書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

『礼記』鄭玄注と『論語』宮崎市定訳と

2016年11月03日 | 人文科学
 『礼記』を鄭玄注で読んでいるが、つらい。「○は△である」という語釈に基本的に根拠がない。「○○は××という意味だ」という句(表現ないし文)の解釈(というより敷衍)も同様。因みに具体的な名物に関する「○○○は△×△×といったものである」という説明も、それが本当かどうか判らない。
 宮崎市定『論語の新研究』(「第二部 考証篇」)も相当つらかった。『論語』には孔子の言葉を前後の文脈なしに取り上げた、いわば断簡零墨ともいうべき性質の部分もだいぶあり、そういったくだりは、そこで使われている言葉の正確な意味が確定できない。その語あるいは句あるいは文を、言語として理解するために十分な情報がないのであるから「わからない」とするしかないのに、どういうわけか根拠も示さず断定的に解釈を下しておられるところがだいぶあって、疲れた。
 たとえば端的に「衛霊公第十五」の「子曰。道不同。不相為謀。」だが、これを、「子曰く、職業が異なった同士の間では、商賣の相談をしあわない」(339頁)と翻訳される。しかし、どうしてそう解釈すべきなのか、さっぱりわからない。
 宮崎御大はまだしもなほうだが、それでも語学屋からすれば“反則”が多い。実証主義の考え方のない古代の人である鄭玄は言うまでもない。テキストはまずはテキストそれだけを読み、そこから得られる情報だけを分析し解読するのが筋である。この段階で外から勝手な情報をもってくるな。それはこの後の話だ。