河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1797- 椿姫、ボブロ、ポーリ、ダザ、アベル、ブサール、東フィル、新国立2015.5.10

2015-05-11 01:14:42 | コンサート・オペラ



2015年5月10日(日) 2:00-4:50pm オペラパレス、新国立劇場、初台

ニュー・プロダクション プレミエ、サンデー・アフタヌーン
新国立 プレゼンツ
ヴェルディ作曲
ヴァンサン・ブサール プロダクション

椿姫

(キャスト) in order of appearance
1.ヴィオレッタ   ベルナルダ・ボブロ
1.アルフレード   アントニオ・ポーリ
1.ガストン子爵   小原啓楼
2.アンニーナ    与田朝子
3.ジェルモン    アルフレード・ダザ
4.フローラ     山下牧子
4.ドビニー侯爵   北川辰彦
4.グランヴィル   鹿野由之
5.ドゥフォール男爵 須藤慎吾

新国立劇場合唱団

イヴ・アベル 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

(duration)
前奏曲 4′
第1幕 27′
SB 3′
第2幕第1場 39′
Int 30′
第2幕第2場 20′
SB 4′
第3幕 31′



新国立の椿姫、2002年から2004,2008,2011と舞台に上がったルーカ・ロンコーニのプロダクションに続く、今度はヴァンサン・ブサールによる新国立2回目の演出。
この日はそのブサールの新演出の初日公演です。
新演出ではなく新制作と言う言葉を他の出し物でも使っていますが、ここの英語のパンフはニュー・プロダクションとなっています。
なぜこのような日本語になっているのかわかりません。最初の頃は新演出と言っていたように思います。

ということで新制作のプレミエです。この日から6回公演です。
始まる前にタイムチャートみてがっくりしました。予想してはいたのですが、2枚組CDの取り替えと同じところで休憩。つまり第2幕の途中で30分の休憩がはいります。どうしても休憩は1回にして早く終わりたいようです。この日の出し物に限らず昨今は休憩省略公演が多いですね。
椿姫は第1幕があまり長くないとはいえ、ショートブリーフ3分で第2幕第1場へ突然移ってしまう違和感はかなりのもの。これだけでもマイナス要素強い。指揮者のアベルは極度のピアニシモ前奏曲から割とゆっくり目で結構ロングな1幕となっただけになおのこと余韻を楽しみたかった。この最近の流行りは本当によくないと思う。2回休憩取ってください。誰に言えばいいのかな、最後に出てきたブサールさんかな。
後半第2幕2場からいきなり第3幕へのヴィオレッタのメイクチェンジも大変だと思いますが、それ以上にぬぐい難い違和感、ピアノ蹴散らしその上で踊っていた連中の残像ありまくりな中、時をかまわずいきなりそのピアノがヴィオレッタの死の床となり現われるのですから。

演出は秀逸でしたので、誰の意向かわかりませんが、このような愚策は即刻改善してほしいものです。


演出を手掛けたブサールの記では、床は鏡、時代はいろいろな設定から引っ張り出している。最初から最後まで舞台のキーとなっているピアノも椿姫原作以降の時代物。どこかのホワイエ設定も。
当時だけでなく種々の時代のものから現代を考えたいと。

床の鏡効果は満点で光と影の屈折した色模様が美しい。また床だけでなく壁も同じく鏡で聴衆から見て水平と垂直の境目がわからない。面白いセッティング。
また、舞台中央は鋭角な床がオケピットの上まで突き出ていて、そこでの演技、歌唱が頻出。舞台かなり前方でのプレイが多い。
パーティーは昔のような脂ぎった埃っぽさが皆無で、現代のスタイリッシュなおもむきが良く出ている。鏡効果も満点。
乾杯の歌の後、ヴィオレッタ一人になり歌うアリアでは、ボブロはひと時、舞台前方で横になり床の鏡にほっぺを押し付けて歌う。これは鏡に映る姿と自分が上下に映り、なにやら意味深いものを感じさせてくれる。鏡は全てを抽象化する。この横歌いのせいでもないと思うが、ボブロの声の方は、最初はなんだかあまり張りが無く、あとの第3幕の病気局面に向けてだんだんと馬力が出てきてよく声が通るようになってくるという妙な具合。いきなりエンジン全開の歌ではありませんでした。とはいえ、
ピットの真上で、一人で歌う第1幕、やっぱりある程度ケツまくって挑むしかない。本当にたくさんの聴衆の前で一人ぼっちでアリア歌うのですからね。実力と度胸。
このアリアの節回しは慣れた具合で、際どさもありましたが、このオペラの場数を踏んでいそうで、そういう意味では安心感をもって音楽に浸れました。

ピアノが舞台中央にあります。ピアノは音楽そのものと言う雰囲気で、第2幕では机代わり、宴会テーブル代わり、そして第3幕では死の床になります。ずっと音楽があったわけです。


第1幕パーティーから、既に一緒に暮らしている二人の生活感さえにじみ出ているシーンの第2幕第1場まで3分。この違和感。プッチーニのボエーム第1,2幕の連続技は速ければ速いほど効果的なわけですが、あれとはまるでシチュエーションが異なる劇なわけで、どうしても一服必要だと思います。こちらの気持ちモード変更がうまく出来ない。この場切り構成は、例え劇が成功してもマイナス方向への要素しか持ち得ていない、よくないものです。
真ん中に例のピアノ、上方には空中停止のアンブレラ、さらに上には、空中停止の鳥たち、本当にシンプルな舞台です。
この第2幕第1場は長丁場でお三方のロールの心の葛藤が見事で聴きごたえのある場です。若さと老獪さがないまぜのような雰囲気がありましたけれど、素敵な舞台でした。
ヴィオレッタが最後にプレリュードのふしに乗せて、私が愛しているのと同じだけ愛して、と言う。でもそこは、You love me more than I love you の激しさなのです。役どころとしてはそこまで過熱していった感は徐々にありました。

ここでインターミッション。ノーコメント。

第2幕2場はパーティーの場、もちろんピアノもあります。ここのパーティーは第1幕の帰結編みたいなものですけれど、1幕が流れるような音楽とソリスティックな場面中心であったのと比べ、こちらはドラマチックな場面で、これが無いと第3幕へはうまくつながらないかもしれない。まぁ、ピアノの上で、あすこに手を当てて歌う局面もありますね(男)。
ここは合唱とオケ伴、指揮のせいもあると思いますが、隙間が長すぎ、空白がありすぎで、うまく音楽がつながっていかなかったきらいがある。ボッツンボッツンという具合で連鎖チェーンの感じられない演奏でした。回を重ねるとこういうところはうまくシームレスになっていくと思います。


第3幕の舞台は秀逸でした。
さっきまで蹴飛ばしていたピアノを4分で死の床に様変わりさせなければならない休憩無しの演出なのか初台の都合なのかは知りませんけれど、それは全く誉められたものではないですが、切り抜いて、観てみた第3幕は秀逸なものでした。
薄いしゃ幕のようなものが生側と死側が交わってはいけないもののように、ヴィオレッタとほかのものたちを柔らかく光りのひずみで分断する。幕のこちら側には今まさに天上に召されようとしているヴィオレッタ、幕のあちら側には生きている生側のものたち。その分断幕が光の反射、そして風になびき、まるで空気のひずみを表しているよう。死の床の空気は幕に沿い上の方にひずんでいる。そのように見えます。聴衆はそれを死側のヴィオレッタ側から見ることになる。劇のツボの中にいるような雰囲気を聴衆サイドは感じることになる。心理的な空気感をものすごく強く感じた設定と演出で、生の世界から乖離、はがされていくヴィオレッタのシチュエーションをものの見事に表現していたと思います。
この3幕の舞台演出ではヴィオレッタは最初から死んでいるという理解でいいと感じさせてくれます。最後に、ぁあ体が軽くなる、のセリフは死後のセリフと思いますが、この演出では最初から死んでいる。
死の空気のゆがみの表現が秀逸でした。

3人のロールはおしなべてしり上がりに調子を上げ、特にタイトルロールのボブロさんは役と本人の境目がわからなくなるほど鬼気迫る没我白熱の歌と演技となりました。そして最後はピット上に突き出た鏡の上で果てる。背中の緞帳落ち、照明落ち、舞台前でエンディング。

色々と美しい仕掛けは多数あれど、それらは奇を衒うことを主としない演出で、ストーリーの意味合い強調に一役買うことはあれど場を乱すことは無い。大胆な構図から繊細な動きまでおしなべて美しい舞台。脂ぎらないスッキリとした動きや背景。良かったと思います。カーテンコールでは演出のブサールさんにも拍手喝采。


初めて椿姫を観たとき、第1幕25分ほどで終え、なんだ短い第1幕だなと思うまも無く、40分の休憩で、まわりのみなさん食事。ほーなんとアメリカのメトはさすがにやることがちがうなぁと思ったりした時代、いまでは初台でも同じようなことをする時代。まさに隔世の感。1幕2幕のあときっちり休憩のある時代でしたけれども。
アルフレードの声が出れば、ヴィオレッタもつられて声が出る。それぞれの相乗効果でロールたちは風を切るような研ぎ澄まされた歌での熱唱の上演がいつ果てることも無く幾度も幾度も繰り返されていたのでした。

おわり