〔88〕の④「A――之謂B――。A――を之れB――と謂ふ。〈A――をB――という。BとはAのことである。〉」(170頁)。この文型がいまだによくわからない。通常はBが主語、Aが目的語とされるが(つまり倒置であると)、本当にそうか。主語・述語ではなく、主題語・説明語の概念で考えれば、どちらが主題語でどちらが説明語なのであろう。
A之謂Bを、「B也者A之謂(也)」の倒置(という言葉は使っていないが)と主張した先人の一人に戴震がいる。
古人言辭,「之謂」「謂之」有異:凡曰「之謂」,以上所稱解下,如中庸「天命之謂性,率性之謂道,脩道之謂教」,此為性、道、教言之,若曰性也者 天命之謂也,道也者率性之謂也,教也者脩道之謂也;易「一陰一陽之謂道」,則為天道言之,若曰道也者一陰一陽之謂也。凡曰「謂之」者,以下所稱之名辨上之實,如中庸「自誠明謂之性,自明誠謂之教」,此非為性教言之,以性教區別「自誠明」「自明誠」二者耳。 (『孟子字義疏証』「巻中 天道四条」。テキストは中國哲學書電子化計劃のそれによる)
だが私には「之謂」の“以上所稱解下”と、「謂之」 の“以下所稱之名辨上之實”の区別がよくわからない。いや、わかるのだが、それほど大きな違いがあるとは思えないのだ。だがそのどちらも、下が説明されるべき名であり上がその説明(一歩踏みこんで言えば定義)であることだけは確かである。つまり主題語は両者ともに説明語の後に置かれている。
(學燈社 1982年12月)
A之謂Bを、「B也者A之謂(也)」の倒置(という言葉は使っていないが)と主張した先人の一人に戴震がいる。
古人言辭,「之謂」「謂之」有異:凡曰「之謂」,以上所稱解下,如中庸「天命之謂性,率性之謂道,脩道之謂教」,此為性、道、教言之,若曰性也者 天命之謂也,道也者率性之謂也,教也者脩道之謂也;易「一陰一陽之謂道」,則為天道言之,若曰道也者一陰一陽之謂也。凡曰「謂之」者,以下所稱之名辨上之實,如中庸「自誠明謂之性,自明誠謂之教」,此非為性教言之,以性教區別「自誠明」「自明誠」二者耳。 (『孟子字義疏証』「巻中 天道四条」。テキストは中國哲學書電子化計劃のそれによる)
だが私には「之謂」の“以上所稱解下”と、「謂之」 の“以下所稱之名辨上之實”の区別がよくわからない。いや、わかるのだが、それほど大きな違いがあるとは思えないのだ。だがそのどちらも、下が説明されるべき名であり上がその説明(一歩踏みこんで言えば定義)であることだけは確かである。つまり主題語は両者ともに説明語の後に置かれている。
(學燈社 1982年12月)