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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

鄭観応著 野村浩一訳 『盛世危言』(1893年)から

2008年05月22日 | 抜き書き
 西順蔵編『原典中国近代思想史』第二冊、岩波書店、1977年4月所収(抄訳)から。

“議政院〔議院、議会〕というものを考察してみるのに、各国ではいくらか相違があるものの、おおむね上下の両院にわかれるという形からはずれるものはない。近いという点からいえば、上院は、その国の王族、勲功ある親族、及び各部の大臣をばこれに任命する。君主に近いという点を取るのである。他方、下院は、紳士、名望家、士民、商民のうち才能にすぐれ、人望の厚いものをこれに充てる。民に近いという点を取るのである。選挙の法は、ひとえに公衆を中心とする。国事にかかわる事がらが起これば、先ず下院で審議、決定させ、上院に通達させる。上院はこれを審議、決定して、国君に奏上し、こうして採否を決する。もし意見が喰い違えば、両院は重ねて論議し、妥協に達するようつとめて後、これに従う。経費がどれほどになっても、議院がこれを定め庶民はそれに従う。” (「議院」、本書75頁)

 →『アジア歴史事典』「鄭観応」項(市古宙三/広瀬洋子執筆)から。
 「彼が国力を伸張する根本と考えたものが、君民一体、上下一心の治をいたす議会政治にあり、その主張がすでに80年に刊行された〈易言〉にみられる点はとくに注目に値する。」

金と貨幣と金本位制についての抜き書きと感想

2008年05月21日 | 抜き書き
●John Kenneth Galbraith 『Money: Whence it came, where it went』(London, Penguin Books, 1989)
●湯浅赳男 『文明の「血液」 貨幣から見た世界史』(新評論 1988年7月)
●吉沢英成 『貨幣と象徴 経済社会の原型を求めて』(筑摩書房 1994年6月)
●三上隆三 『貨幣の誕生 皇朝銭の博物誌』(朝日新聞社 1998年1月)
から。
 文中、太字は引用者による。

"For some four thousand earlier years there had been agreement on the use of one or more of three metals for purposes of exchange, three being silver, copper and gold, with silver and gold being also once used in the natural combination called electrum." (Galbraith, Chapter 2, 'Of Coins and Treasure,' p. 17)

“貨幣にしても金銀にしても、文明のもとで初めて誕生したわけではない。(中略)貨幣は原始社会においても絢爛と存在していたし、金はおそらく人類は着目した最初の金属であったろうと思われるが、しかし、いずれもこれらは多くの財の中の一つ以上のものでも、以下のものでもなかったのである。この二つの財が突出してくるのは古代帝国のもとにおいてである。そしてペルシャ帝国の辺境のリュディアにおいて貨幣と貴金属が結合して打刻コインが誕生し、たちまちのうちに権力の枠組すら突破していったのである。なお、コインの誕生は単に西アジアにおいてのみならず、東アジアにおいても行われた。さまざまな可能性があったとしても、そこでは銅銭を中心とした鋳造コインが誕生し、中国文明の西ヨーロッパへの屈服にいたるまで存在を続け、後には銀地金の貨幣的使用が普及したが、ついに両者の結合は行われなかった。以上のコインの二つの型は文明のタイプでもあって、今日に至るまで、その特徴を保持しているものである。” (湯浅、「まえがき」、3頁)

“ポランニーが述べているように、「いかなる対象もそれ自体で貨幣ということはなく、適当な分野の何らかの対象が貨幣として機能することができるのである。実際、貨幣は言葉、文字、度量衡と同様な一つのシンボル体系である。これらがそれぞれ異なるのは、主にそれが利用される目的、実際に使用される記号、それは単一の統一された目的を表示している程度、によるのである」。つまり、貨幣はその原始において経済の領域ではなく、いや、むしろ経済とはかかわりないシステムとして始まったとしたほうが正確であろう。それはまさにもろもろの人間的価値にかかわるものであるから、これら人間的価値と貨幣素材との関係はいわゆる記号内容と記号形態のそれのように恣意的であるとしか言いようもあるまい。” (湯浅、「第1章 文明と貴金属の勝利」、39頁)

“金を貨幣にしているのは、その時代、その社会の観念、すなわち集合表象に負っているのであり、時代を超え、一社会を超えても金が貨幣でありうるのは、さまざまな集合表象が金において繋留し、金を至上のものとするグローバルな集合表象が形成されているからである。金が貨幣であるのは、金そのものの素材性にあるのではなく、その素材にまといついた至上性の観念表象、個人的ではなくて集合的な表象にある。その意味で金貨幣も、究極のところ集合表象という制度に拠って立っているのだ。ただ、この制度は人類の無数に近い営みと想念がこの中でくり広げられた歴史の重みで、実体化されるまでに至った慣習であり、観念表象なのである。金貨幣に素材性をみたり、実体性をみるのは、この制度の歴史的重みを指摘しているのである。すなわち金貨幣における素材性とは歴史の重みをもった制度性〔原文傍点〕のことにすぎない。” (吉沢、「第十章 貨幣における管理と本位」、300頁)

“西欧社会では、絶対的には人口の少ない種々の民族が入り乱れて拮抗し、多くの国々が興亡を繰り返した。また、同一民族が多数の都市国家を形成し相互に独立性を保つことも多かった。このような社会にあって国家は経済的に相互依存しなければならず、そのために交易は必要不可欠である。のみならず戦争とその後始末のためにも、貨幣は諸国家の独立性をも貫通するものである必要があった。したがって貴金属たらざるをえなかったし、また貴金属のみがその役割を果たすことができたのである。貨幣は当初から国際性をもたざるをえなかったわけである。西欧のいかなる王・支配者も中国の皇帝のように広域に貨幣を流通させる強制力は持たず、したがって他都市・他国へ、強制力ではなく貨幣の自力によって流通させるためには、金銀貨たらざるをえなかったのである。/これに対し広大な土地と自民族とで形成される中国では、他国との経済的交易は絶対的なものではないので、貨幣は自国経済のための貨幣であり、したがって銅貨で事足りるのである。それだけではない。中国は近隣弱小諸国の宗主国としてより広い地域にも強い影響力を持ち、この地域には国際通貨そのものとして、中国銅貨は無条件無制限に流通した。” (三上、「金銀銅の東と西」、82-83頁)

 どうして金が貴金属のなかで最も価値あるものと考えられているのかという疑問には、結局、「昔からそうなっているから」という答えしか用意されていないらしい。
 伝統中国では玉を金よりも上位に置く通念=集合表象が存在した。それが「金を至上のものとするグローバルな集合表象」(吉沢氏)に統一されたのは、つまりは「中国文明の西ヨーロッパへの屈服」(湯浅氏の言葉)の結果であるらしい。

思考の断片の断片(56)

2008年05月21日 | 思考の断片
 劉暁波『現代中国知識人批判』(野沢俊敏訳、徳間書店、1992年9月)に曰く、

 中国の知識人は、「ただ暗君と貪官に反対するだけで、専制主義には反対しない」(28頁)。彼らの否定は「現存の体制に根底からは手をつけないという前提のもとになされ」(8頁)る。彼らの忠誠は「主人と奴隷の関係の上に打ち建てられ」(44頁)たものである。

 江戸時代後期薩摩藩のお家騒動、秩父崩れ(近思録崩れ)の記録『文化朋党実録』から抜き書き。

“御目附・秩父太郎・同清水源左衛門・同若松平八共ニ御役被差免慎被仰付。
 太郎名ハ季保、故ノ御目附伊地知新太夫季 ガ子ナリ。季 本姓川上氏、父ヲ彌右衛門ト云。仕官未考ヘス。兄ヲ彌三太ト云。後甚太夫ト改称ス。今ノ甚左衛門カ承重祖ナリ。仕テ長嶋移地頭タリ。季 出テ伊地知新太夫季周 伊地知越右衛門重 ガ次子ナリ。身族ヲ別シ、仕テ御側御用人タリ。寺社奉行ニ遷ル。今ノ越右衛門ガ義曹祖 ナリ。 ガ嗣トナル、故ニ伊地知氏ヲ冒ス、故ノ京都御留守居東郷源五實孝 今ノ次郎太郎カ養曽祖父ナリ ガ女 名ハ久 ヲ娶テ、安永三年 甲午 ノ歳ヲ以季保ヲ 府下平馬場ノ宅ニ生ム。季保幼ニシテ三七ト称ス。早ニ父ニ嗣テ伊地知氏ヲ継ギ新太夫ト改称ス。寛政元年 已酉 十一月 九日 十六歳ニシテ御近習番トナル。三年 辛亥 正月 十一日 奥御小姓ニ改ラル。 内朝ニ給事スル事トモ五年ナリ。五年 癸丑 七月 廿五日 御目附ニ遷サル。時ニ二十歳。八年 丙辰 伊地知氏ノ宗子秩父十太夫将種 将種ハ秩父氏ノ庶族弾正少弼季随ガ後ナリ。世々伊地知ヲ以テ氏トス。勘助重直ニ至テ始テ秩父氏ニ改ム。先祖大隈今ノ垂水ヲ領シ一所衆ニ列ス。子孫反ヲ謀ツテ邑ヲ(将種ガ曽祖父)収メラル。其後爵ヲ降シテ小番トス。将種仕エテ櫨方検者タリ。病テ旦ニ死セントス。遺言シテ季保ヲ以テ後トス。三月 廿一日 季保、命ヲ請ウテ将種ガ後ヲ継キ、改メテ秩父氏ヲ冒ス。十年 戊午 十一月 廿四日 太郎ト改称ス。季保性剛強ニシテ撓ス。法ヲ執ルコト厳刻ナリ。其道ニ非ザレハ一毫モ人ニ貸サズ。貴戚ト雖トモ避ル事ナシ。先是 享和元年 国老大目附ヲ令シテ御目附・郡奉行ヲ遣シテ諸郷ヲ巡リ、民ノ貧富ヲ視セシム。大目附新納内蔵久命、季保等ヲ台子ノ間ニ召シテ是ヲ命ス。皆敬テ命ヲ聴ク。季保独肯セズシテ曰ク、「民貧キコト有テ富メルコト無シ。行テ視ルヲ待ズ」ト。久命怒テ曰ク、「我国老ノ令ヲ承テ子ニ命ス。而ルニ子是ヲ拒ム、豈令ニ従ハザルカ」。季保曰ク、「令ニ従ハザルニ非ズ。某辱ク御目附ノ員ニ備ハル。聞見スル所敢テ告サズンハアラズ。」ト。久命辞屈ス。同幕島津登久兼傍ラニアリ曰ク、「子郡奉行ニ非ズ。何ヲ以テ民ノ貧富ヲ知ン」。季保曰ク、「方ニ今苛政大ニ行ハレ民皆生ヲ聊セズ。五尺ノ童子モ是ヲ知レリ。豈郡奉行ヲ侍ン。」ト。辞色並ニシ。久兼等怒甚シト雖ドモ皆答ルニ辞ナシ。季保退ク。久命、本田助之丞 季保ガ同僚。時ニ月番ヲ以テ事ヲ大目附座ニ執ル。ヲ召シテ曰ク、「季保令ヲ聞テ唯セズ。言ヲ発シテ敬セズ。宜ク諭シテ罪ヲ侍シムベシ」。助之丞以テ季保ヲ促ス。季保以為、罪ヲ侍シテ理ナシト。私ニ清水盛之ニ謀る。盛之慫慂シテ曰ク、「吾子言フ所其位ヲ出ズ。何ノ罪ヲ待ツ事カ有ン。」ト。若松平八モ亦是ニ雷同ス。季保遂ニ固ク執テ従ハズ。久命乃チ実ヲ以テ国老山田伯耆有儀ニ告グ。有儀素ヨリ其強直ヲ悪ム。因テ上ヲ侮リ法ヲ罔スルヲ以テ劾ス。是ニ至テ遂ニ職ヲ罷ラレ家ニ閉塞セラル。是歳季保二十九歳。” (享和二年 壬戌(1802)正月十六日条)

 (青柳 俊二氏のホームページ 「あゆみ(歩)」より転載)
 (http://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/zituroku_01.htm)

 周恩来は、終生、毛沢東の信任を失うことを恐れた。これを高文謙氏は、「晩節を全うしようとした」あるいは「晩節を汚すことを恐れた」と表現している(『周恩来秘録』上下、文藝春秋、2007年2月)。

“毛主席に従わなければならない。毛主席は今日指導者であり、百年後も指導者である。晩節が忠でなければ、すべて帳消しだ” (「第二章 文化大革命がはじまる」にひく周恩来の演説、1966年5月21日、同書上巻144頁)

 だが主君に最後まで迎合し忍従することが「晩節を全うする」ことになるのだろうか。もしそうであるとするなら、この秩父太郎など、まさに「晩節を汚した」ことになろう。私には秩父の生涯こそが、まさに「晩節を全うした」一生に映るのだが・・・・・・。

ブログ『玄倉川の周辺』から

2008年05月21日 | 抜き書き
▲「グリーンピースの「鯨肉横領」告発は「善光寺聖火リレー辞退」より注目されているらしい」(2008年05月20日)から。

“海外の捕鯨反対派は「調査方法には問題があるかもしれないが、告発は正義に適っている」と考えるだろう。日本の当局者があいまいな調査でごまかすようなことがあれば決して納得しないだろう。”

“自分がたとえばオーストラリア人の捕鯨反対派だと想像してみる。/今回のグリーンピースの行動は英雄的で立派なものだと思うはずだ。例えるなら「危険な化学工場から市民活動家が不正の証拠を持ち出してきた」場合と同じくらい拍手喝采する。「危険な化学工場」が適当な言い逃れをするのを決して認めないだろう。”

“今回の事件で日本国内の世論が「グリーンピースけしからん」で固まっているのを見た外国人は、チベット紛争問題で中国人が「ダライラマけしからん」で団結しているのを見るのと同じような薄気味悪さを感じるかもしれない。”

 成程と首肯す。

(http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa)

思考の断片の断片(55)

2008年05月17日 | 思考の断片
▲「毎日jp」2008年5月15日12時02分(最終更新5月15日12時45分)、「調査捕鯨:船から肉持ち出す NGOが乗組員12人告発へ」
 →http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080515k0000e040056000c.html

“東京都内で15日会見したグリーンピース・ジャパンの佐藤潤一・海洋生態系問題担当部長は「内部告発があり、今年1月から調査していた。持ち出しは、関係者の間では公然の秘密」と話した。配送する箱を宅配業者から無断で回収した調査方法については「横領行為の証拠を入手するためで問題ない」と説明している。”

 「横領行為の証拠を入手するためで問題ない」とは、「正義のためなら犯罪を犯してもそれは犯罪にはならない」ということであるか。

▲「池田信夫 blog」2008-05-17 、「グリーンピースの犯罪」
 →http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b889ea2c7fa9dbc452c9c06a9720c5e5

 グリーンピースもそうだが、シーシェパードも、もしかして日本人を「正しい人類」だとは思っていないのかしらん。

臼井勝美/NHK取材班 『張学良の昭和史最後の証言』から

2008年05月16日 | 抜き書き
“一二月一一日の晩、東北軍軍長会議が開かれ、私もそれに参加していました。張学良はそこで兵諫を実行するという命令を下しました。私に与えられた任務は臨潼の華清池に行って、蒋介石委員長をお連れする、つまり捕まえるというものでした。そして、どんなことがあっても、蒋介石を傷つけたり殺してはならない、ということでした” (「第四章 運命の西安事件」、孫銘九インタビュー、本書190頁)

(角川書店 1991年8月)

Wikipedia(English) "Xi'an Incident" から

2008年05月16日 | 抜き書き
"The winds began to change his way after Stalin gave his guidance on this incident. Stalin believed that Chiang's execution would not be beneficial to either Chinese resistance to Japan or Soviet interests in the Far East. Desperately in need of Soviet aid, Mao relented to Stalin’s opinion and showed his enthusiasm for peace talks. On 17 December 1936, the CPC delegation was sent to Xian and met with Zhang and Yang to find a peaceful resolution. On 22 December 1936, Madam Chiang and her elder brother T.V. Soong flew to Xian to meet the CPC delegation, Zhang, and Yang. On 24 December 1936, the parties reached an agreement to establish a united front against Japan and to release prisoners accused of inciting anti-Japanese riots. The next day Chiang and his entourage were released. Zhang escorted him back to Nanjing, although Zhou expressed his concern."

(http://en.wikipedia.org/wiki/Xi%27an_Incident)

J・M・バートラム著 岡田丈夫/香内三郎/竹内実訳 『西安事件 抗日民族統一運動の転機』

2008年05月16日 | 東洋史
 Wikipedia(英語)に著者の項目あり。
 →James Munro Bertram, http://en.wikipedia.org/wiki/James_Munro_Bertram

 この西洋人ジャーナリストは、同時期に中国で活動したスメドレーやスノーとはいささか毛色を異にする。
 親中・反日という点は同じだが、後の二人のように中国が好きで日本を嫌いなあまり「田中メモランダム」を鵜呑みにするというところがない。バートラムは、真偽は不明として措いていて、心理的な平衡を失っていない。
 そして好奇心に自己規制がなく、「何でも見てやろう」式なところ、後の二人よりおもしろい。

 ところで、

●谷良平訳『内乱から革命へ―中国の転機・西安事変』(三一書房 、1953年)
●谷良平訳『中国革命の転機―西安事変の記録』(未来社、1966年)

 先行するこれら二翻訳につき、岡田氏のあとがき「解題 いわゆる『西安事件』とはなにか」で全く言及するところがないのは何故か。

(太平出版社 1973年12月) 

小野川秀美 『清末政治思想研究』から

2008年05月16日 | 抜き書き
“西学の基礎に算学をおくというこの考え方は、日清戦争の頃に至るまで、西学に志すものの一般的な通念であった。” (「第一章 清末洋務派の運動」、本書27頁)

“変法論の成立過程は、西洋の議会制度に対する関心の度合に比例している。” (「第二章 清末変法論の成立」、本書102頁)

(東洋史研究会 1960年3月)

ジョナサン・スペンス著 三石善吉訳 『中国を変えた西洋人顧問』から

2008年05月16日 | 抜き書き
“中国人は内燃機関の構造を理解できないかもしれない。しかし、彼らは人間を鋭く観察し、即座にその人物がなぜそんな行動をとるのか見ぬいてしまう。彼らは数千年にわたって人間の本性を重視してきたから、その道のエキスパートなのである。” (本書280頁に引くクレア・リー・シェンノートの発言)

(講談社 1975年9月)