河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

943- 今年も第九いきました。2009.12.26東フィル

2009-12-27 19:29:56 | インポート

2009-2010シーズン聴いたコンサート、観たオペラより。

20091226()15:00

オーチャード・ホール

.

ベートーヴェン/序曲「コリオラン」

.

ベートーヴェン/交響曲第9

.

ソプラノ、中嶋彰子

アルト、山下牧子

テノール、笛田博昭

バリトン、甲斐栄次郎

.

オンドレイ・レナルト 指揮

東京フィルハーモニー管弦楽団

東京オペラシンガーズ

第九の日にもう一曲というプログラムは久しぶりに聴いた気がする。いつ頃からか、たぶんカラヤンのせいだと思うのだが、一曲で終わってしまうケースがめっきり増えてしまった。今日みたいな日は第4楽章だけ聴けば気が晴れて帰路につける聴衆が多いのでそれはそれでいいのだろうが、こうやって一曲目のコリオラン悪くない。

ブローラのウィスキーをごくりとやるときなんだかステンドグラスではなく、ガラスにひびがはいったような割れたようなそんな趣と味わいのオーチャードホールのサウンドではあるが、ブローラほどには焦点が定まりきらず、音の中心が定位しないというもどかしさを感じないわけにはいかない。それでも平土間の前方に座ってみれば、直接音の響きを浴びることができるので十分な力強さを感じることができる。

コリオランの第一音は揺れていた。ストリングのヴィブラートがかなりきいている。弦の全奏がなんだか湯気が立つように歌っている。東京フィルによるオペラが始まるような錯覚。ヴァイオリンは6プルト、弦がかなりの厚みで聴こえてくる。年末の全員参加なのかな。とにかく弦の迫力がものすごい。もういちど埃の中へ向かった解釈ではあるまいがこのような超ヘヴィーの演奏もたまにはいい。

レナルトの棒は初めて観る。1942年生まれというから、バレンボイム、レヴァインあたりと同年だが、あすこらへんの指揮者が既に功名乗りを上げて炎の核を求め始めているのとは少し違い、たぶんまだまだ振り続けなければならないと察する。一気に10ページぐらいスコアをめくっての指揮ならば暗譜でもいいようなものだがそうもいかないのかもしれない。

4楽章コントラバスによる歓喜の歌への間髪をいれない入り方、最後のコーダの倍速、など局所的には特徴的なところがあるが総じて音楽の流れを崩さない。断面の切り口で見ればときにゆるいと思われる個所もある。東京フィルは鳴りが完全に弦主体であり、特にコントラバスのうねり、頑張りがすごかった。ベートーヴェンはあたりかまわず高弦セクションと同じような苦労をコントラバスに課しているのがよくわかる。このホールのせいか座った席の関係か、低弦の響きがすごく、地響きをたてる。

但し、アウフタクトが甘いのは棒のせい。

.

歌、この4人のソリストのようにオペラを十分にこなしている歌い手にとって、第九はへでもないと思う。だから難しいということもあるが、そこまで掘り下げる前に曲は終わる。

個々人の技量、4人のバランスともに良いものでした。

オーケストラの奥に陣取った合唱、たぶん締りのいい声だと思うのだが、ホールの響きにそのよさを放射できずに拡散。

.

構成のぶち壊し、再創造。ベートーヴェンはこの交響曲でそのようなことをした。

23楽章の入れ替え、声の導入。古典の構成美に浸りたいものにとってこれだけで十分壊された。だのにまるで初めて創造されたかのような音楽の感動に浸ることができるのだ。

2楽章を待つまでもなく、第1楽章第2主題で既に歓喜のモチーフがあらわれ、潜在意識下では‘第九’は始まっているとみるべきだろう。

ベートーヴェンの強固なモチーフは構築美をいつも感じさせる。主題がいくら強固であっても連関のないシンフォニーは建築物とはならず崩れさる。そうでないのがベートーヴェンということになるのだろうが、すべてのモチーフは関連し合い第4楽章に向かい集中度を高めていく。第4楽章冒頭の第123楽章主要主題のぶち壊しは、あふれ出るメロディーの否定ではない。昔はそのような変な聴き方をしていた頃もあった。モチーフの否定はメロディーの否定だと思ったのだ。後発のチャイコフスキーなみとはいかなくても、それなりにわかりやすい主題がそろったベートーヴェンの曲ではある。もっと深読みすべきだったんだ。子供なりに。

この終楽章冒頭の既出主題否定はそれまでの長さを感じている身にとってはなんともむなしい限りではあるが、新たに創造した曲の中でベートーヴェンは再度ぶち壊した。そして全否定をしてから正しい音楽の喜びを歌う。ベートーヴェンの極めつくし。一人の作曲家の才能と真剣なひねり。これを年末だからと言って猫も杓子も的に出かけて聴きに来るのはいいが、このような聴き方もたまにはいいのではないか。

ベートーヴェンの純正シンフォニーに声をいれたその影響は非常に大きいもので、凡百河童がどうのこうの言えるようなものではないが、発想のつながりとして、いつも思い出す曲がある。シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番。この四重奏にはソプラノが付いている。シェーンベルク初期の曲。ぶち壊しの最中か。

あと、第23楽章については、ブルックナーの交響曲第8番第9番。第8番は知っての通りだが、加えて主題に関していうと、第九のような否定はないが、コーダで第4楽章の主題を含め第1楽章以降の主要主題が全部ほぼ同時の時間的流れのなかで出現。これはこれでとんでもない。また、ブルックナーの第9番は第3楽章まででこと切れた。その第3楽章がスケルツォだったら、ありえない。エロイカがスケルツォでこと切れた時のことを思えば想像に難くない。

それと、マーラーの交響曲第6番。この曲についてはアンダンテ楽章とスケルツォ楽章の入れ替えの選択可能性がある。形式の自由度が極まった感があるが、そこまでしてもいまだフォルムの呪縛はあるわけだ。フォルムがなければこの芸術は完成したものとはならない。そうゆうことなのか。

おわり

人気ブログランキングへ