河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

736- レナード・バーンスタイン ウィーン・フィル カーネギーホール1984.2.29 =1=

2008-12-25 00:13:51 | 音楽

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前回のブログで書いた3連続公演の初日の模様です。

言葉足らずなところや、今だったら普通、みたいなところがありますが、当日の模様を感じたまま書いているようなところがありますので原文を崩すことなくアップしてみました。

1983229()8:00pm

カーネギー・ホール

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ハイドン/交響曲第88

ベートーヴェン/交響曲第3番エロイカ

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レナード・バーンスタイン指揮

ウィーン・フィルハーモニカー

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今日から3日連続でバーンスタイン指揮ウィーン・フィルによるニューヨーク公演が催される。このような公演が日本で行われたらおそらく大変な騒ぎになるはず。おりしもバーンスタイン&ウィーン・フィルによるベートーヴェンやブラームスの交響曲全集など、このところ一段とバーンスタインの素晴らしさが取りざたされているずなのだから。

バーンスタインは年にもめげず、まるで蝶のように舞う。特に後ろ姿は非常に大きく見え、ときに背を丸め肩をいからせ、ジャンプするその姿はなにか手造りのピノキオみたいである。正面を向いたときは背の高さをそれほど感じないが、後ろを向いたときの大きさとその表情の雄弁さはまさに現在のバーンスタインの音楽そのものである。

そして、ウィーン・フィル。いだいていたウィーン・フィルの音であった。

エロイカの第1楽章における再現部がひたすら熱をおびながら突き進む姿はウィーン・フィル以外のなにものであろうか!

また第3楽章のホルンの素晴らしさ。水面の上を白鳥が飛び去る見事さである。またアンサンブルの緊密さは逆に第2楽章のような緩徐楽章でこそ示されるのだということをウィーン・フィルは見事に我々に聴衆に示してくれた。

それにしてもだ。このところのバーンスタインの表現力の大きさ。というよりも明瞭な変化といっても良いかもしれない。

この前のマーラーの第2番(ニューヨーク・フィルハーモニック)でも感じたことなのだが、大きくロマンティックな方向に傾いているとでも言えば良いのか。特にマーラーに関して言えば、それなりに納得するのだが、ベートーヴェンに対してもこのような幅の大きな表現を見せるとは!

このベートーヴェンは全く予期しない方向に進んでいってしまった。これはまるで、フルトヴェングラーではないか!

テンポの大胆な変化とその表現の大きさ。

完璧なアメリカ人と、ヨーロッパそのものといったウィーン・フィル。この一見、奇妙な組み合わせが、これほど熱のはいった、なおかつ息のあった演奏を生みだすとは。

4楽章、栄光のウィーン・フィルにふさわしいアンサンブルであり、それを包み込むようなバーンスタインのこれまた現在の評判通りの大きな解釈であった。

ウィーン・フィルのアンサンブルは第1楽章からやはり一味違うと思う。筆でそれを書くのは難しいが、特に弦の合奏は普通のオーケストラと異なる。それぞれのセクションが明瞭に聴き分けられるにもかかわらず、それぞれが一緒になったときのアンサンブルは微妙なものまで表現する歌そのものとなっている。もうこうなっては曲はいつまでも終わって欲しくなく、バーンスタインは第1楽章提示部をリピートしたが、私は望んだ、もう1回リピートしてくれることを。

また木管もやはり音が違う。なんと表現して良いかわからないが、とにかく素晴らしいの一語に尽きる。オーボエはいつも聴いているようなイメージとはちょっと異なり非常に大胆な音である。フルートの音は太く、クラリネットの音もなんとなくオーケストラ・ピットの底から湧き出てくるような音である。金管はまさに超一流で安定感そのものであり、節度がある。

そして、これらを指揮するバーンスタインは、まさにその第1楽章提示部からオーケストラを駆りたて、ひたすら突き進む。これはフルトヴェングラーではないか。

再現部導入のホルンが弦の上に乗って吹奏されるとき、ここにその熱い音楽以外の何ものが存在するというのか!

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2楽章があれだけおそいにもかかわらず、全く魅力的であるのはウィーン・フィルの音そのものに起因しているし、さらにバーンスタインの大胆にして正当な解釈に起因している。

ほれぼれするようなこの楽章のアンサンブル。そしてオーボエの他のオーケストラとはちょっと異なる音だが全く崩れを見せず、悲しさを表現するその様は、全てウィーン・フィルの自信。

そしてまたしてもやはりバーンスタインの表現が本当に光る。光り輝くと言っても良い。このようにひたすらロマンティックな方向に傾くバーンスタイン。表現力の大胆さが細部の正確さをなおざりにしていない。というよりも細部を正確に表現し聴衆に伝えたいためにこのようなおそいテンポを選んだとさえいえる。

中間部の静けさは清らかでさえあった。

そして第1楽章から引き続きこの第2楽章を眺めるとき、そこにはすでに全体の見通しに対する確かな理解がある。この動と静。音楽はつながった。

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3楽章は第4楽章の序奏であり、ほとんどアタッカで続く。

4楽章の変奏曲はひとつづつはっきり分かるように分けられ、テンポも自由自在である。ここはこの美しいメロディーに私たちはのめりこむだけでよいのであり、なにも考える必要はない。そしてコーダとともにエロイカは宇宙のかなたに飛び去っていく。

ポーズをいれて約1時間の力演であった。

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ハイドンはとりあえずの小手調べであり、あまりに曲自体が短いのでバーンスタインは第4楽章をもう一度演奏した。但し、このときはバーンスタインは指揮したといっても単に指揮台の上に立っていただけであり、なにもせず、ウィーン・フィルのそのアンサンブルを聴衆に示したのであった。

やはり、オーケストラのアンサンブルの素晴らしさはなにものをも超えている。ここには機能美よりも歌としての表現がある。音楽は美しく歌われなければならない。

残念なこと。

カーネギー・ホールはもはや名前だけである。

たしかに音は良いかもしれないが、椅子はきしむし、地下鉄の音はひっきりなしだし、車のクラクションまでよく聴こえる。

このホールの音響効果とエイヴリー・フィッシャー・ホールの居心地の良さを比べたら私は精神的な安心感ということで絶対に後者を選ぶ。

もう一度言う。カーネギー・ホールはあまりにもまわりの環境を含めて条件が悪すぎる。

おわり

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