河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1368- 都響、大野、浄夜、シマノフスキー庄司紗矢香、オケコン2012.6.19

2012-06-26 20:47:47 | インポート

2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2011-2012シーズン
.

.
2012年6月19日(火)7:00pm
東京文化会館
.
シェーンベルク 浄められた夜
.
シマノフスキー ヴァイオリン協奏曲第1番
 ヴァイオリン、庄司紗矢香
.
バルトーク オーケストラのための協奏曲
.
大野和士 指揮 東京都交響楽団
.
二日続けて東京文化会館に。
少しドライながら芯が明確で響きの美しいホールであるとあらためて認識。最近このホールを使うオーケストラが少なくなってしまったのは残念。
4階席に座ったが見晴らしが非常によく、5階の屋根も被らず、響きが良い。5階席はもっといいはずだ。何しろ上に屋根がなく天井があるだけなのだ。(昔頻繁に通ったのに忘れていた!)
4階席に座ってもNHKホールの場合の3階席とは異なりステージとの距離感をあまり感じさせない。弦楽器だけの曲でもよく通ります。
.
ということで、浄夜から始まりました。一言で言って、全くもたれないもので見通しのいい演奏でした。大野はこの春にリヨンでパルジファルを振ったとプログラム冊子に書いてあったからか、この浄夜の響きはまるでパルジファルの後編のように響いてきました。彼はパルを通り過ぎたのかなということは無いと思うが今通過しているのだろうか。肉厚ではなく薄くなりつつある弦、多様性重視の響きのあやがすぐそこかしこにあるような妖しさ。パルジファルでももはや重すぎて、なにかワーグナーの香りはするがもっと軽い。軽いというのは妙な表現だが、これはオーケストラの能力にもかかわっているな、きっと。
重い低音もグイッと持ち上げられて引き締まったサウンドは好調の印ではないのか。昔、カセットテープを鳴らした後で、オープンリールのテープを回すと、低音がスピーカー上部に定位して持ち上げられたように引き締まって聴こえてきたものだ。あの感覚に近い。
ストリングの織り成すあやの美しさは全くもって素晴らしいもので、なぜか作曲年次のあたりにワープしたような錯覚に陥る。大野はスコア無しで振っていたが、どのように記憶してイメージして振っているのかな。フォルムのようなものをまず一番にたたきこんでそこからイメージの増幅をはかっているのかな、それとも「浄夜」の感覚棒なのかな。どっちともとれそうだが、この引き締まり方はやはりフォルムから入っていると思える。このようなスタイルでうならせることをできる演奏を実現できる指揮者はそうはいないと思います。一大イベントのように力で振るのではなく、歴史の転換点にありながら、でもあくまで当時の現場からの声のように端正に鳴る音は美しいものだ。筋肉質でいて憂いを含んだたっぷりの30分でした。
.
2曲目のシマノフスキーは響きがユニークで面白かった。この日は3曲並べてあったが前半をどちらか一曲にしてしまっても成り立つプログラミング。カラヤンのあたりから演奏会の時間が短くなってしまい、時間単価のチケットではないのかもしれないがちょっとやりきれないところもある。私の知っている限りの最短は、

.
プロコフィエフ 古典交響曲
ベートーヴェン 運命
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル

.
正味45分。カミタソのプロローグぐらい。
このような演奏会に比べ、この日の演奏は質・量ともに充実しておりました。
.
話しが飛んでしまいました。シマノフスキーの響きはヴァイオリン協奏曲ということを横に置いても、ユニークな響きが多くきらびやかさとドライさがブレンドしている。もっとウェットな音楽をイメージしていたのだがちょっと違った。面白い曲ではある。
比較的長めのプログラムの2曲目として彼女が登場してくるあたり、東京フランチャイズといったところなのかもしれない。ビッグな演奏家の地元における日常性のようなことを少し感じた。
ヴァイオリンと伴奏オケとの兼ね合いについてはよくわからない曲でした。

.
後半のオケコンは個人的には食傷気味の曲。もう聴かなくていいというぐらい聴いているわけではないが、それでももういい。弦チェレとかマンダリンだったらやる気(聴く気)もでてくるのだが。
オケコンというぐらいだから、メンバーも指揮者も腕まくりに違いないと思います。あらためてこうやって4階席からみているとオーケストラの為の協奏曲という割にはブラスの休みが少し多いかな。大野は浄夜と同じく譜無しで振ってましたがちょっとどこだったか忘れましたけど第1ヴァイオリンパートへの空振り指示があったような気がしましたが。
演奏は低弦パートが上に押し上げられたような音(ミュンシュ&ボストン響のような響きの軽さ、といったら古すぎるか)で引き締まっており、好調なオーケストラであるとの実感は浄夜で感じたものと同じ。
オケコン食傷気味については個人的なものです。この日のプログラミングはバランスのとれた充実したものであったと思います。指揮者の意欲的な気概も感じました。
.
指揮者の方向感、日本国内だけで振っていたらずっと定まらない、そんな気がいつもします。ある特定の作曲家を継続して振ることのできる指揮者は幸せですが、そのようなことと方向性とは必ずしも一致するものではないような気もします。一般にプログラミングは総花的で指揮者の意思とは少し違うかなと感じたり、はたまたオーケストラビルダーの日本人指揮者は国内で活躍しているのかななどとも思います。
指揮者が集中的に勉強して曲をかみ砕き再創造する、そのときは。
でもみていると指揮者の上を曲が通過しているだけなのかなとも思います。また、オーケストラの上をいろんな指揮者が通り過ぎて行っただけ。
ちょっとむなしさがあります。踊りたくはないが、踊らされている。そんな感じ。
大野は、そうはみえません。
おわり

.


人気ブログランキングへ


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。