運動家は、おのれの理想を実現するために行動を行う人である。その行動によって働きかける対象たる現実の現状(=事実)認識は一過程にすぎない。認識を決定したうえで本来の活動に取りかかるわけである。現実や事実は、彼らの行動の基礎であるけれども、それは同時に、土台にすぎないと言ってもいい。当然その認識作業は一定の時と処で止まる。行動へと移るに十分と判断された段階でである。あるいはあらかじめ定められた理想、もしくは行動決定の結論を裏付けるに必要にして十分との認識が得られた時点でである。
だがそれは必ずしも客観的な現実や事実とは一致しない。
こう考えれば、たとえば、私の領域から例を引けば、アムドを青い梅と書くというのもその現れと解釈できる。青い海であろうが青い梅であろうが、そんなことはたいした問題ではないだろう。あるいはウイグルという民族名を地名に使おうと、あるいは東トルメキスタンとか東トルクメニスタンとか果てはウルグアイとかと呼ぼうと、それはたんにシニフィアンの間違いであって、シニフィエを正しく指しているのであるからなんの問題もないのである。かの人々にいわせればじつに些末な問題であろう。私も彼らの立場に身を置けば、それが実体として何を指しているかが明らかならば、名称の言い間違い憶え間違いなど、まさに重箱の隅をつつく類いの、大局とは関係のない、つまらない揚げ足取りだと思うであろう。
ただここで、個人的に同時に、少しく思うのである。そのシニフィエとレフェランの同一不同一を考えるべきではないかと。だがこれは研究者が思索する問題あるいは担当する領域であって、運動家のそれではなく、彼らの責でもない。
だがそれは必ずしも客観的な現実や事実とは一致しない。
こう考えれば、たとえば、私の領域から例を引けば、アムドを青い梅と書くというのもその現れと解釈できる。青い海であろうが青い梅であろうが、そんなことはたいした問題ではないだろう。あるいはウイグルという民族名を地名に使おうと、あるいは東トルメキスタンとか東トルクメニスタンとか果てはウルグアイとかと呼ぼうと、それはたんにシニフィアンの間違いであって、シニフィエを正しく指しているのであるからなんの問題もないのである。かの人々にいわせればじつに些末な問題であろう。私も彼らの立場に身を置けば、それが実体として何を指しているかが明らかならば、名称の言い間違い憶え間違いなど、まさに重箱の隅をつつく類いの、大局とは関係のない、つまらない揚げ足取りだと思うであろう。
ただここで、個人的に同時に、少しく思うのである。そのシニフィエとレフェランの同一不同一を考えるべきではないかと。だがこれは研究者が思索する問題あるいは担当する領域であって、運動家のそれではなく、彼らの責でもない。