書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

荷見守義 『永楽帝 明朝第二の創業者』 

2016年11月11日 | 東洋史
 出版社による紹介

 非常に教えられ、かつおもしろかった。去年翻訳の方の必要で明代史をおさらいしたとき、この時代の学界も変わったなあと思った。以前は、極端に言えば「社会経済史にあらざれば人にあらず」という感じだった。というより、「明清にあらざれば人にあらず」だった。30年ほど前、ある古代史研究の大家が、「明清(研究者)というのは、他人(他時代、他分野)の研究を読まずに勝手なこと言っている人たちだ」と苦笑まじりに評しておられた。私もそう思ったが、いまはどうか。諸行は無常で、そのような者は久しからざりけるか否か。

(山川出版社 2016年7月) 

村元健一 『漢魏晋南北朝時代の都城と陵墓の研究』

2016年11月04日 | 東洋史
 中国のウェブサイトによる内容紹介

 西高穴2号墓に関して、「公表されている資料から見る限り、これを〔曹操の〕高陵以外のものと考えることは困難であると考える」と結論される(「第二篇第一章曹魏西晋の皇帝陵」本書266-267頁)。だが同時に、このくだりに付された注(4)において、例の「魏武王常所用」云々の石碑の“魏武王”および“常所用”について、「筆者も解釈をしがたい」(同288頁)と、断っておられる。
 だがこの解釈を行わずにこの結論は導き出せるのかどうか。実際のところ、氏は自らのそのうえに立った議論を展開するために、前提あるいは公理として同墓=曹操の陵墓を置かれておられるようにも思える。

(汲古書院 2016年8月)

李商隠 維基百科

2016年11月04日 | 伝記
 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%95%86%E9%9A%90#.E6.96.87.E5.AD.A6.E6.88.90.E5.B0.B1

  李商隱的詩經常用典,而且比杜甫用得更深更難懂,而且常常每句都用典故。他在用典上有所独创,喜用各種象徵、比興手法,有時讀了整首詩也不清楚目的為何。而典故本身的意义,常常不是李商隐在诗中所要表达的意。

 そんなことより”象徵symbol”や”比興trope”が古代漢語の修辞法に印欧語そのままの概念で同じく存在するという証明はできているのか。なぜ彼が典故を多用するか(それも僻典まで)の答えは?
 李商隠関連の論考と著書数本を読んだ。李の「文体」を専心に探究するものにはいまだ当たらず。朦朧たる彼のスタイルはなぜ朦朧としているのか?いかにして朦朧たりえているのか?等の疑問あり。

『礼記』鄭玄注と『論語』宮崎市定訳と

2016年11月03日 | 人文科学
 『礼記』を鄭玄注で読んでいるが、つらい。「○は△である」という語釈に基本的に根拠がない。「○○は××という意味だ」という句(表現ないし文)の解釈(というより敷衍)も同様。因みに具体的な名物に関する「○○○は△×△×といったものである」という説明も、それが本当かどうか判らない。
 宮崎市定『論語の新研究』(「第二部 考証篇」)も相当つらかった。『論語』には孔子の言葉を前後の文脈なしに取り上げた、いわば断簡零墨ともいうべき性質の部分もだいぶあり、そういったくだりは、そこで使われている言葉の正確な意味が確定できない。その語あるいは句あるいは文を、言語として理解するために十分な情報がないのであるから「わからない」とするしかないのに、どういうわけか根拠も示さず断定的に解釈を下しておられるところがだいぶあって、疲れた。
 たとえば端的に「衛霊公第十五」の「子曰。道不同。不相為謀。」だが、これを、「子曰く、職業が異なった同士の間では、商賣の相談をしあわない」(339頁)と翻訳される。しかし、どうしてそう解釈すべきなのか、さっぱりわからない。
 宮崎御大はまだしもなほうだが、それでも語学屋からすれば“反則”が多い。実証主義の考え方のない古代の人である鄭玄は言うまでもない。テキストはまずはテキストそれだけを読み、そこから得られる情報だけを分析し解読するのが筋である。この段階で外から勝手な情報をもってくるな。それはこの後の話だ。