「見る」ことによって、保護霊のあるその地との接触は、すでに行われているのである。〔人麻呂の羈旅歌のうちここで挙げた〕三首いずれも、ただの叙景の歌ではなく、叙景的意識をもつものではない。「見る」ことの呪歌的性格は、「見れど飽かぬ」という表現によっていっそう強められる。 (「第一章 比較文学の方法」、17頁)
すなわちある対象を視界に取り上げてそれと意識する=「見る」こと即「言祝ぐ」ことであり、客観的に対象を認識することではない。そしてそれを詩に詠うことは客観的な描写を意図したことでもない。
祝頌詩においては、『瞻〔=見〕る』という行為的な語を着けなくても、存在するものの秩序的な状態、その存在態をいうことが、すなわち魂振りや祝頌的意味をになうものとされた。(同、22頁)
(中公文庫版 2002年9月)
すなわちある対象を視界に取り上げてそれと意識する=「見る」こと即「言祝ぐ」ことであり、客観的に対象を認識することではない。そしてそれを詩に詠うことは客観的な描写を意図したことでもない。
祝頌詩においては、『瞻〔=見〕る』という行為的な語を着けなくても、存在するものの秩序的な状態、その存在態をいうことが、すなわち魂振りや祝頌的意味をになうものとされた。(同、22頁)
(中公文庫版 2002年9月)