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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

研究者と運動家の棲む世界の違いについて

2016年11月24日 | 思考の断片
 運動家は、おのれの理想を実現するために行動を行う人である。その行動によって働きかける対象たる現実の現状(=事実)認識は一過程にすぎない。認識を決定したうえで本来の活動に取りかかるわけである。現実や事実は、彼らの行動の基礎であるけれども、それは同時に、土台にすぎないと言ってもいい。当然その認識作業は一定の時と処で止まる。行動へと移るに十分と判断された段階でである。あるいはあらかじめ定められた理想、もしくは行動決定の結論を裏付けるに必要にして十分との認識が得られた時点でである。
 だがそれは必ずしも客観的な現実や事実とは一致しない。
 こう考えれば、たとえば、私の領域から例を引けば、アムドを青い梅と書くというのもその現れと解釈できる。青い海であろうが青い梅であろうが、そんなことはたいした問題ではないだろう。あるいはウイグルという民族名を地名に使おうと、あるいは東トルメキスタンとか東トルクメニスタンとか果てはウルグアイとかと呼ぼうと、それはたんにシニフィアンの間違いであって、シニフィエを正しく指しているのであるからなんの問題もないのである。かの人々にいわせればじつに些末な問題であろう。私も彼らの立場に身を置けば、それが実体として何を指しているかが明らかならば、名称の言い間違い憶え間違いなど、まさに重箱の隅をつつく類いの、大局とは関係のない、つまらない揚げ足取りだと思うであろう。
 ただここで、個人的に同時に、少しく思うのである。そのシニフィエとレフェランの同一不同一を考えるべきではないかと。だがこれは研究者が思索する問題あるいは担当する領域であって、運動家のそれではなく、彼らの責でもない。

坂口祐三郎著  新赤影製作評議会編 『坂口祐三郎 赤影 愛と復讐』

2016年11月24日 | 映画
 この本は、正確には著者坂口氏にインタビューしての聞き書き+フィルモグラフィー。
 坂口氏は、そのなかで、役者というのは「自分じゃない他人をいつもやってるわけ」だから、「そういう神経の分散ができるってのは」頭がおかしい人間でないと勤まらないと仰っている(本書135頁)。
 それはそうかもしれない。

 つまり気違いが普通のことやるから面白いんでしょう。普通の人が普通のことやって面白いですか。何も面白くない。 (136頁)

 作る側も、みんな変だった。 (136頁)

 (自分の子供を作らないのは復讐だというのを)言いたいのはこっちであって、それを理解するかしないは相手の問題であってね、承前)いちいち理解してもらわなくたっていですよ。だって気違いの言っていることを、まともな奴にわかれって言うのも無理じゃないですか。 (138頁)

 訳者もそうかもしれない。「自分じゃない他人をいつもやってる」のは同じである。
 学者もそうだろうと思う。「普通の人が普通のことやって面白いですか。何も面白くない」。

(ワイズ出版 1999年9月)