽のCDをたまに聴いたりしますが、あの時代、演奏できるだけでしあわせだった。聴けるだけでしあわせだった。今は違う。
オーケストラ団員の信頼度は高いと思いました。今のところ、この人についていけば間違いはない、そんな顔がたくさんありました。以前ゲルギエフのもと、キーロフ・オペラのオーケストラ演奏で見た団員の顔を思い出しました。
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それでマーラーなんですが、第1楽章からサウンド的には、管の切れ味が今一つ、尾をひかない流れ。換言するとシャープさと香りがない。
下降線を描く主題は管も弦も骨太でかなり濃く表現しておりました。きっちり主題を出していく本来の路線。
第2楽章の第1主題は結構な爆速。激しい演奏ながら踏み外している感覚はない。長い楽章ながら最後のファンファーレまで緩めることなく進行するあたり、やっぱりワールトの腕が光る。
第3楽章
ホルンソロ頑張りました。肩の力を抜いた軽快な雰囲気が出てくればもっとうきうきしたものになったと思います。全員で一人、みたいなこの楽章のホルンたちですから、まぁ、良しとしましょう。
問題はやっぱり管、ウィンドとブラスで、なんといえばいいのかわからないが、アインザッツは合っているんですけれど、転換するフレーズの節目のところで(前後で)、モヤモヤっとしてて音楽がしゃくりあがらない。うまく言葉で表現できないのですが、例えば第5楽章結尾のブラスの遊びの前のウィンド全奏によるトリルのところでもしゃくりあげるような輝ける遊びのような響きが今一つ伝わってこない。爆発的な明るさがうまく表現できていない。同じです。
この楽章は終楽章のように突き進む音楽ではないけれど、鳴らしきらないといけないので、管は非常に難しいと思います。裸の音が楽器を変えて次から次と大変だと思います。一流どころだと何事もなかったかのように、インストゥルメント毎の音色変化の旋律を聴けますよね。
結局、オケ全奏でもモゴモゴ、アンサンブルでもモゴモゴ。ワールトはトレーナーの棒ではないと思うのでオーケストラがステップアップするには相応の棒振りが必要でしょう。それか高スキルメンバーに衣替えするか。衣替えにしてしまうと急にインターナショナル化し、即、文化の平板化の罠にはまる。つまり、ヒマラヤの山頂の小屋で「なんで、ウォシュレットがないんだ」という、どこに行っても同じ音が鳴り響く、文化の平板化に陥ってしまうだけなら、わざわざ外国からオーケストラが公演をしに来る必要性もなくなる。濃度の高い演奏は難しいと思うが努力し甲斐がある。今後に期待。
ここまででだいたい第4楽章の雰囲気はつかめます。粘らず溺れず停滞せず、意識してどうのこうということもない、力まず、あっさりとしたものです。むしろ、よく9分もかけたなという感じです。ここでは弦の力強さと響きのまとまりを聴くことが出来ました。大変に素晴らしい演奏だと思いました。気持ちがはいっている。
因みに最近の演奏スタイルのはやりは、粘って溺れて停滞する。です。このこと自体に意味をみいだそうとすると、奇を衒うだけの、造形がバラバラな演奏となってしまうと思うのだが、なぜか拍手が多いのは、時代の流れなのか?みんな聴きこみ上手?
第5楽章、
吹っ切れた遊びの軽やかさは今一つ表現できておりませんでしたが、それは既述したようなことだから突き抜けたような喜びの表現は途中からあまり期するものではありませんでした。プレイヤーは肩の力を抜けばいいと思うのですが、みんな結構、気張っていてサウンドはでかいがちょっと押しつぶされたような感じになってしまいストリング以外、響きの美しさがあまり感じられない。ウィンドの跳ねるような感覚を味わいたかったですね。
ただ、ワールトの主題を明確にする演奏は好感が持てます。第4楽章の節がそのままこの終楽章にあらわれてくるあたり、つながりの感動のようなものをより強く感じることができました。一貫した表現でした。
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前半のチェロ協奏曲は、自席がだいぶ前だったせいもありますが深くて潤いのあるチェロサンドを満喫できました。濃い表現で上から下まで押しなべて均一的であり非常に正確で丁寧、そして豊かな膨らみの表現は予期されたものとはいえあらためてこの楽器の魅力を伝えるのに十分な演奏であったように思えます。
問題は曲自体にあり、形式感をもっとメリハリがきく様な形で作り上げていればこのように単調な曲にはならなかったと思う。色が最初から最後まで同じ、モノトーン風。二三十分同じ調子の伴奏が続くので、聴く方もポイントを予めきっちり決めて聴かないと、辛い部分がある。
ワトキンスは幅の広い温かみのある魅惑的なサウンドで上野のホールによく響いておりました。アンコールも良かったです。
終わり
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