河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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2742- グラス、2人ティンパニスト協幻、ショスタコーヴィチ11番、井上道義、N響、2019.10.6

2019-10-06 23:16:57 | コンサート
2019年10月6日(日) 3pm NHKホール

フィリップ・グラス 2人のティンパニストと管弦楽のための協奏的幻想曲(2000年)
 5-10+4+6
 ティンパニ、植松透、久保昌一

Int

ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調Op.103  16+12+20+15


井上道義 指揮 NHK交響楽団


グラスとショスタコーヴィチ。なかなかいいコンビネーションのプログラム。指揮者とオケ、こういったプログラムはツボな感じ。聴く前から冴え冴えとした雰囲気が漂う。

グラスの作品をこれまで沢山聴いてきた中、この2ティンパニストの作品は初めて聴いた。喜びもひとしおだ。
ティンパニは指揮者の手前中央、左7個、右に8個。オケは14型でオケにティンパニは無しで、それ以外のパーカスが充実。
いきなり印象的な変拍子。明るいグラス。伴奏オケはグラス独特の息の長い同一音高でシンコペーション。この長さが難しい打楽器、だからティンパニストが2人要るのかな、などと最初は思ったりしたがそんなことはなかった。インド風味な叩きが激しい。叩きの激しさが少しグラス越えのようにも思えた。この楽章お仕舞はカデンツァで変拍子が回帰。
中間楽章は静けさ。初楽章の息の長い音をバックにミニマルな刻み節が陰陽を添加。この楽章が一番グラスらしいかもしれない。カデンツァがあってそのまま抜けるような終楽章へ。シンコペーションより弦のギザギザが強調されていく。音楽は激しさを増しジョン・アダムズ方面へのめっていくように終わる。
彼のひとつのアイデンティティーともいえるインド風味のオリジナリティー、それにアメリカの現代の息吹きがうまくシャッフルした作品で、自分の持っている彼へのイメージがまたひとつ加わった。特に、アメリカの空気を今も吸い続けている印象が濃く有った。


後半は60分越えのタコ11。
ショスタコーヴィチは11番も含め演奏会で取り上げられることが多くなり、シンフォニストと呼ぶにふさわしい手応え満載の15個と言う事になる。ヘヴィー級の作品のほうが多く取り上げられるように見受けられるのは面目躍如といったところか。圧演が並ぶ中、この日のミッキーも会心であった。
ミッキー仙人の指揮振りを見ていると一筆書きの按配で、この作品は既に世間でもやり尽されたフォーマットが出来上がってきていて、内容の理解も進んでいるものなのだなあと、そういったことが全て取り込まれたうえでの振りっぷり、そう思わずにはいられない。
4楽章の配分がもの凄く整っている。構成感がきっちりしている。仙人の棒というのはそういったことがデフォでオケメンにまで染みわたっている前提があっての振り姿。墨汁の水分多めに書き流された一筆書きそれだけで、音楽がきっちりと出来上がる様は見事というしかない。N響は仙人の振りと作品の有り様、両方を咀嚼している。唖然とする腕前で作品がパーフェクトフォームにそびえ立つ。こんなクリアな演奏無い。重く暗い作品ではなく実にわかりやすい。深刻な内容の標題音楽が中身は別にして、もしかして案外スルっと書けたのではないかと思える見事さだ。

ここ何年かで、ネルソンス&ボストン響、ラザレフ&日フィル、カエタニ&都響。古くスラットキン&セントルイス響。と聴いてきてやはり聴き手に集中力を強いる曲という観念はあります。一度、標題系のことを横に置いてピュアなシンフォニーとして聴いてみるのもいいと思う。ショスタコーヴィチのいわゆる3楽章構成(似たバランスの物も含め)の作品と違う出来上がりフォルムであってそういったところに重きを置いて聴くのもいい。作品の造形を作りやすそうというのはありますね。ミッキー仙人とN響のコラボはなにか明るさも漂う。清涼感とでも言おうか。不思議な感興に浸った。この作品を作った経緯は当のショスタコーヴィチは口をつぐんで、血の日曜日か、はたまた、どこかに真意が。
思わせぶりのミッキー仙人の秀逸な解釈によるスペシャリスト集団による充実した演奏でした。
おわり