市古教授退官記念論叢編集委員会編『論集近代中国研究』(山川出版社 1981年7月)所収。
ゴロヴィーンは自分が清側に押しまくられて自分の携えてきていた訓令案をすべて出すこともなく早々に相手の要求どおりに妥協してしまったことを隠すために、報告書に嘘ばかり書いていたらしい。
なお交渉はラテン語とモンゴル語で行われた。当時のヨーロッパの外交文書はラテン語であったし、当時国際法の知識もなく、西洋式の外交交渉にも不慣れな清側(満洲人)を補佐したのがイエズス会士であったことを考えると、交渉においてラテン語が使われたのは当然であるが、ロシア人と満洲人の間で使われたのがモンゴル語というのが、不思議である。どちらもモンゴル帝国の後継国家であるロシアと清朝の本質を示唆しているようでもあって興味深い。当時のロシアは清朝皇帝を「ボグド・ハーン」或いは「黄色いハーン(ツァーリ)」と呼んでいた。対するに清側は、ロシア皇帝を「チャガン・ハーン(白いハン)」と呼んでいた。
(同書 555-580頁)
ゴロヴィーンは自分が清側に押しまくられて自分の携えてきていた訓令案をすべて出すこともなく早々に相手の要求どおりに妥協してしまったことを隠すために、報告書に嘘ばかり書いていたらしい。
なお交渉はラテン語とモンゴル語で行われた。当時のヨーロッパの外交文書はラテン語であったし、当時国際法の知識もなく、西洋式の外交交渉にも不慣れな清側(満洲人)を補佐したのがイエズス会士であったことを考えると、交渉においてラテン語が使われたのは当然であるが、ロシア人と満洲人の間で使われたのがモンゴル語というのが、不思議である。どちらもモンゴル帝国の後継国家であるロシアと清朝の本質を示唆しているようでもあって興味深い。当時のロシアは清朝皇帝を「ボグド・ハーン」或いは「黄色いハーン(ツァーリ)」と呼んでいた。対するに清側は、ロシア皇帝を「チャガン・ハーン(白いハン)」と呼んでいた。
(同書 555-580頁)