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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

鍾嶸 『詩品』

2016年11月20日 | 文学
 曹旭注『詩品集注』で読む。
 「序」以外しょうもない。「いい」「わるい」「すばらしい」といった、範囲も意味内容も限られた価値判断の形容句と評価ばかり、あとそれを補うために感じだけの擬態語、そして読み手への説得力を増すための典拠のおびただしい使用。具体的にどこがどうだからそうだという説明がないからしょうもないと言った。その原因は、そのための発想と語彙表現がなかったからではないか。

(中国 上海古籍出版社 1994月10月)

白川静 『詩経 中国の古代歌謡』

2016年11月20日 | 抜き書き
 『古今集』の仮名序に、この六義〔引用者注。風・雅・頌・賦・比・興〕のうち賦を「かぞへ歌」、比を「なずらへ歌」、興を「たとへ歌」と訳している。賦は直叙、比は比喩と解してよいと思われるが、興を「たとへ歌」としているのは隠喩の意味であろう。『詩経』の最も古い注釈書である『詩毛伝』にも、興の体のものには特に「興なり」といい、その隠された意味について説明を加えているが、そのため詩篇の解釈は謎解きのような方向をたどることになった。〔中略〕こういう見当外れの解釈は、いわゆる興とよばれる発想法の本質が見失われ、また当時の表現法が無視されたための誤解である。
 興はわが国の枕詞や序詞と似た起源をもつ発想法であり、古い信仰や民俗を背景にもつ表現である。興の本質が明らかとなれば、多くの詩篇はすなおに解釈され、その歌謡としての生命を回復することができよう。 (「序章」本書14-15頁、下線は引用者、以下同じ)

 風雨のような自然の現象が歌われているときでも、それはある心的な状態の比喩としてではなく、具体的な事実の象徴であった。表現と事実とは、表現されたものがそのまま事実であり、両者は分離することを許されないという融即の関係にあるものであった。
 (「第一章 古代歌謡の世界」本書52頁)
 
(中公文庫版 2002年11月 もと中央公論社 1970年6月)