河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

726‐ジョン・アダムズ フラワリング・ツリー 花咲く木 日本初演 大友直人 東響 2008.12.6

2008-12-07 12:19:39 | コンサート・オペラ

1

2



ジョン・アダムズの新作オペラの日本初演に行ってきました。
演奏に先立って演出家のお話を聞けるということで少々早めに行きました。

2008年12月6日(土)
サントリー・ホール
5:15pm
ピーター・セラーズ × 岡部真一郎
プレ・コンサートトーク

6:00pm
ジョン・アダムズ  オペラ「フラワリング・ツリー*花咲く木」
             全2幕、セミ・ステージ形式、原語上演、字幕つき
             日本初演

指揮 大友直人
演出 ピーター・セラーズ

クムダ ジェシカ・リヴェラ(S)
王子 ラッセル・トーマス(T)
語り部 ジョナサン・レマル(BsBr)
舞踊 ルシア・シディ
   エコ・スプリヤント
   アストリ・クスマ・ワルダニ

合唱 東響コーラス
   ソプラノ、49人
   アルト、47人
   テノール、36人
   バス、44人

2006年のモーツァルト没後250年にウィーンで初演。プロダクションのピーター・セラーズとの共同作業。
ストーリーは、
「貧しい少女クムダは花咲く木に変身できる。これを見た王子は彼女を嫁にする。彼女が目の前で木になるとき思いを遂げる。
王子の妹王女は、彼女に嫉妬し、何もしないと空約束し彼女に木になってもらう。その木を傷つけられた為彼女は元に戻れなくなる。
彼女がどこへ行ったのかわからない王子は失意の毎日。路頭をさまよう。
王女の姉に助けられた彼女は、疲れ果てた王子をそれと知らず救う。
そこでお互いわかり、王子は傷の手当てをし、彼女はもとの姿に戻る。」

といった感じ。オペラとはいえ舞台に上がるのは6人。そのうち歌うのは3人のみ。あとの3人は舞踊。そして後方に合唱。

舞台は、セミ・ステージとなっており、普段オーケストラが演奏するレベルには、通常通りオーケストラがいる。光は落とす。
オーケストラの後ろに高さ1メール強と思われる台を置きその上で歌、演技が行われる。ここがパフォーマンスの注目の的になるレベル。
このレベルには語り部が一人(バスバリトン)、王子(テノール)、クムダ(ソプラノ)。
それに舞踊が3人。女性2人。男性1名。ストーリーの展開にあわせてその意味合いを振りつけて踊る。微妙なジャワ踊り。

170人あまりの合唱はいわゆるP席に陣取る。後方レベルということになる。
サントリーホールにはオケピットはないのでここでやるとこうゆうふうになる。

オーケストラ、合唱はともに黒で固めた衣装で統一感がある。光る演技の台との対比がさらに際立つ。

ジョン・アダムズの作風は、最初ミニマル・ミュージックにはまり、実験音楽などを経て、ワーグナーのカミタソに行きついたらしい。これだけで何となくわかる。
冒頭、スティーブ・ライヒのミニマル風な高弦を伴奏に息の長いフレーズのメロディーが流れる。結局、ほぼすべてこんな感じだ。細かい刻みと骨太のオステナート風な旋律。
リボーンしたロマン主義音楽はかけらだけで、わりととっつきにくい節が続く。
4度の「変身」の部分で音楽は高まるが、プログラムの解説は紛らわしいが4度目の変身は木への変身ではなく元に戻る回帰の変身であろう。音楽的にもここがクライマックス。
第1幕に比べ、第2幕の音楽の動きは際立っており、ストーリー展開に味付けした音楽はオペラとしては佳作であるといえる。
モーツァルト没後250年のために書いたとはいえ、モーツァルトとの連関は「魔笛」にその軽さ、単純さ、にあるらしい。
それよりもこの多国籍、無国籍音楽の広がりが面白い。
ストーリーは南インド民話、ソリストの歌は語り部も含め英語、ソリスト以外の役どころはスペイン語の合唱で。王子役は大柄な黒人。
舞踊は3名ともインドネシアのジャワ舞踊の達人。振り付けも同時に担当。
南インド、インドネシアに行ったことがない作曲家アダムスはアメリカ人で、オーケストラ、指揮者ともに日本人。
統一感がないというよりも全て許容してしまうような作品ということだろう。こうゆう作品はシチュエーションをワーグナー並みに変えてもいろいろと面白いだろうし、演出の読み替えの可能性も大きいと思う。
その意味で、セラーズの出番も大いにあるということなのだろう。
紛らわしい名前のピーター・セラーズであるが、現存する演出家。その風貌は、ヴァイオリンのナイジェル・ケネディそっくり、もうちょっと言うと映画フィフス・エレメントに出てくる悪役ゾーゲをやっているゲイリー・オールドマンに似てるなぁ。奇抜な頭と衣装であったが、しぐさは第三帝国の首謀者を真似している確信犯とこちらは勝手に思っているが。

第1幕の冒頭から音楽は、ミニマル風な伴奏にオステナート風な旋律、と書いたが、逆かもしれない。
ライヒなら、オステナート風な伴奏にミニマルな主旋律。といったところか。
フィリップ・グラスの方向に向かわなかったアダムズには彼なりの世界があるのだろう。

語り部がストーリー展開を歌で示す。字幕つきであるため、聴衆は容易に理解が可能。字幕の効用は測り知れない。
役どころとしては、語り部は無関係であるため、実質2人。娘クムダと王子。
語り部のあとクムダの長大な歌から始まる。調性の意味合いはなく、かといって12音階風な無調性ではなく、なにかしら底の浅い鍋、フライパンに水を入れ、その水が沸騰しているような音楽が延々と続く。
クムダが歌うとき、その内容に合わせ女性2名の舞踊が絡み合う。その後入れ替わりに歌う王子のときは男性1名の面白い舞踊。
第1幕では2回「変身」が見られる。見られるといっても舞踊は単に踊っているだけであるため、そのしぐさからわかるだけである。ここらあたり本格オペラにはかなわない。聴衆としてもイメージの世界を広げていく必要がある。
1回目の変身はデモンストレーション、2回目は結婚した後、王子が見たいといった変身。
音楽はこの変身で盛り上がる。波が来る、といったほうがミニマル的にはなんとなくわかりやすい。個人的にはこのての音楽には飽きない。
合唱は176人。ものすごい数だが、圧倒的なサウンドで、色合いが東響のやや硬質で黄色い色合い音色によく合う。溶け込むといった雰囲気はなく、それ単独で非常に明快でクリアなサウンドが爽快に、気持ち良く響く。曲想、ストーリーとベストマッチな箇所での盛り上がりなのかどうか少し疑問なところもあるが、饗宴という意味では華麗で心地よい。
黒衣装で統一された合唱は、プロンプター代りに左右2台ずつ置かれたモニターを見ながら歌うため、わずらわしい譜めくりのスコアを聴衆は見なくて済む。余計な動きを排した演出はセミ・ステージものでもこれだけ可能になるわけで、セラーズの至れり尽くせりの演出は、自分がアダムスになったような錯覚、ある部分勘違い、許容されてもいいのかもしれない。
モニターであるが、バレンボイム&クプファーの2回目のリング・プロダクションでは、この種のモニターは露骨に聴衆にも見えるような位置にあった。プロンプターがいれるような場所がないようなプロダクション、手法はひとつ前に作られたものだ。(本来出てこないものは隠すべき、というのは成り立たなくなっている)
第1幕63分


第2幕はオペラとしては盛り上がらなければならない。ストーリー展開としてもそうあるべき。
第1幕で2回の変身を見せたクムダは、ここにきて王子の妹王女に言われ変身をしてみせるが、その時点で傷つけられてしまったため後戻りができなくなってしまった。変身も3回目まで来ると、この音楽にライトモチーフを感じることはできないが、音楽の膨らみでその部分を理解できる。
そのあとの展開だが、第1幕では舞踊は踊り手に振り付けられていたのだが、ここにきて、歌い手と舞踊がどうも同じことをしはじめた。つまり、踊り手と同じような動きを歌い手がする。だから二人で一つの意味合いの振り付けとなる。踊る部分はソリストにはできないが、第2幕のストーリーは動きの少ないもので、同時に動き合うのも容易な箇所が多い。
同じことを、一人の役を、二人でする。というのはどうなのか。
一瞬、分身、影法師のように見える個所もあり非常に興味深かった。

クムダを失った失意でボロボロの王子と、傷ついたフラワリング・ツリーから戻れないクムダの出会いは、オペラなら劇的に表現されるはずだが、ここはあくまでも淡々と進行し、最終局面で第4回目の変身は、元に戻る変身でハッピーエンドとなるが、音楽はなぜかブラスの強烈な不協和音のトーンが響き渡り、その耳障りな不協和音のみ解決されはしたが、落ち着かないハーモニーのさらなるブラス強奏でエンディングとなる。
第2幕57分。

音楽にひらめきはあったのか。
あったと思う。
聴き手をつかんで離さないのは、オペラという目に見えるもののせいだけではなく、音だけで十分ひきつけるものを持っていると感ずる。
演技はむしろイメージであり、その意味ではパルジファルの舞台がイメージという補助的要素だけでしか意味合いを持たない舞台でも成り立つのと似ている。(今時そんなパルはないが。)
響きは魅力的であり、さらにストーリーは単純であり寄り添う音楽を容易に把握できる。その意味では作曲家アダムズがいう「魔笛」との類似性を主張するのは正しいのかもしれない。

個人的な理由で大友の棒はここ10年ほど聴いていなかったのだが、このオペラの日本初演のイベントに抗することができずに聴いてしまった部分もあるが、結果的には大正解。
東響を振る大友の棒は明快で、やや、下に大振りで堀が深いが、今日のような暗いオーケストラ位置では棒を持った方がいいのではないか、と思われる局面もあったが、おしなべて立派で、スコアの把握が音楽への共感からきているものであり十分納得できる音楽づくりであったと感ずる。(比較できるものをもっていないが)
オーケストラは各トップの技が正確。オーケストラが目立たない照明演出であるためあまりわからないが素晴らしい演奏が自然に、まるで何回も演奏してきているかのように自然に、なされた。

オベイションが10分以上続いたが、それは正しいものだ。
それにしても、レディーファーストしないセラーズ。決して傲慢には見えないし、実際のところ日本人風にぺこぺこしたりして愛嬌があったりするが、レディーファーストしないというよりも、なんだか、あれって自分がアダムズで、自分の曲に使った駒たちを動かしている、といった信念が、錯覚があのような態度になって自然に出てくるんだねぇ。きっと。
気持はわからなくはないが、今日はプレ・コンサートトークでもかなりエキサイトして熱弁を30分以上奮っていたし、なにか興奮状態だったのかもしれない。今はいい。
この曲が、このプロダクションが、セラーズのプロダクションが(新たなものも含め)、今後どれだけ多くの劇場でレパートリー化されるのか、日本は作曲後かなり早めの上陸であったわけだが、評価の方向性を決めるひとつの演奏であったことは確実。
今は、明日もう一度上演される、といわれたら行くだろう。
おわり