1653年、済州島に漂着した
ヘンドリック・ハメルら一行は、治所済州邑の客舎にひとまず収容され、米の飯を与えられた。このことについて、本人は酷い扱いを受けたかのように書いているが(後になると放置されさらには厄介者扱いされて実際にも待遇が悪化するが)、当初のこの扱いは、朝鮮側にすれば優遇であった。なぜなら済州島は火山島で、火山灰の土壌には水がたまらず、当然ながら水田が作れず、米は外部からの供給に仰いでいたからだ。地方長官の牧使やその部下の官吏はまだしも、一般庶民には滅多に口に入らぬものであったらしい。このあいだ
済州道民俗自然史博物館で伝統的な郷土料理の展示を見てきたが、基本的に島民の主食は粟・麦・豆などの雑穀が主体であったようである。(家の屋根をふく藁も、稲ではなく粟や茅のそれであると、いまも伝統家屋に住み続けている住民を訪ねた際に聞いた。)もっともこんにちではさすがにそんなことはないが、私のリクエストに応じて一日かけて島内のあちこちを案内してくれたタクシーの運転手兼ガイドの金さんによれば、現在でも済州島で消費する米は外から買っているとのこと。
なおハメルは、済州島人が本土人から蔑視されていた旨証言している。“済州島差別”というものは、いつのころからあったのか。
(平凡社 1969年2月初版第1刷 1979年12月初版第5刷)